こんにちは(*`・ω・´)ゞ

 

前回の南海トラフ地震の記事で

 

30年以内に

70~80%の発生確率に対して

 

東京電機大橋本特任教授の

科学的に妥当とは言えないとする論文

 

2024-03-08

 

この問題となった

高知県室津港に残る古文書のデータ

 

古文書は詳しい記録時期や場所が

不明なほか

 

人為的に掘り下げられた可能性を指摘し

確率を見直すべきだとした

 

「室戸港沿革史」に描かれた

1679年当時の室津港の絵地図

 

この地図で最も深い場所より、

20年ほど後に測られた

水深の方が2メートル近く深いっちゃ!

 

南海トラフだけ特別に採用された

時間予測モデルは

 

地盤の隆起量で

地震の発生確率を算出しちゅーけど

 

実際の隆起量はもっと大きくて

ひずみが大きく解放されたのに

 

室津港を掘り下げた事を考慮せずに

隆起量を推測し

 

次の地震が早く発生すると

導き出しとるがです

 

と橋本特任教授が指摘

 

久保野家文書等に基づく室津港の隆起量の検討

橋本学 ・小沢慧一 ・加納靖之

(投稿受理:2022年12月7日 訂正稿受理:2023年11月10日)

 

要 旨
 2013年地震調査委員会は南海トラフ沿いの大地震の今後30年間の発生確率を60~70%と評価した。この評価に際しては、公表前から強い批判(特に時間予測モデルの採用について)があったが、2001年評価と同様に久保野家文書に記された室津港の水深データを用いて評価がなされた。本論文において、原典となった久保野家文書を吟味したところ、複数の問題点が見つかった。すなわち、測深の精度を評価するための情報の欠如している。また、開港以来、ほぼ毎年工事が行われてきたことが確認された。既存の史料の情報および近年の潮位観測結果と総合すると、1707年宝永地震に伴う隆起は、1.4~2.4 m の範囲と推定される。社会はこの不確定性を認識し、活用法を再検討する必要がある。

 

 

 一方で

鎌田浩毅京都大学名誉教授は

 

南海地震のあと

一旦沈下するって言ってるけど・・・うーん

 

上下した後に隆起なら

論理は破綻してないのかな?

 

もっと詳しく調べてみんと

素人の私には分からんがよー驚きあせる

 

理論に反する意見には

 

その反論や見解を述べてくれると

素人なりに理解し易いんやけどねー

 

2021年2月20日

 

 ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・

 

さて、さて

 

この、問題の室津港ってびっくりマーク

 

あの野中兼山が岩礁を打ち砕いて

掘り下げ工事に着手

したんやなかったんかいね~うーん

(工事中に失脚し完成を待たずに死去した)

 

1663(寛文3)年

第2代藩主が死去した後

 

兼山は政策に不満を持つ輩の陰謀で

失脚させられるがですが

 

普請奉行の一木権兵衛は

兼山亡き後も

室津港の改修工事を続け

 

3年余りの難工事の末、

1679(延宝7)年に完成を見届けて

 

人柱として63歳で切腹しちょります

「海神に祈る」 田中貢太郎 青空文庫

 

2019年8月4日

JR阿波池田駅から反時計回りの

四国南東部周回乗り鉄で

 

室戸岬町でバスの車窓から見た

津呂港の2つの石碑

 

「紀貫之朝臣泊舟之碑」

「野中兼山先生開鑿之室戸港」

 

津呂港は71日間の工期という

驚異的な突貫工事で

 

野中兼山が

1661(寛文元)年3月に竣工させた

 

それ以前にも

 

最御崎寺の荒廃無住を嘆き、

再興した最蔵坊こと小笠原一学が

 

1618(元和4)年に開削したとされ

古くは室戸港と云われた津呂港

 

それより遥か七百年前の

平安時代、紀貫之の頃

 

海面は今より、6.0m~8.0m上だった

と云われている

 

そんな

土佐日記にある

 

934(承平4)年に

紀貫之が土佐国司の任を終え

 

都に帰る途中で時化に遭い

10日余りも舟がかりした

 

「むろつの泊」については

 

室津港と津呂港で

諸説あるみたいぜよ

 

土佐日記の室津

甲南女子大学 武村義一

 

 

2019-08-19

 

室戸岬港(津呂港)の案内板によると

 

海中に土嚢を積上げて締切り、

 

内部に潮が入り込まないようにした上で、

鑿と槌で海底を掘り下げ、

 

岩を砕いて開削し

満潮時水深2mの港を築いたそうな

 

