愛媛県南宇和郡愛南町(旧御荘町)の

 南レク馬瀬山(バセヤマ)公園内に紫電改展示館がある

 

こんにちは。

 

新年から唐突な書き出しで申し訳ありません

 

年明けに、残留思念について触れたブログ記事を拝見して思いを馳せていると

 

昨年暮れの紫電館展示館の記事を思い出し

 

水深約40メートルの久良湾底に

 ほぼ原形を保ちながら34年間も眠っていた旧日本海軍の紫電改の機体

 

あの紫電改にも搭乗員の思念が残ってたんじゃないかと気になり始めた

 

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その機体は、昭和53年11月に城辺町久良湾の水深41mの海底で発見され

 翌年7月15日に、愛媛県によって引き揚げられました

 

終戦から34年目の1979(昭和54)年

 当時、高校3年生だった私は

 

新聞記事をスクラップしていた記憶があり、探してみました

 

出てきたよ~(≧▽≦)

1979(昭和54)年って、どんな年だったのかな?

 

スクラップブックを見ると本

・34万人のマンモス入試、初めての共通一次試験で受験生オロオロ

古事記を編纂した太安萬侶の墓誌発見(1月24日)

・消える瀬戸内の多島美、本四架橋 二面島で海底発破(2月8日)

・「センバツ・川之江高」空からおめでとう(2月27日)

・本四アーチの第1号 大三島橋開通(5月13日)

・ジョン・ウェイン死す(6月13日)

・東京サミット開幕(6月29日)

・スカイラブ落下(NASA) 恐怖の光跡(7月12日)

・スラム街の聖女テレサ尼にノーベル平和賞(10月19日)

 

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7月14日の久良(ヒサヨシ)湾での揚収作業では

 取材中のセスナ機が墜落して3名が亡くなる痛ましい事故もありました

 

愛媛航空のセスナが低速で旋回中に失速し、低高度のため回復できないまま海面に激突し乗員3名(パイロット1名、記者2名)が死亡

航空事故調査委員会議決

 

引き揚げられた紫電改は、両主翼にある4つの機銃の弾倉に計約300発の銃弾が残っていた。遺骨、遺品、機体番号など搭乗員を確認できるものは発見されなかったが、同県では、同県警鑑識課に依頼、赤外線写真を撮って機体番号の解明にあたる。

紫電改は全長9.3㍍、翼長11.9㍍、最大時速595キロ、上昇・旋回能力もすぐれた局地戦闘機。戦争末期、本土防衛戦の主力機として416機生産。機体は、近くの馬瀬山山頂公園に仮保存される。

毎日新聞記事より一部抜粋

 

同機は二十年七月二十四日、豊後水道上で空中戦、未帰還となった第三四三海軍航空隊六機のうちの一機らしい。機体ナンバーなど搭乗員を特定する手掛かりは遂に得られなかったが、県は近く保存庫を建設「平和の願いを込めて永久保存します」(11月9日 雑記帳)
 

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未帰還機6機の搭乗員の氏名は、

鴛淵孝大尉、武藤金義少尉、初島二郎上飛曹、米田伸也上飛曹、溝口憲心一飛曹、今井進二飛曹

 この紫電改は、6人のうちの誰の乗機であったのか。遺族、関係者の関心はこの一点に集まっていた。元隊員たちは真っ先に操縦席のなかを確認してみたが、遺骨はおろか、何の遺留品もそこにはなかった。主翼の日の丸はまだうっすらと見ることができたが、機番号などは消えてしまっており、搭乗員を特定する手がかりは何も残されていなかったのである。

 不時着水したときの複数の目撃証言も、細部の記憶には不確かな点があり、ただ、風防の前部がわずかに開いていたこと、不時着水の数日後、判別不能の海軍の搭乗員らしき遺体が収容されたこと、後方から機銃弾が命中した痕があることから、搭乗員は被弾して脱出はしたが、力尽きて海中に沈んだのではないかと推察されるのみだった。

 元343空搭乗員 宮崎勇飛曹長の話によると・・・

 「あの狭い湾内に、山側から飛んで来て、あれだけ見事な形で不時着水するのは並大抵の事じゃない。相当な技量を持った搭乗員であることだけは間違いないと思う。」

 「あのあと出された本で、あれは武藤機だと決めつけるようなことが書いてあるのがあるけど、そんなことは誰にも言えんし、憶測だけで何の証拠もない。我々三四三空の戦友会でもそんな結論は出していないし、あくまであれは、6機のうちの誰か、不明のままなんです。特定はしない。これ以上突き詰めて何になりますか?

