無境界 |  なんとかなるさ

 なんとかなるさ

川の流れのように

静岡県東部(富士市)
リトリーブサイコセラピー
心理セラピスト
子間宮みか ですコスモス



今考えると
以前の私は"無境界"だったな
と思います。



そのひとつに
優しさについて、
虐げられる人、
煙たげられる人に


どうして世の中の人は
優しさ・許し・寛容でもって
対応しないのだろうか?

と、そうあるべきだ
とさえ思っていました。


だから世の中に絶望もしていました。


心理を学んでから
雑用を押し付けられている人と
見えていた人が
実は雑用以外の責任があるポジションが
イヤな為に雑用を自分の選択で
していたことも見えたり


バカにされやすい人も
"愚か者"という人生脚本のゲームを
していることがわかり
そこにいることを自分で
選んでいたんだね~と見れるように
なったり。

あまりにもそのような人に対して
感情のはけ口をする人には
恐怖を感じていたけれど

今は八つ当たりをしている、
と冷静に見れるようになりました。



出来ない事を以前の私は
無意識に不本意ながら選び
そこに居続けることで
親への復讐をしていたのですが


出来ない人を許さない人が
心が狭く愚かだ
とさえ思っていました。
↑これ、親に対する反抗心が根っこ。


そして、出来ない虐げられる人に対して
同情する視線で見、
それを優しさと勘違いし
憐れみの手の差しのべをする。


でも"余計な事をしないで"と
そこにいるのが心地よい人に
あなたのそれは
偽善だよ、

というような目で見られたような
気もしていました。




それともう一つ、
前にもちょこっと
書いたことがあるけど

出来るポジション、
"出来ることで自分の存在を保持する"
と思うような人に
勝ってしまった時、

自尊心を傷付けないでと
相手が一瞬見せる顔、
それに対する罪悪感が沸く。

勝ったのは偶然なのごめんね~
と思うことも優しさだと思っていた。
↑これ、更に自尊心傷つけるよね汗



とにもかくにも
"出来ない" 
事・人に対する無境界というのが
すごかった。

世の中優しくない!
と思っていた。


私達は出来ない人、
出来ない人は優しくされるべき、
なぜなら勝たしてあげているのだから


そうやって子供が母親や近い人に
自尊心を守ってあげるために
道化になったり
私は出来る人と思わせてあげたかったり
そうやって私達は
繋がりを得ていたのだから。


これが私の無境界の核。



自分が親との境界線を引いたことで
色んな事が総取っ替え。



では優しさとは?

人に偏見を持たないで
楽しく過ごすことかなぁ。


それには私の心のフィルターを
要らないものを外していかなきゃだね。



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