あの戦国の現場へ行こう!-長篠合戦 羽柴秀吉陣跡02


【豊臣秀吉ガイドブックを攻略せよ!】 (秀吉家臣団・三河コース)




長篠設楽原合戦時の羽柴秀吉陣跡です。



この時、秀吉が率いた兵数は不明。



また、たいした活躍もありません。



一説によると、佐久間盛信が真田勢の攻撃を受け苦戦している時。



これを見た信長が、秀吉と滝川一益に真田勢へ横鎗を入れるよう下知。



これにより真田勢を打ち破ったそうです。



しかし合戦図屏風にもありますが、連合軍の左翼を丹羽長秀、滝川一益と共に任されていました。



その陣跡といわれる場所が、現在石碑が建っているところです。



しかしこの羽柴秀吉陣跡。



かなり分かりづらい (´□`。)



なので、ちょっとしたコツを記載しておきます。





あの戦国の現場へ行こう!-長篠合戦 羽柴秀吉陣跡アクセス02


↑まず、いつもの地図を参照に進んでいくと、この様な手描きの看板があります。



この看板を見つけましょう。




あの戦国の現場へ行こう!-長篠合戦 羽柴秀吉陣跡アクセス01



↑ 看板があるところをグルっと回る形で、左折、登っていきます。



道が細いので注意しましょう。



そのまま登っていくと、民家がありますが、その民家の裏山が秀吉陣跡です。





あの戦国の現場へ行こう!-長篠合戦 羽柴秀吉陣跡01


↑ これが遠景。



民家の裏山というより、裏にある田んぼの奥。



すると、石碑が見えてきますので、行ってみます。





あの戦国の現場へ行こう!-ビリビリ


↑ しかし進むときに注意しなければなりません。



田んぼのあぜ道に、ビリビリがあります。



これはイノシシをはじめ、田畑を荒らす動物を撃退する電線。



触れると人間でも撃退されます。(←ホント)



うまくかわして進みましょう。





あの戦国の現場へ行こう!-長篠合戦 羽柴秀吉陣跡03


↑ 石碑のところはこんなカンジです。



看板と石碑が二つ。



なぜ二つあるのか?






あの戦国の現場へ行こう!-長篠合戦 羽柴秀吉陣跡石碑



↑ よく見ると、【木下秀吉】と、【羽柴秀吉】の石碑です。



左の木下秀吉の石碑は、大正三年一月に建立。



右の羽柴秀吉の石碑は、昭和六十二年七月に建立。



よく見ると、『武功夜話により改建』とあります。



これは私の推測ですが、たぶん大正三年に木下が建てられました。



でも?



秀吉が木下姓から羽柴姓に変えたのが、天正元年(1573)頃。



秀吉が長浜城主となった頃です。



なので長篠設楽原合戦の天正三年(1575)の頃には、すでに羽柴なんですね。



昭和になってからこの事に気づき、もう一つ石碑を建てたのでしょう。



この二つの石碑もある意味、歴史ですね。






あの戦国の現場へ行こう!-新東名


↑ ところで秀吉陣跡から異様な風景が!



山が削られています。



新東名高速道路の工事なのでしょう。



この様にかつて長篠設楽原合戦があった新城市のいたるところで、この新東名の工事が進んでいます。



昨年2011年にも、長篠城を包囲していた中山砦が、工事で消えました。



その時、甲冑で皆さんを案内したのは、まだ記憶に新しいです。



史跡は残っているうちに巡っておきたいですよね。



※ 消えゆく中山砦の最後の散策会 → http://ameblo.jp/mikawa-hide/entry-10700436586.html




【羽柴秀吉陣跡』の地図





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