 

紫電改展示館は1984年の春と今から10年ほど前に訪ねましたが

 30年近く経ち、南レク開発の失敗の中でもここは当初より良くなってる様に思われた

 

2回目に訪れた時にはガイドの方も居られて

 搭乗員は座席の位置などで推測出来てるけど特定はしないと話されてました

 

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紫電改(紫電二一型)という戦闘機の存在は

 零戦や雷電とは異なり、戦時中には公表されておらず

 

一般の日本人が初めてその名を知ったのは終戦後になってからで

 

広く知られるようになったのは、

 1962(昭和37)年、源田實司令その人が航空幕僚長のときに著した『海軍航空隊始末記 戦闘編』(文藝春秋新社)で、三四三空の戦いぶりを紹介したのがきっかけらしい

 

 

現在に繋がる三四三空や紫電改のイメージは、この本がもとになっている

 

翌年の1963(昭和38)年1月には、

 三四三空(剣部隊)の活躍を描いた東宝映画「太平洋の翼」が公開

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登場人物は仮名で物語もフィクションでしたが

 世に紫電改を知らしめた意味は大きい

(渥美清さんもラバウル407飛行隊から招集された搭乗員で登場w)

 

 

源田實が自ら書いた「海軍航空隊始末記」を基にしているため

 三船敏郎演じる千田中佐の印象がとても良く描かれてるけど・・・

 

源田氏の実像とはどうなんだろう?

 

動画のなかに史実に基づくようなナレーションが挿入されてるけど

 映画にはフィクション部分もかなり多く含まれています

 

同じ年の「少年マガジン」3月10日号では

 「日本が生んだ名機 紫電改のひみつ」と題する特集が組まれ、

 

7月には同誌で、ちばてつやの「紫電改のタカ」の連載が始まった

 

紫電改のタカも「海軍航空隊始末記」の影響を大きく受けた内容になってる

 

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紫電改(N1K2-J)は、水上戦闘機強風をベースに陸上機とした紫電(N1K1-J)を改良した局地戦闘機(迎撃機)である

 

川西航空機製作所は水上機と飛行艇に定評のある、海軍機を製作した会社で

九四式水上偵察機九七式飛行艇二式飛行艇などを製作していました

 

水上機と飛行艇と云えば

 香川県の詫間町(現三豊市)には詫間海軍航空隊があり

 

水上機の実機練習部隊として訓練に従事していましたが

 沖縄戦に備えて飛行艇実施部隊・特攻作戦基地として偵察・攻撃に従事する様になります

 

現在も防空壕跡や水上機スリップ等の戦争遺構が残ってます

 

2017年4月16日 詫間海軍航空隊跡訪問

 

 

紫電が中翼のため脚が長く、引込脚の構造が、いったん縮めてから引込むという複雑な仕組みで故障が多かったのを、低翼にすることで改善し、ほかの部分も改良を重ねた。エンジンは中島製の「誉」で、零戦に採用された「栄」エンジンと同等の外寸ながら、出力は2倍近い2000馬力を狙った意欲作である。ただ、オイル漏れなどの故障が多く、その解決が急務だった。

 

紫電(N1K1-J)の二一型以降が紫電改と呼称される

 

1944(昭和19)年度中に試作機をふくめて67機が生産され

 1945年(昭和20)年1月制式採用となり紫電二一型(N1K2-J)紫電改が誕生

 

迎撃戦闘機でありながらも制空戦闘機としても使える紫電改を高く評価した海軍は

 開発中の新型機を差し置いて、本機を零戦後継の次期主力制空戦闘機として配備することを急ぎ決定

 

1944(昭和19)年3月には三菱に雷電と烈風の生産中止、紫電改の生産を指示します

航空本部は19年度に紫電と紫電改合計で2,170機を発注、20年1月11日には11,800機という生産計画を立てます

 しかし空襲の影響で計画は破綻し、川西で406機、昭和飛行機2機、愛知2機、第21航空廠で1機、三菱で9機が生産されたに留まります(先の新聞記事では416機)

