【豊臣秀吉ガイドブックを攻略せよ!】 (秀吉家臣団・三河コース)
長篠設楽原合戦時の羽柴秀吉陣跡です。
この時、秀吉が率いた兵数は不明。
また、たいした活躍もありません。
一説によると、佐久間盛信が真田勢の攻撃を受け苦戦している時。
これを見た信長が、秀吉と滝川一益に真田勢へ横鎗を入れるよう下知。
これにより真田勢を打ち破ったそうです。
しかし合戦図屏風にもありますが、連合軍の左翼を丹羽長秀、滝川一益と共に任されていました。
その陣跡といわれる場所が、現在石碑が建っているところです。
しかしこの羽柴秀吉陣跡。
かなり分かりづらい (´□`。)
なので、ちょっとしたコツを記載しておきます。
↑まず、いつもの地図を参照に進んでいくと、この様な手描きの看板があります。
この看板を見つけましょう。
↑ 看板があるところをグルっと回る形で、左折、登っていきます。
道が細いので注意しましょう。
そのまま登っていくと、民家がありますが、その民家の裏山が秀吉陣跡です。
↑ これが遠景。
民家の裏山というより、裏にある田んぼの奥。
すると、石碑が見えてきますので、行ってみます。
↑ しかし進むときに注意しなければなりません。
田んぼのあぜ道に、ビリビリがあります。
これはイノシシをはじめ、田畑を荒らす動物を撃退する電線。
触れると人間でも撃退されます。(←ホント)
うまくかわして進みましょう。
↑ 石碑のところはこんなカンジです。
看板と石碑が二つ。
なぜ二つあるのか?
↑ よく見ると、【木下秀吉】と、【羽柴秀吉】の石碑です。
左の木下秀吉の石碑は、大正三年一月に建立。
右の羽柴秀吉の石碑は、昭和六十二年七月に建立。
よく見ると、『武功夜話により改建』とあります。
これは私の推測ですが、たぶん大正三年に木下が建てられました。
でも?
秀吉が木下姓から羽柴姓に変えたのが、天正元年(1573)頃。
秀吉が長浜城主となった頃です。
なので長篠設楽原合戦の天正三年(1575)の頃には、すでに羽柴なんですね。
昭和になってからこの事に気づき、もう一つ石碑を建てたのでしょう。
この二つの石碑もある意味、歴史ですね。
↑ ところで秀吉陣跡から異様な風景が!
山が削られています。
新東名高速道路の工事なのでしょう。
この様にかつて長篠設楽原合戦があった新城市のいたるところで、この新東名の工事が進んでいます。
昨年2011年にも、長篠城を包囲していた中山砦が、工事で消えました。
その時、甲冑で皆さんを案内したのは、まだ記憶に新しいです。
史跡は残っているうちに巡っておきたいですよね。
※ 消えゆく中山砦の最後の散策会 → http://ameblo.jp/mikawa-hide/entry-10700436586.html
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