 

2017年に

四国中央市の土佐北街道を

歩いた時に

 

兼山流鼠面積みの石垣を見て

 

兼山流とは

 

土佐藩家老の

野中兼山(1615-1664)の事で

 

港湾整備など土木工事の実績で

名高いと知っちゅうぜよウインク

↓↓

2017-09-13

 

もし兼山なかりせば、

土佐の高知に

坂本龍馬も板垣退助も出現しなかった

横川末吉『野中兼山』(吉川弘文館)

 

 

 

野中兼山は藩祖山内一豊の

妹の孫にあたる人物で

 

土佐藩2代目藩主

山内忠義の信任を受け

 

17歳の若さで藩の執政を任され

以後30年に亘り藩政を掌握した

 

彼は高知のインフラ整備の

基礎を築いたともいえる

 

先駆的な人物であり

 

高知の歴史を語る上で

必ず登場する

 

 兼山は、まず農地開発事業として、

 

河床の低い物部川に山田堰を建設して

用水路を引くとともに

 

仁淀川の治水・灌漑工事を行い、

7万石を超える新田開発を実施

 

兼山による

新田開発が行われる以前の

土佐藩の石高が

 

20万石程度であったことを考えると、

 

大幅な石高アップを実現し

 

この施策により土佐藩は

財政的な余裕を持つに至ったと云える

 

 

【海上ルートの安全確保】

 

兼山は港湾事業においても

大きな功績を示した

 

 浦戸湾口の両岸に2本の石積みの

「野中波止」と呼ばれる突堤を築き、

湾口を狭め、潮の干満時の流速を速めた

 

これにより、

 

湾口に堆積しようとする土砂を押し流し、

湾口航路の埋没を防いだのである

 

また、柏島港では、

 

集落を囲む延長約700mの

大堤防を含む波止、突堤を建設し、

 

港や集落を

砂の侵入や波浪から守っている

 

土佐藩は、四国4藩の中で、

唯一静穏な瀬戸内海に面していない

 

また東西に広く、

背後には急峻な 四国山脈がそびえ、

 

陸路では、

これを越えなければ ならない

 

一方、海路では、

 

長い土佐湾の海岸線上に

荒天時に安全に避難できる港がなく

常に危険が付きまとう

 

このような悪条件の中にあって、

 

当時の土佐藩は

参勤交代に海上ルートを利用していた

 

こうした状況を打破すべく

 

兼山は海上ルートで安全に

参勤交代ができるように

 

沿岸の避難港の建設を計画した

 

兼山が手がけた港の中で、手結港津呂港室津港の3港の建設が土木技術上で特筆されるものである。 手結港の建設に成功した兼山は、その後、室戸岬 の北北西約4kmの津呂にある小さな泊地を拡張し 避難港とする工事を行った。工事は、予め外側に堰堤を築いて水を止めるいわゆるドライ工法が用いられた。作業は波が小さい大潮の時期に行われ、石工たちが大鉄槌と大たがねを使って岩を打ち砕き掘削を進めたそうである。砕けない堅岩があった場合には、里芋の茎を集めて岩の上で焼き、熱くなっ た岩に水をかけ急冷した。そうしてひびが入った岩は容易に砕けたそうである。 この工事の最大の難関は港口の外側約200mに位置する岩礁を除去する作業であった。工事はまず港口に締切り堰堤を築き、泊地の掘削を行った。 次に岩礁の外側を取り囲む締切り堰堤を築いた。そ して泊地の掘削の完了を待って湾口の締切り堰堤を壊し、湾口部の締切り堰堤と岩礁の外側の締切り堰堤との間の水を泊地に落とし込んだ。こうして岩礁のまわりをドライの状態にしてから砕いて取り除く工法を用いたのである。岩礁の外側に設置した締切り堰堤は水圧に負けないようにアーチダムと同じ原理の弓状の形とし、松の巨木数万本と土俵7万余を用い、隙間には土を詰めて水密性を確保したという。当時考えられるあらゆる工夫をして港の建設は進められたようだ。 こうして完成した津呂港も泊地が十分に広いとは言えず、周辺の地形から拡張が難しかったため、完成の翌月には西へ約4km離れた室津港を建設することに着手した。しかし兼山は工事の着手後ほどなく、1663(寛文3)年に失脚し、同年暮れ、室津港の完成を見ることなく49歳でこの世を去った。しかし 兼山によって計画、建設された港の数々が、その後の土佐藩の発展の基盤になったことは誰もが認めるところであろう。

 

 