 

海軍の紫電改と同時期に開発された航空機として

 陸軍には、同じ発動機を搭載する中島飛行機の四式戦闘機「疾風」(四式戦)がありますが

 

こちらは約3,500機も生産されたそうな

 

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国内に現存する紫電改は久良湾から引き揚げられ

 愛南町の紫電改展示館に保管されている1機のみガーン

 

米国には3機輸送されて、スミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館、ペンサコーラ海軍航空基地内 国立海軍航空博物館、ライト・パターソン空軍基地内 国立アメリカ空軍博物館にそれぞれ展示されているそうな

 

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私にとっての紫電改は

 なんといっても、ちばてつやの「紫電改のタカ」

 

少年マガジン連載当時は、未だ生まれたばかりでしたが

 小学生時代に単行本を買って夢中で読みました

 

1960年代初頭に流行った戦記物

 そのブームがやや下火になりつつあった

 

1963-65年にかけて少年マガジンに連載されました

 

1970年代になっても本屋さんには当時の単行本がズラッと並んでおり

 他にも貝塚ひろしのゼロ戦レッドやゼロ戦行進曲

 

園田光慶のあかつき戦闘隊、望月三紀也の荒鷲少年隊等々夢中で読んでた

 

中学生になると戦記物は全く読まなくなり

 当時の本も失くしてしまいましたが・・・

 

ある日たまたま見たテレビの国会中継

 源田實参議院議員が字幕付きで映っててビックリ

 

主人公の滝丈太郎達若者は、すべて死んでしまったのに

 源田實指令は、今もなお国会議員として活躍?してたのかと

 

中学生の私が本当に驚いたのが昨日のことの様です

 

紫電改のタカは1995(平成7)年に

 「ちばてつや全集」が刊行された際に、大変懐かしくて、買って読み返しました

 

1995年はちょうど戦後50年目の年でした

 それから更に27年も経ってるってビックリです!マジで!

 

執筆当時、ちばてつやは23歳でしたが、

 1995年に次のように書いてる(一部省略や要約あり)

 

 戦争を素直に描こうとすればするほど暗くなってしまう。少年漫画というのは爽快感や明るさが無いと、どうしても人気が落ちてくる。人気がすべてという事では決してありませんが・・・。地味になって来たよ・人気が落ちてきたよと言われると、(中略) 逆タカ落としとか、特訓で飛行技術を磨くみたいなエピソードを入れてしまったのが気になって・・・。地味になったかも知れませんが、もっとじっくり腰をすえて描きたかった。もっと家族や銃後の事などを入れて、戦争という状況の中で、それぞれが人間としてどう生きるかを描いてみたかった。

 

物語が展開していくうちに、私は滝になりきっている自分に気づいた。死にたくないと思った。(中略) 滝をとりまく人々が死んでいくことがたまらなく悲しかった。そして、もし滝が死ななかったら、学校の先生になって、子どもたちに戦争の悲惨さを伝えて欲しいと願ったものだった。

(「まんが劇画ゼミ1 手塚治虫 赤塚不二夫 ちばてつや」集英社 1979年刊)

 

ラストの2コマは、
 特攻隊として飛び立つ滝達の紫電改と
 
そうとは知らずに、好物のおはぎを持って
 面会に訪れる滝の母親と幼なじみの絵が悲しくてつらかった
 

母を捨て

信子を捨て

先生になる ゆめも捨てて

ただ 自分の死が

祖国日本を救うことに

なるのだということばを

信じようと

努力しながら・・・

 

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史実では、三四三空にも特攻の要請はあったものの

 実施はされなかったようですが・・・

 

もう一冊

 ちょっと不思議な本がありました

 

本の帯には次のように書かれていました

カミカゼ第一号 敷島隊長 関行男の生涯!

孤独なる魂の軌跡を追体験した一外国女性が、想いのたけをこめて活写した感動篇。「特攻」研究の第一人者にして、ベストセラー『空中衝突』の著者でもある戦闘機パイロットが訳出・監修した話題作!

