瀬戸内海のほぼ中央

 

多度津町の西北7.4Kmの沖合に

浮かぶ高見島は

 

標高297mの竜王山を中心に

 

南北に細長い円錐型の

3つの集落からなる小さな島です

 

建久年問(1190~1199)

備中児島からの移住が

 集落の始まりと伝えられています

 

板持集落は平成15年頃に

無住となっており

 

草木に覆われた廃屋が

朽ちるがままになってるそうな

 

これまで歩いてきた浜集落は

島唯一の平坦地で

 

漁村集落特有の

家と家の軒が接するような建て方で

その間を細い道が通っていた

 

これから探訪する浦集落は

急傾斜に石垣と民家が立ち並んでる

 

この石垣は、

江戸前期に旧浦集落が大火事になり

 

当時の人名(にんみょう)が中心になって

石垣を築き計画的に造成し

 

家を建てた時のものなそうな

 

人名とは…

大名(1万石以上)

小名(1万石以下)

に次いで第三の領主で

 

塩飽船方650人の名主を略した名称です

 

1590(天正18)年豊臣秀吉が

塩飽諸島の全部の

田畑・屋敷・山の検地を行い

 

1250石の地を塩飽7ヶ島の

船方650人に

配分領地するよう朱印状を与えた

 

これが人名制で、

高見島の名主は77であった

 

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こんにちは (*>ω<*)ゞ

 

前回の「高見島 浜地区を歩く」から続きます

 

 
旧高見小・中学校跡前を通る
六社通りの坂を登って
 
中塚邸の石垣までやって来ましたあせる
時刻は午前11時31分
 
現在地は
六社通りとシアトル坂の分岐点です
 

 

 

第3代高見島村長を務めた中塚信太郎氏

 

村長職を務めたのちに渡米

建築中の中塚邸(昭和10年)

 

米国で農園経営で成功をおさめた

信太郎氏が建てた中塚邸は

 

漆喰壁の上の瓦葺に

干支の飾り瓦があるそうな

 

「瀬戸内国際芸術祭」(秋会期)では

高見島・海のテラス

として利用されてるみたい

 

瀬戸芸開催中じゃないので

中塚邸には入れません

 

この石垣は島外から取り寄せた石だそうで

 

中塚邸以外の石垣は

高見島の石である

黒っぽい安山岩が主流みたい

 

中塚邸の門前より瀬戸大橋方面の眺め

 

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四街道(下り方面) ③方向

 

「四街道」 ヨツカイドウ、ヨツカド

この場所は昔、厄除けなどで藁草履の片方の鼻緒を切って捨てる場所であった。体の弱い子や厄子が生まれた時、拾い親を頼んでいて、子を捨てる場所(昔、悪いものを捨てる場所でそこでは立ち止まって話などしないようにと云われていた)だった。

 

映画「瀬戸内少年野球団

(1984年公開)のロケ地

 

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江戸時代前期に築かれたという

石垣の上に立ち並ぶ浦の家並は

 

当時の佇まいを

今も残してるのだろうか・・・

 

明治期には、249戸から193戸へ減少

戸数の半数が大工だったそうな

 

1592(文禄元)年の

豊臣秀次の朱印状に

 

塩飽代官に朝鮮出兵に向けての

「大船」を作ることが

命じられた事が記されてるそうな

 

時の塩飽代官は、

その為の船大工や木材を集めますが

 

この時代の塩飽や小豆島は、

キリシタン大名の小西行長の支配下にあり

 

堺の通商ネットワークに食い込んでいる

小西家によって

 

各地から船大工をはじめとする

造船技術者たちが塩飽本島に集められ

 

大船建造のための「造船所」が

いくつも出現して

 

朝鮮出兵のための軍船が

造り続けられたと想像出来ます

 

江戸時代になると

塩飽は、廻船業を営む特権的な権利を持ち

 造船需要は衰えず

 

船の修繕の需要も定期的にあったようです

 

 

弁才船と呼ばれる大型船が登場

 

 

18世紀半以降

造船や修繕の需要が少なくなると

 

仕事がなくなった船大工が

宮大工になることで

 

活路を見い出したと云われてますが

 

瀬戸内海を挟んだ岡山県や香川県には

塩飽大工が手がけた社寺が幾つも残ってる

 

それらの寺院や神社建築物の建立時期が

塩飽廻船が衰えた18世紀半以降と重なってる

 

しかし、一方で

「塩飽大工は船大工の転化」はあり得ず

 

塩飽には宮大工と船大工の

二つの流れが同時に存在していた

とする説もあるみたい

いま語り継ぐ先人たちの気概と誇り

 

まぁ、これ以上の詳しいことは

私には分かりませんが

 

高見島は中世から近世にかけて

 

船大工や廻船業で栄えた

塩飽諸島の一つでした

 

何処から海を眺めても絶景が広がります飛び出すハート

 

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あっ!見覚えのある小屋と石段

 

男はつらいよ第46作

「寅次郎の縁談」

 

寅さんがマドンナ(松坂慶子)と

出逢った場所です

 

「こんにちは!どちらかお訪ねですか?」

 

大聖寺へ上がる坂(制立場)

 

江戸時代にお触書などを立てていた場所

(制札場の転訛?)