高知県香南市夜須町にある、

建設から約350年を経た石積みの港

 

手結(てい)港は海岸の岩礁地帯の

入江を掘削して造られた

 

一般的には日本最初の

本格的な掘込港湾といわれる

 

一方で、岩礁地帯の窪地に石垣を築いて

背後を埋め立てて建設されたため、

埋立港湾に分類されるという説もある

 

 ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・

室津港は地震で大地が持ち上がる度に

掘り下げると同時に

 

掘った土砂を住宅地に上乗せしたため

水面と住宅の高さが大きく違います

 

大地の隆起によって港の水深が浅くなり、

使用不能となるため

何度も人の手によって掘込まれてる

 

室戸市内の港には、

地震と共生する室戸市民の知恵が

地形に残されています

 

 ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・

 

津呂港は、野中兼山が

岩礁の中の僅かな窪地を掘り上げる
難工事の末に築いた避難港で、


航海の難所である

室戸岬を航行する船の海難を防ぎ、
多くの人命を救ったとされる

 

 ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・

 

兼山は治水問題や国境問題の処理など

他分野の政策を進めましたが、

 

短期間に

これほどの大掛かりな事業を強行していった為

多くの無理が生じていました

 

3代目土佐藩主忠豊は

家老より提出された

 

兼山に対する

「百姓を酷使しすぎている」

「商人への掟が厳しすぎる」など

と書かれた意見書を兼山に見せ

 

今後悪いところを改めるように

申しつけました

 

しかし兼山は、

自分の政治生命もこれまでと思い

寛文3(1663)年に直ちに引退します

 

心労もたたったのか、

その年の暮れに49歳で病没します

 

兼山反対派は

その死後も追及の手を緩めず

 

ついに寛文4(1664)年

藩主忠豊は3代目宿毛領主山内節氏に

兼山の子供達を宿毛で預かるよう命じました

 

しかし、結局その後

 

父の科を逃れることはできない

とした罪状が長男清七に申し渡され

 

子供たち8人は

宿毛で幽閉されることになりました

 

罪が許されないまま40年が経ち、

 

許されて

ようやく外に出ることができたのは

3人の娘だけでした

 

 その娘の1人、婉(えん)が

 

先に亡くなってしまった兄のことを

悲しんで詠んだ

 

「つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば のこる梢の涙なりけり」

という歌が碑に刻まれています

 

 

 ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・

 

高知県出身の大原富枝は、

1944(昭和19)年に帰郷して

 

高知県立図書館を訪ね

 

婉が谷泰山に宛てて書いた

館長秘蔵の

手紙二十数通を書き写した

 

これら原本の手紙は

 

翌年7月の高知大空襲で

焼失してしまいますが

 

大原がこの手紙をもとに

1960年に著した「婉という女

 

物語は「お婉」の一人称で語られます

 

「お婉」は4歳から40代初めまで

幽閉生活を送っていたにも関わらず、

 

兄からその幽閉生活の間も学問を教わり

 

また谷泰山との文通によって

儒学や医学の指導を受けるのです

 

恋愛に関してはかなりしたたかで、

 

少女時代、娘時代、女盛り時代を

幽閉の中で過ごした彼女は、

 

妻帯者である谷泰山と文通の中で

半ば妄想のような恋愛をする

 

その手紙は多く残っており、

それを元に

 

大原冨枝が小説にしちゅーがです

 

(昭和20年の空襲で原本が焼失する

前年に大原が書き写す

また、

東京の大原の自宅も空襲で

隣家まで

延焼するも焼け残る)

 

 

兼山の死後40年経ち

幽閉が解かれ

 

生き残ったお婉達3人が

そこから生きようとし

 

野中家の誇りを守ろうとする

 

 

作者の大原富枝

 

高知県女子師範学校

4年生の時に教室で喀血

 

以来10年間の療養生活を送る

 

この時代の結核は

“死の病い”であったけれど、

 

戦後、結核の特効薬として

ストレプトマイシンが用いられたが

時には難聴や耳鳴りを引き起こす

 

大原富枝にしても長い幽居であった

 

18歳から28歳といえば

どんな嬉しいことが

おこってもおかしくないが

 

大原は自宅に籠もって、

ひたすら文筆に生きることに賭けた

 

1957(昭和32)年

「ストマイつんぼ」で

第8回女流文学者会賞

 

1960(昭和35)年

「婉という女」で野間文芸賞、

毎日出版文化賞を受賞


1970(昭和45)年

於雪 土佐一條家の崩壊」で

第9回女流文学賞を受賞

 

