斎藤一ってどんな人?  新選組と斎藤一について その3 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

なかなか家系調査についての記述が

始まらないとお思いの方もおられるでしょうが、

今回もう一度だけハジメさんの話に

お付き合いください。



江戸で人を斬り京へやって来たハジメですが、

京では剣の腕を活かし、道場で

師範代代理などをしていたらしいです。




ハジメが京へやって来たその翌年、

文久3年。


江戸にいた頃からの知り合い、

試衛館のメンバーが、浪士組として

京へやって来ます。




ここで新選組について詳しく書くことは、

拙ブログの主旨とは離れてしまいますので

やめておきます。




浪士組から新選組が生まれ、

その結成と同時にハジメは加入します。




それからの約5年間。

ハジメは新選組大幹部として、

また剣術師範として大活躍します。


新選組の中でも指折りの剣士として、

池田屋事変、8.18政変、禁門の変、

天満屋事件、その他数々の修羅場を

くぐり抜け、また時には密偵としても活躍し、

京での5年間を駆け抜けました。



その後は歴史の教科書で習ったとおり、

戊辰戦争~明治維新を迎え、

新選組は幕府と運命を共にしました。




ハジメは会津戦争を戦った後、

会津藩降伏~斗南藩へ移住。

斗南から江戸へ帰還後は

警視庁のポリスとなりました。



その間に会津藩重臣の家の娘、

高木時尾と結婚し、三男をもうけます。


時尾という名ですが、実は本名は

高木貞といいます。

時尾というのは、容保公の義理の姉

照姫さま付きの右筆として仕えた際に

いただいたお城での名前です。

維新後、時尾の戸籍上の本名は「トキヲ」と

なっています。




江戸へ帰ってからのハジメは藤田五郎と

改名しました。

会津藩主松平容保公の命名だと伝わります。



警視庁に入庁したハジメは巡査からではなく、

いきなり警部補として採用されます。


明治10年、西南戦争には豊後口警視隊の

半隊長として出征。

激戦の中、大砲二門を分捕る

大手柄をたて、勲章をもらいました。



明治24年、警視庁を警部として退職。

その後は高等師範学校附属博物館や

女子高等師範学校に職員として勤務。


また、自宅を女子師範学校の寄宿舎とし、

妻のトキヲが舎監として女学生たちを

預かっています。


女学生たちに囲まれるハジメちゃんニコニコドキドキ


藤田夫妻には男の子三人も生まれ、

(三男は高木家の親戚に乞われ、

生まれる前からの約束で養子に出しました)

礼儀作法に厳しい会津藩士の家庭ですが、

それでもおおぜいの女学生たちとの

生活は、さぞにぎやかで華やいでいた

ことでしょう。


壬生の前川邸の大部屋でゴロゴロしてた

殺風景な新選組時代とは、

えらい違いだなぁ~。




江戸改め東京となった帝都には容保公も

お戻りになり、藤田家は容保さまのお屋敷にも

しばしば出入りを許されるほど

目をかけられていました。



子供にも恵まれ、会津藩士たちとは

元家老の山川大蔵(浩)をはじめ

生涯に渡る深い付き合いをし、

仕事面では優秀な働きぶりが

評価されて何度も表彰され、

ハジメの後半生はおだやかで

幸せに過ぎていったようです。


もちろん薩長が大手を振って歩く明治の世、

憤ることも多々あったでしょうが、

ハジメは家族を守り、会津に忠誠を尽くし、

剣士として、武士としての誇りを胸に

人生をまっとうしました。



大正4年(1915)、9月28日。

ハジメは自宅でその波乱に満ちた生涯を

終えました。

享年72。

死因は胃潰瘍です。

お酒呑み過ぎたのね汗

伝承では寝ていた身体を起し、

最後の瞬間を座ったままで迎えたそうです。



謎めいていて妖しくて強くて義理堅くて

潔癖で、いつも何かやらかして、

云いたいこともいっぱいあっただろうに

とっても無口で、最期までサムライのままで

死んでいったハジメちゃん。


もうこの言葉しか云えません。


大好きだーーー!!





そうそう、新選組隊士といえば

毎日が命懸けの切った張ったの日々のせいか、

遊ぶ時には派手に遊んでいました。


壬生の屯所から一番近い花街島原に

みんなしょっちゅう通っていました。


特に高給取りの幹部たちはそれぞれ

お気に入りの太夫たちがいたようです。


ハジメちゃんの馴染みは、

桔梗屋の相生太夫といいます。


維新後のハジメが勤務していた

師範学校附属博物館へ行くには、

相生坂という坂道を通ります。


毎日相生坂を通って通勤しながら、

相生太夫のことを思い出すことは

あったのでしょうか…。


花街島原とは、あの島原の乱由来の

名前だという説があります。


島原・桔梗屋の相生太夫。


島原 桔梗


これは偶然のキーワード?






さて、次回からいよいよ家系調査の話に入ります。

ぜひお付き合いくださいませ。




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