新選組と斎藤一について その1 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

まずはわたしを先祖探しの旅へと
導いてくれた、
斎藤一と新選組について
お話しします。


新選組といえば幕末の人斬り集団と
呼ばれることも多いので、
悪い印象を持つ方もたくさん
いらっしゃるでしょう。


たぶんに誤解されているのですが、
新選組は人斬り目的の犯罪者集団
などではなく、
現在の警察に近い組織でした。



幕末、動乱の京の治安維持に
あたっていた京都守護職会津藩の
もとで働いていたのが新選組です。


仕事はおもに京の町のパトロールです。
(のちの幕長戦争の時、
新選組も長州征伐への参加を
考えており、警察から軍隊へと
組織変換しようとしていたとみる
こともできますが、結局長州征伐に
加わることは叶いませんでした。)
不貞浪士を捕縛する一環で
斬り合いになることもまま
ありましたが、最初からいきなり殺す
ことが目的で活動していた
わけではありません。


京の治安維持にあたっていた
組織としては、他に幕臣の子弟たちで
構成された「見廻り組」というのが
ありました。


もともと幕臣という身分だった見廻り組と
違い、新選組隊士は士分出身の者
だけではなく、農民や商人出身者も
多くいました。


おぼっちゃんの見廻り組にはできない
汚れ仕事をしていた形跡もあります。


ただ、多くの人が思っているような
暴力集団というのとは違うということを
ぜひ知っていただきたいと思います。


よく言われるのが、新選組は京の人たち
から嫌われていたということですが、
確かにそのとおりです。
現在でも、新選組と聞くとイヤな顔をする
京都人が多くおられます。


しかし「京都人=新選組嫌いと思われるのは
不本意だ。自分は新選組が大好きだ。」と
話す京都人がいらっしゃることも
また
事実です。



長らく新選組ファンをしているわたしでも
かばえないほど黒い部分もあるのですが、
個人としての隊士は憎みきれない
カワイイ若者たちが多かったのです。



「ひいひいおじいさんが子供の頃、
新選組からお菓子をもらった」
なんて話を今でも耳にすることがあります。
そんな時、なんとも言えないホンワカした
気分になってしまいます。





そんな若者たちを抱えた新選組は、
戊辰戦争~箱館戦争と戦い
ながら、最期は幕府と共に
消えていきました。


大河ドラマや小説などでもよく
知られているように、
京から江戸、会津、そして箱館へと
転戦するなか、新選組局長近藤勇は
東征軍に捕縛され、江戸で処刑されました。


その後も残された副長土方歳三らは
戦い続け、会津から箱館へと向かいます。


その流転の中で副長と袂を分かち、
会津に残ったのが三番隊組長斎藤一でした。


斎藤一は、新選組はえぬき隊士の中でも
ひときわ局長副長の信頼が厚く、
副長などはハジメさんを
まるで私設秘書かなにかのように
側に置いていました。



その副長と離れ、会津に残ったほど
斎藤一は会津藩に対して深い思いを
持っていたのです。

そして会津に残った斎藤一は
その後を会津藩士として生き、
新選組は海を渡り、
北の大地で終焉を迎えました。



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