 

「関大尉を知っていますか 青い目の女性が見た日本人と神風特攻」
ジャネット妙禅デルポート 著
服部省吾 訳・監修
光人社 1997年7月10日発行
我が死にどんな意味が・・・
 私の往って再び還らぬ片道飛行は、白羽の矢が的に向かって飛ぶようなもの。それは死を招く。体当たり。わが身は目標に砕け散る。敵空母の飛行甲板へ体当たりだ。しっかりと両目をみひらいてそこまで操縦して行くぞ。愛機とともに、わが身の一死をもって敵空母一隻とその乗組員たちを死出の道連れにしてやる。しかし、どうして俺が?何故こんなことをしなければならないのだ?お母さん!満里子!俺は悲しい・・・
 

関大尉は艦爆のパイロットで、

 昭和19年1月から霞ヶ浦海軍航空隊で教官を務め、5月に結婚

 

9月に台湾の台南空の教官に移動になる

 

台南航空隊に着任後、3週間で前線(フィリピン第201海軍航空隊)に異動となった

 関が就寝中に玉井中佐から呼び出されたのは10月19日の夜のことである

 

ぜひ私にやらせて下さい

 10月19日になって私は、やっと茶碗に半分ほどのお粥を食べられるまでに恢復したが、その夜、突然衛兵に起こされ、玉井副長がお呼びです、と告げられた。(関大尉は赤痢に罹っていた)

 まだ少しふらふらしたが、私は上着のボタンを手探りでかけながら、副長の処へ行った。室内には玉井浅一中佐と猪口力平大佐がおられた。すぐには何も言わなかったが、何か重要なことがあるらしいと察せられた。

 椅子に掛ける様に言われて座ると、玉井中佐が私の肩を抱くようにしながら、捷号作戦を成功させるために大西瀧治郎中将が、ある計画を実行しに来られたと話し始めた。

 ある計画とは、零戦に250キロ爆弾を抱いて体当たりすることに他ならなかった。そして私をその体当たりの隊長に選定したと言い、私に返事を求めた。

(中略)

 しかし、私に何故、白羽の矢が立ったのだろう。

 疑問点は3つあった。

 第一に、それほどまでしなければならない程戦況がわるいのか。これは台南で戸塚隊長から話を聞いた時からの疑問だ。しかし、それが現実になった。

 第二に、私が乗っていた艦爆と違って、零戦は本来爆弾を装着するように作られていないし、私は零戦パイロットではなかった。

 第三に、私には兄弟も無く、やもめ暮らしの母を故郷に残しており、私が死ねば母は天涯孤独の身になる。私には妻があり、多分身ごもっている。

 とはいうものの、どうしてこの任務を拒絶することができようか。私は海軍士官だ。国の為命を捧げるよう教えられ、見苦しくない死に方をするよう修養してきた。そして玉井中佐が私の肩に腕をまわしてあのように言うのだ。答えは、

「はい。ぜひ私にやらせて下さい」

 という以外にないではないか。今さらどうしようというのだ。受けた命令に従い、任務を完遂するしかない。

 

玉井浅一中佐は海軍兵学校第52期卒で源田実大佐とも同期であり

 

海軍兵学校出身者を指揮官に

 他の隊員は自分が育成した甲飛(甲種海軍飛行予科練習生)10期生から編成

 

当初は指揮官に、後に三四三空で活躍する菅野直大尉を選ぼうとしたが

 補充の戦闘機を受領しに内地へ帰っており、不在の為に関を選んだと云われている

 

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僅かの間に関大尉の表情は別人のように変化している

愛する妻のために死ぬ
 翌日、10月21日の朝、私たちは集合を命じられ、敵機動部隊の状況を知らされた。そして出撃待機を命じられたが、このときは4隊のうち敷島隊と朝日隊だけが出撃を予定されていた。
 出撃予定者は、直掩零戦隊員とともに整列した。そして玉井中佐が一言述べ、また水杯をかわした。つづいて玉井中佐の音頭で海ゆかばの歌を斉唱した。

(中略)

 車輪が地面を離れ、離陸した時は胸に痛みを覚えたが、やがてその痛みは忘れられた。航進中はずっと、このどうしても成功させなければならない任務の事に心を集中していたが、進むにつれて雲が多くなり、天候はますます悪くなって、機動部隊は発見できなかった。燃料が少ないので、一番近いレガスピーに着陸しようと決心した。

