人類が石を加工して道具を作り始めたのは、今から約250万年前頃からだと言われています(ホモサピエンス以前です)。
約1万年前には石の「剣(つるぎ)」が誕生し、それから何千年と言う時を経てそれらは金属製(青銅)へと変わっていき、そして更に頑丈な鉄製へと生まれ変わってゆくのです。
鉄製の細工が施された「剣」が誕生したのは、今からおよそ3000年前だそうです。
武器が頑丈になればなるほど身にまとう防具も強くしなければなりません。
武器の発達とともに、防具類も布や木や動物の皮から、次第に金属製のものへと変化していったのです。
日本の武器は独自に形を変えた物もありますが、その原型は中国から伝わったもので占められています。
それらの多くは直接、あるいは朝鮮半島を経て入ってきました。
約3万4千年前には「石器類」が伝わり、縄文時代には動物の「骨格器」や「弓」などが武器として使われはじめ、弥生時代以降になって、「青銅器」や「鉄器類」が伝わったのです。
弥生時代の主だった武器は「矛(ほこ)」や「剣(つるぎ)」「盾(たて)」そして「弓」です。
「剣」は最初の頃は武器としてではなく、その多くが「装飾品」として扱われていたようですね。
時代が下り、飛鳥時代頃からは「片刃の剣」が作られるようになり、実戦での活躍の場が広がったようです。
日本の戦(いくさ)で集団での戦いが定着したのは鎌倉時代の中頃以降で、それまでは1対1の「一騎討ち」が当たり前でした。
一騎討ちでは「突く」よりも「斬る」技に主眼が置かれていたので、「槍(やり)」よりも「矛(ほこ)」が多く使われました。
「槍(やり)」と「矛(ほこ)」は一見似ていますが先端部の形状がまるで違います。
「槍」の先端は尖っていて、「矛」は斬るのに適した両刃になっているのです。
集団戦になっていく過程で素早く突ける「槍」が使われ始めていったようです。
ところで武道の「武」は「矛(ほこ)」と「止」の文字を組み合わせて出来ています。
そのまま読めば「矛(武器)を置く=戦いを止める」と言った解釈になりますが、最近になって「止」は足の形を表しているのではないかと言う声が多数上がり、「矛を持って進む=戦う」と言った真逆の意味がある事がわかってきました。
さて平安時代(794年~)に入ると日本独自の武器「日本刀」が登場します。
騎馬戦での扱いやすさや切れ味が求められた結果、他に類を見ない独特の「反り」と美しい「形」が生まれていったのです。
日本における「片刃の刀」の原型は中国の「長刀」だと言われていますが、中国ではすでに漢の時代(後漢20年~)から、両刃より頑丈な片刃の直刀が大量に作られていたようですね。
この漢の時代の人々の暮らしぶりが刻まれた「画像石」が今も多数残されていて、その中には戦う兵士の姿も刻まれており、当時の武器が「両刃の剣」から「片刃の刀」に取って代わっていく様子が描かれています。
画の中には素手の戦いも描かれており、当時の徒手空拳格闘術が主に「掴み」「投げ」「突き」から成り立っているのがうかがえます。
ちなみに現代格闘技でも着衣ありの場合は、「掴み」の技術は大変重要で、掴む位置によっては自分が有利にも不利にもなります。
最もポピュラーな攻撃「掴み合い」を制する為には、パンチと同様に相手の中心近くを取るのがセオリーです。
この「掴み合い」から「膝蹴り」や「頭突き」などの接近技が生まれていったのが想像できますね。
武家が政権をとった鎌倉時代以降は合戦が増え、「日本刀」の需要が更に高まっていきます。
そして合戦のたびに刀に改良工夫がなされて、現在の奈良、岡山、京都、岐阜、神奈川の城下町を中心に「名工」と呼ばれる職人が誕生していったのです。
やがて動乱の戦国時代も終わり、世の中が平和になってくると「日本刀」は実用的なものから次第に装飾性を帯びたものになっていきます。
ふたたび実用的な「日本刀」が脚光を浴びるのは、外国の脅威にさらされ、一気に治安が悪化した幕末です。
この時ばかりは「質より量」の日本刀が大量に生産されたようです。
明治に入り「廃刀令(はいとうれい)」が出されると、「日本刀」は「家宝」として、また一方では「軍刀」として、その役割を果たしていくのです。
ちなみに江戸時代終わり頃までは「日本刀(にほんとう)」とは言わず、「太刀(たち)」「剣(けん)」「刀(かたな)」などと呼んでいたそうですよ。
【花咲く空手教室】