1976(昭和51)年にカトリックに入信

中目黒ミカエル修道院で受洗

 

1990(平成2)年には

勲三等瑞宝章を受章

 

1998(平成10)年 

日本芸術院賞・恩賜賞受賞

日本芸術院会員となる


2000(平成12)年

草を褥に 小説 牧野富太郎

執筆・連載中心不全で逝去(87歳) 

正五位に叙せられる

 

大原富枝 略年譜 (PDF)

 

 

 ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・

 

1971(昭和46)年に

今井正監督により映画化もされました

 

1971年製作/123分/日本
配給:その他
劇場公開日:1971年5月29日

 

1971年の今井正監督の作品で、

大原富枝の同名小説を

鈴木尚之が脚本化している

 

江戸時代の中期、土佐藩に実在した

野中婉という女医の

 

幼い頃からの幽閉生活の日々と、

女性としての生きざまを描写した時代劇


1971年のキネマ旬報ベストテン

第3位にランクイン


土佐藩の家老・野中兼山が失脚して死ぬと、藩政を握った政敵たちは野中の家系を根絶さ
せるため、兼山の遺族を奥深い山中へ幽閉する。その時、三女の婉はわずか4歳。外界と
完全に接触を断たれた狭い屋敷での生活は、兄たちの教える学問に打ち込むことだった。

長男・清七(江原真二郎)、次男・欽六(河原崎長一郎)、三男・希四郎(緒形拳)次々に亡
くなり、四男・貞四郎(中村嘉葎雄)が自死して野中家の男系が途絶えると、ようやく遺族の
幽閉は解かれるが、その間40年余。娘として成熟するにつれ、異母兄弟の目線が気になり、
その男としての肉体に目を奪われてしまう。狭いひとつ屋根の下の男であり、女である。

次男・欽六は妹の体で性の欲望を果たそうとして気がふれる。座敷牢に閉じ込められても、
身の回りの面倒をみる生母を性のはけ口にするなど狂気のあり様。そんな様子を垣間見て
恐れおののく婉もまた、自身の内面から湧き起こる欲望に身を焦がすようになる。思い詰め
て兄・希四郎にすがっても、冷静な兄は最後まで婉の体で欲望を果たそうとはしないのだ。

 

血縁者以外の他人に会いたい。閉ざされた地獄のような生活に身もだえする婉を学問が支
えることになる。彼女が26歳になった時、亡き父・兼山を敬慕する青年学者・谷秦山(山本學)
が屋敷を訪ねてきたのである。対面は許されなかったが、それ以降、年に一、二度の学問上
の質疑に限られた秦山との書簡のやり取りは、婉の中の女の生命の炎をはげしく燃やす。

そして40年ぶりに触れる新しい世界。相手の存在を知ってから20年越しの泰山との初対面。
しかし、外界も婉の考えていたような自由な世界ではなかった。世間の好奇な眼があり、妻
子ある秦山と会うことはままならない。依然として書簡でのやり取りだけだったが、世間とい
う漠として捉えがたい障害を前にして、秦山は婉からさらに遠ざかろうとする様子を見せる。

秦山に強い想いを寄せる婉の気持ちとは逆に、彼は婉に婚姻をすすめる。野中の血筋を絶
やすなと諭すが、その言葉に聞く耳を持たない婉。身の回りの世話を焼いてくれる若い男・
弾七(北大路欣也)から想いを告白されるが、それも受け入れはしない。やがて土佐藩の継
続問題がもとで、秦山が幽閉を命ぜられたことを知ると、行動せざるを得ない婉だった。

 

時の政治の力に翻弄される人々の苦難と、それに対抗する力強い意志的なヒロインの姿を
ラストに映し出して、内容的にも“独立プロ”の作品らしさが漂っています。野中家の一族を
含め、出演する役者も豪華です。婉の母親役は北林谷栄で、妹役に長山藍子と『橋のない
川』
の嫁姑のコンビ。他にも岸田今日子や加藤嘉が出番は多くないですが、顔を出します。

実在の野中婉という女性は幽閉を解かれた後、土佐の町で医師として開業し、名医として
名を知られたことで後世に名を残しているようです。師である谷泰山に送った多くの書簡が
残っていたので、その幽閉生活の事実がわかり、物語として小説にできたのだと思います。

 

この映画にも緒形拳出てる~

 

今回は女好きの凶悪犯じゃなくて

賢明な兄者じゃがね~ww

 

そろそろBS松竹東急

放映してくれんかね

 

最後までご覧いただきまして

ありがとうございました

 

では、またバイバイ