 こうして私たちは、翌22日の朝、マバラカットへ戻った。

 別れを告げて発進したのに、こうして生きて帰って来たことが、恥ずかしいことに思えてならなかった。あれほど、この任務にふさわしい死に際を見せてやろうと決意も固く飛び立ったのに、生還したのはまるで悪夢にもうなされるにも似た思いだ。

 生き延びるのは、普通ならば幸せなことに思えるだろうが、ただ生き延びることに何の意味があるのだ?不可避な事がほんの少し先送りされるだけではないか。つまるところ、それを回避できたわけではないのだ。与えられている任務は変わらない。そして、これについて思い悩む時間が長引くだけではないか。

 

私がしなければならぬのは

 私は、これ以上話すことができない。自分がもはや属していない世界の中にただ存在しているだけ、という以上に、何が言えようか。

 特別攻撃隊員はみな、最初の日に死ねた方が、どんなにか良かっただろう、と考えていたことだろう。が、幸福感と表現したらよいのだろうか、私は一瞬あることを感じていた。それは以前に感じたことのない、満里子と一緒だった時にも感じたことのないもので、それは自分のなかに持っているのに気づいていなかった情動が、深い絶望によって呼び覚まされたもののようだった、

 死の不可知性と強いコントラストをなして、自分は生きている、という実感が極めて強く湧き上がってきたのだ。このようなことを感じることができたのを、時として嬉しく思ったものだ。

 この、生きているという実感は、私が以前に感じたことのある何ものよりも鮮やかだったから、これは死んでゆく者へ天が与える慰めか恩恵なのかもしれない。感覚が鋭敏になり、あらゆるものがくっきりと見えるようになった気がした。

 10月25日の朝、私は今日が最期の日だとわかった。他の者も同じだったろう。

 この日が最期と意識した時は、ほっとした気持ちだった。この四日間という時間は、私に自分自身を理解させてくれるためにあったように思う。いまや私が指揮官となって遂行するこの任務を成功させることが、義務なのだと、以前にもましてはっきりと感じていた。私の大切な家族と故郷の安危がかかっているのだ。操縦には自信がある。きっと命中してやるぞ。

(中略)

 離陸時刻は、午前七時二十五分。

 飛行中、私は注意深く操縦席内、主翼上面、そして雲、陸地、下に広がる海などを見まわしていた。時折ふりかえって、忠実に編隊を組んでついてくる部下の各機にも目を配った。そして、命中し爆発した直後、短時間でも意識はあるものなのだろうか、などと思ったりもした。その最後の意識にのぼるのは母と妻のことだろう・・・。

 このとき初めて私は泣けてきた。

「お母さん、満里子・・・」

 とつぶやきながら、涙を、生きて流す最後の涙を、ぬぐいもせずに飛び続けた。

 これまでの出撃は何回も不首尾に終わったが、今度こそは敵を発見するのだ。

 注意事項を思い出さなくては。

 敵のレーダー電波を避けるため低く飛ぶ。

 攻撃の際は三千メートルまで上昇してから降下に移る。

 目をつむってはならない。

 嘆きは終わった。泣けるだけ泣いた。もはや敵に向かってダイブするだけだ。他の事は二の次、三の次。敷島隊は一人たりとも無駄死にしてはならない。そして最大限の効果をあげなければならない。

 敵は対空砲火を射ち上げてくる。私は上昇し、機体をひねって急降下に入る。そして、しっかりと空母の飛行甲板に狙いをつける。猛烈な弾幕を突破する。恐怖心など、とっくの昔に突破した。

 そしてこの世とあの世の境も突破した!