 

おっ!山田洋次監督

 

ここで、マドンナに演技指導してたのねウインク

家は朽ち、人々は居なくなっても

石垣だけは当時のままですね~

 

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この煙突のある家は

とても立派な造りをしてる

現在地から上方向の小路

 

緑に埋もれゆく家並み

 

高見島の2023(令和5)年7月1日現在の

世帯数は23戸、人口は27人

 

浜と浦地区合わせてじゃけんね

しかも、殆どが高齢の一人暮らしやね

 

10年後はどうなっとんやろかね~

なんか打開策無いもんやろか

 

トイシの坂までやって来ました走る人

 

ここでUターンして折り返します

 

↑さっきの煙突のある家を過ぎて

 

制立場から大聖寺への坂を登ります

 

この家の主は

いつ頃から居なくなったのだろうか

 

小さな石も上手く使って

 

大小様々な石で

巧みに石垣を築いてる

 

しばらく石段を登ると

左に御影石の石段と鐘楼門

 

大聖寺の石段

 

寛政二年に造りかえられた御影石の石段

 

弘法大師の開基と伝えられる大聖寺

 

鐘楼門を支える力士像の彫刻

 

鐘楼門をくぐり、振り返って見上げると

棟木を必死で支えている力士驚き

 

残念ながら大聖寺は

無人の寺となっとります

 

「寅次郎の縁談」では

大聖寺もロケ地になってましたウインク

大聖寺鐘楼門の向いに

マドンナの父親が暮らす家があり

 

そこに満男と寅さんが居候

 

マドンナに続いて家に入る

寅さんを眺める住職さん(桜井センリ)

 

茶人だったかもニコニコ

 

2023-01-27

マドンナの家は石垣の一段下と

2階建てで繫がっており

 

結構大きな建屋だったみたい

 

大聖寺の本堂となりには

太子堂がありました

 

塩飽大工は聖徳太子を信仰していた

 

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本堂前の石段で休憩してると

すぐ隣の墓石に

「東鶏冠山」と彫られた文字が

目に入った

 

本堂のすぐ隣に建つお墓

 

少し読み辛いけど・・・

 

明治37年10月31日

東鶏冠山に於いて名誉の戦死

享年27歳

 

とある

 

1904(明治37)年8月21日の第1回旅順総攻撃の際に日本軍第11師団(四国兵団)による東鶏冠山北堡塁の攻略が始まった。第11師団は鉄条網の突破に成功して内堀に入ったが、土砂に覆われた側防窖室からの近接攻撃により大損害を受けた。その後、数度に渡って坑道を掘り、堡塁の爆破を試みた。12月15日には日本軍が発射した28センチ榴弾砲弾が命中し、守備隊の指揮官コンドラチェンコ少将が戦死した。その後、12月18日に堡塁の正面で2.3トンのダイナマイトを爆破させ、これに乗じて占領した。日本軍は、この堡塁を突破するために約8,000人の死者を出した。(Wikより)

 

 

高見島出身のこの青年も

善通寺の第11師団に入営し

 

「一太郎やぁい」

の多度津港より出征

 

旅順攻囲戦で

命を落とされた様です

 

予告篇の最後に

夏目雅子と子供たちが摘む白い菊は

 

塩飽の島々でも栽培されていた除虫菊かな

 

旅順攻撃で戦死・戦傷して帰還する為

多度津港は送迎の官民で溢れるようになる

 

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浦集落の高い場所にある

石段や境内から眺める

 

瀬戸内海は美しく

瀬戸大橋まで見渡せます

 

周辺には、今も人が暮らす家は

極めて少ない

マドンナの父親の暮らしていた家は

更地となり、石積みと石段のみ残ってる

 

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正面に讃岐富士こと飯野山

 

さて、

そろそろ龍王山へ向かうかな

 

浦集落の家々の間から見える備讃瀬戸

 

制立場まで下り、右へ

 

廃屋の中に自転車が見える

 

この路地を自転車で走っとったんやね自転車

 

え~ここなの!驚き

 

荒れた水路かと思いましたが・・・

 

どうやらここが

龍王山への取り付き口みたいですアセアセ

 

 

長くなりましたが

 

最後までご覧いただきまして

ありがとうございました

 

次回に続きます

 

 

では、またバイバイ

 

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