母からの電話 |  なんとかなるさ

 なんとかなるさ

川の流れのように

静岡県東部(富士市)
リトリーブサイコセラピー
心理セラピスト
子間宮みか ですピンク薔薇



昨晩、母方の叔母が亡くなったと
母から
連絡がありました。


親戚も少なくなり、
家族葬で見送るとのこと。

お通夜に子供達が来れば
人数も少ないし賑やかになるから
来てほしいと言われましたが


親戚の手前、
満たされているアピールを
したいのかな、
と、口調から
わずかな母の期待を汲みとり
面子を立ててあげたい


と、無意識に心が反応している
私を見つけました。



短い電話だったけれど
無意識のままだと
自分がこう反応していたのか、
と分かりました。  


子供の頃は世間に対する
良い顔をしたい母の気持ちに
良いか悪いか別にして
叶えようとする気持ちがあった。


それが子供側からして
自分に心が向いていなく
母自身の見栄や優越感を満たす事と
分かっていても、


満たしてあげたい
喜ぶことをしてあげたい
とそれが"子供からの愛"
だったとしたなら


今、一人の人として
繋がっていくのなら
何をもって"愛"と言うのだろう、
と立ち止まった。


親との間の暖かい愛情
というのがわからずに
わかり合えずに
もがきながらここまで来て


それでも
親子という現実がある。


大人になっても
"わかり合えない"を
繰り返していたのは私からの
アプローチだった。


それは幼少期に受け取り損ねた
子供が自己を確立していく上で
必要な心の安全基地であったり
この世を生きる上で必要な
自己肯定感を取り戻す為、
本来の自分を取り戻す作業だった。


ずーっとずーっと訴え続け、
返り討ちに会い、
縁を切るまでに至った。
(父親はめげずに通い続けてくれた
から今に繋がっている)


カズ姐さんの講座に行き
今の私の問題は
幼少期に感じた

苦しみ・悲しみ・喜び・認めてもらう
励ましてもらう・寄り添ってもらう
どんな私でもいいと無条件の愛で見てもらう・・・・

それらを受け止めてもらえなかった
事から来る未消化な感情から発していて

自分を壊すほどの大きな
自己否定やそれに伴う罪悪感などを
自分と向き合うこと(二次利得を手放す)
で手放してきた。まだ少し残っているが。



そして愛着は両親からでなくても
いいんだ、と思え
両親に対する執着が薄れ
"親から貰おうとしなくても大丈夫な私"
になれた。


幼少期のドロドロとした
自分の気持ちを理解し吐き出すことが
済んだことで

もう「あの時、こうだった!」とか
昔の恨み辛みを言う必要もなくなり
きっと親と付き合う事は穏やかに
なっていくだろう。


ただ、子供としての「愛」を
私の親に期待しても
"ない袖は振れない"と理解した上で
そこに留まるより
自分を取り戻す道を選び歩こうと
"親からの愛を待つ子供"を
卒業した今、


一人の人として
親と繋がろうとしても
"親と子という現実は変わらない"
以外の理由が、見つからず
何のために繋がろうとしているのかが
分からない。


ただ、
親のどのような感情に反応し
どのような作戦で親は罪悪感を刺激し
翻弄させ(無意識に)
それに心かき回されてきたのか、
を理解していく

また有・無意識に行われる
親の言動に今の私がどう反応して
いくのかを見てみたいと思った。


一人の人間   対  一人の人間
としての境界線をテーマに
親との関係で自分がどうするのか
見ていこうと思う。


親との付き合いは
「面倒臭い」。
この言葉に何をしないで済むように
しているのだろう?

親に関して感じる
自分自身との付き合いを
放棄しているのではないか。。。

以前の私なら仕方がない。
けれど今の私は
そこを通らないといけない。


そこから回避性愛着障害が
発生していたならば

これは今の私にとっては
チャンスだ。


人(親)を受け入れて、
傷つける言葉を言われても、
表情一つでコントロール出来ると
思われても、
罪悪感を刺激して来ようとしても、

自分を守る
自分を大切にする

それを実地で体感と共に掴んでいく。
その作業が自己をさらに
確立させていくのだろう。


新たなステージに突入したような
感じだ。


親との関係に見る
自分を生きる
は人にとって大きなテーマ
なのだと思う。


だからこそ連鎖が続いている。

そういう面からも
心理を見て勉強して行こうと思う。



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