 すべては、終わった。

 

『日本ニュース』第232号「神風特別攻撃隊 敷島隊の5人」

 

この映像の最初の水杯の儀式のシーンは
 マバラカット西飛行場で撮られたものと確認できるので
10月25日の出撃ではないと思われる
 
大西瀧治郎中将がやって来た、出撃のなかった20日か
 21日、23日、24日の出撃の何れかと考えられます
 
儀式が長くて、偵察機が発見した敵艦隊と遭遇出来なかった事例もあり
 途中からは儀式を縮小したとも考えられ、
 
この儀式と25日の出撃シーンを
 繋ぎ合わせてニュースを作成したのではと思われます
 
そのために、出撃する隊員が変わっているので
 10月25日に出撃した搭乗員とは別の隊員も映ってます(朝日隊と合同で敷島隊は4名)
 
離陸シーンは、25日のマバラカット東飛行場で撮られた
 敷島隊最後の出撃で間違いないと思いますが
 
ネット上では、離陸する零戦が爆装してないので
私は直掩機じゃないかと考えますが、真実がどうなのかは判りません
 
敷島隊は関と同郷(愛媛県)の大黒繁雄上等飛行兵曹が加えられ
 爆装6機、直掩4機の10機で出撃します
 
大黒上飛曹は旧宇摩郡川滝村(現四国中央市)の生まれ(小学生の時に新居浜へ)
 
知覧特攻平和会館を訪れた際に
 特攻戦死者の出身地を表示する設備で確認したところ
 
旧宇摩郡出身者は大黒上飛曹一人でした
 
山下機はエンジン不調の為引き返し 
 敷島隊の爆装した特攻機は5機となります
(山下憲行一等飛行兵曹は5日後に葉桜隊員として再出撃し10月30日散華)

 

フィリピンのマバラカット東飛行場から1944(昭和19)年10月25日午前7時25分、三菱A6M5とM2、零戦52型と21型の混成の6機が、それぞれ250キロ爆弾を装着して飛び立った
 
別れの言葉を交わして我々が最後の出撃と思って大地を離れるのは、これで4度目だ。初出撃は21日だった。こんなに長い間、我々を責めさいなんだ苦悩を、言葉で言い表すことが出来るだろうか?
 
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人生最期の朝の追体験

たびたび夢に現れる戦闘服姿の若者は何者か

 ある朝、天井を見上げながら、物悲しい気持ちでいっぱいになったのは、

 

この朝が自分の人生最期の朝だと思っているからなのだと気づいたのである

 夢に現れた男を探すうちにある若者にたどり着く

 

1944年10月25日、250kgの爆弾を積み、敵機動部隊に史上初の体当たり攻撃に出撃する事になった神風特別攻撃隊敷島隊の隊長 関行男大尉(23歳)だった。

 南アフリカに生まれた筆者が追体験した「関大尉」の葛藤と、突入する際の生々しい描写

 

この本はフィクションなのか?

 それとも、関大尉が彼女に乗り移り書かせたのか?

 

たんなる思い込みなのか?

 

因みに著者は、関大尉と同年の母親から9ヶ月後に生まれた

 (体当たりした月に胎内に宿った)外国人の女性で

 

半生を費やして書かれた英文原稿を服部省吾氏が訳・監修したものである


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関大尉の墓は、関の父方の親類のある四国中央市(旧伊予三島市)にあり

 1月8日に、私も父親とお詣りして以来で、約50年ぶりに訪ねてみました

 

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現在、愛媛製紙(株)壁面の改修工事の為に判り辛くなってますが

 国道11号線沿いに白木の標識があります

 

国道から海側に折れて進むと

 村松大師堂の手前の川沿いの墓地の中に関中佐の墓があります

 

村松大師堂

芒取りの五左衛門さんで有名な村松大師堂が

 関行男大尉(戦死後二階級特進で中佐)のお墓を管理されている様です

村松大師堂
昔、伊予三島村松の里に、一人の巡礼が辿り着きました。重い病気のため動けなくなりました。村人は気の毒に思い、小さな家を建て、親切に慰めていました。その巡礼は、御大師さまを信仰していました。村人の親切や信仰のおかげか、病気は良くなりましたが、以前の様に歩けなくなりました。巡礼は、村にとどまり、藁草履を作って、村の子供たちに与えました。このような楽しい毎日が続き、村の人々や子どもたちとも仲良しになりましたが、悪いことに、また病気が出て苦しむようになりました。一番近くに住んでいる五左衛門さんは、これを知って、朝夕なにくれとなく親切にしてあげました。ある日、巡礼が五左衛門を呼んで、「長々とお世話になりました。御恩は決して忘れません。何一つ差し上げる物とてありませんが、唯一つ、芒取りの秘法を授けましょう。もし喉に骨をたてたり、目の中へ芒を入れて困っている人があった時、助けて上げてください。」と言い残して死んで行きました。
 五左衛門さんは、巡礼をお大師様として祀りました。その後、骨を立てたり、芒を入れた人たちが、多数尋ねてくるようになり、五左衛門さんは無料でこれらの人たちを迎えました。すっかり良くなった人たちは、お大師さまを詣でて、供物を置いて行きました。
 それから後、「村松のお大師さま」と云えば、「芒取りの五左衛門さん」を指すようになりました。
伊予三島市の歴史と伝説 伊予三島市教育委員会刊より

大師堂には、喉に刺さった骨や子供が飲み込んでしまったガラス玉や硬貨など

 お大師さまにお願いして取れたものを瓶に入れて吊り下げてます

広い敷地の墓地に桜の木と関行男中佐の墓石があり

 入口には最近塗り替えたばかりと思われる旧市の案内板が建ってます

 

小学生の時にお詣りした記憶と違い

 墓石は東向きだったと思っていたけど南向きだったのと

 

記憶の中の墓石より少し小さかった・・・

 

この中に遺髪が収められています

 

墓石横面には「母サカエの遺志に依り 之を建つ」

 昭和29年10月25日 愛櫻会 

 

と彫られていました

 

関サカエさんのお墓も探しましたが

 何処にあるのか判らず見つけることが出来ませんでした

(近くにあると聞いていたのですが・・・)

 

愛媛新聞コラム 2014年10月23日
 
関を敷島隊の指揮官に選定し、その後も数多くの特攻隊員を見送った玉井浅一中佐は
 戦後、仏門に入って松山市の寺院で特攻隊員を供養する日々を送ったそうな
 
以前にテレビ番組で、娘さんが「父は生き残ってはならなかった人です」と厳しい言葉で語られてたのが印象に残ってます
 

昭和22年、関行男中佐の母サカエ氏を訪ね、こう言われたそうです。

『自己弁護になりますが、簡単に死ねない定めになっている人間もいるのです。若いころ、空母の艦首に激突した経験があり、散華された部下たちの張りつめた恐ろしさは少しはわかるような気がします。できることは、せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈るしかありません。祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが。』

 

 

 

関大尉の出身地の西条市の楢本神社には関行男慰霊の之碑がありますが

 

母サカエさんは戦後の占領政策で遺族年金の支給も停止され

 暮らし向きは大変苦しく、草餅の行商と針仕事で生活しておりました

 

最後は石鎚小・中学校の用務員の仕事を得られて喜んでおられたそうです

 

石鎚村立石鎚小中学校跡

 

戦争遂行中は軍神の母として奉られ、戦意高揚に利用されましたが

 日本人の敗北感が軍人に対する反感へと変化して

 

特攻を無駄死にだとか云う様になった頃

 関中佐は生きていて何処かに隠れているという噂は

 

どれほどこの母を苦しめたかわかりません

 

人心の変わりやすさや毀誉褒貶(キヨホウヘン)は世の習い

 

母サカエさんは「行男の墓を建てて欲しい」
 と言い残して亡くなりました。
 
昭和28年のことでした
 

 

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関大尉がぶつかったのが
 空母カリニンベイ(日本側の戦果報告ではセントロー)だったのなら・・・
(諸説あります)
 
北緯11度10分、東経126度20分の海底に
 大破した飛行機の胴体と一緒に四散した遺骸が眠っている
 
関大尉の思念はこの海の底にあるのだろうか
 
それとも母サカエが最後まで望んだ
 村松大師堂近くの墓地にあるのか
 
それとも源田實氏らの呼びかけで作られたという
 楢本神社の慰霊の碑とともにあるのだろうか?
 
今回訪ねることが叶いませんでしたが
 私にはサカエさんのお墓にあるような気がします
 

「われわれは英雄でも、かわいそうな犠牲者でもない。ただ自分の生きた時代を懸命に生きただけ。どうか特攻隊員を憐憫の目で見ないでほしい」

 

数年前に亡くなった、学徒出身のある元特攻隊員が遺した言葉である【下のサイトより】

 

 

長くなりましたが

 最後までご覧頂きましてありがとうございました

 

では、またバイバイ