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転載、加工あり。

検証「六マリアの悲劇」と生々しい生き証人の証言(原理の秘儀とUCの歴史を知る詳しい資料)


朴正華の「六マリアの悲劇」が出版された頃、私は本部の対策を担当していたので、反論するために読んだ。 

フェアーな精神を持っていたので、真相究明をして書いてあることが事実かどうかを確認しなければならなかった。 

そのためには、そこに書かれている六マリアだった人々に会って確かめるのが良い方法だと考えていた。 


現在の教会の様々な問題を憂う信徒たちが「ちゃぬの裏日記」や「米本ブログ」を読み、さらには、文教主の正当な継承者である 享進氏の六マリアを公認する発言があったので、その真相について尋ねて来た。

当時、やり残した仕事のつけが 今頃になって回ってきたようだ。そこで、元六マリアの人々に会うために海外まで出かけることにした。

そこで、先ず 六マリアの友人でその教義に詳しく解説出来るある36家庭の婦人に会い、質問することにした。 


最初に切り出した質問は、イエスが創造目的を達成させるために、


「先ず第一に、自分の母であるマリアとセックスをして、第一アダムがが天使長ル-シエルに奪われたものを取り戻し、復帰摂理を達成していかなければならない。イエスの母であるマリアは こういう天の摂理がわかっていなくて、肉親の息子としか考えられず、イエスとセックスをするチャンスを全く与えなかった」(六マリアの悲劇p30) 


と書かれているが、本当に文教主はそんなことをいったのですかと聞いたら、本当だという。 


これに対する師観のコメント:

残念ながら、私にはよほど霊的にならない限り、知的にも情的にも受け入れがたいお話である。これは近親相姦であり、 情的には吐き出しそうなはなしである。

よくまあ、そんな気持ちの悪い教義を初期のシックたちが受け入れることが出来たのか不可解である。 


しかし、復帰の道は目を背けるような最低な次元から出発するというから、それもありなのだろう。 


・六マリアとは1.イエスの母のマリア、2.マグダラのマリア、3・マルタ・マリア(?)、4.サマリアの女、5.石打ちの刑か救われた女、 6.イエスの足に接吻して香油を塗った女の6人で、イエスはこれらの女と誰一人ともセックスできず十字架にかかってしまったという。 

従って、原理的な六マリアの根拠はイエスと関係を持つことが出来なかったこれらの6人の女性たちを蕩減復帰するというところにある。 

いくら聖書を素直に読んでも、そんなことは書かれていないので、聖書して聖書を語らしめるという正統な解釈法からは 随分と無理があり、偏った解釈と見なされることに留意されたし。おかげで、聖母マリアとイエスを冒涜したとして訴訟された経緯がある。 


「それは、イエスがこの世の中に生まれて達成できなかった、女の人たちとの復帰だ。まず、天使長ル-シエルとのセックスによって 奪われたものを、それと同じ方法で、夫がいる人妻六人、すなわち六人のマリアを奪い取ることによって取り戻さなければならない」(六マリアの悲劇p36― )


「汚れたサタンの血を浄めるため、血を交換する復帰をしなければならない。これを「血代交換」という」六マリアの悲劇p37― 



p37-38にかけて、性のリレ-の仕方が詳しく書かれている。教主―女性信徒―男性信徒―女性信徒―・・・というように連綿と続くのです。

私が一番確かめたかったのはこの”性のリレ-”でした。これは李龍道や金百文の教団の出来事であって、いくら初期といえどもUCには関係がない話だと思っていたからです。

しかし、この本の著者である朴正華が数多くの女性に「血代交換」をしたと証言しており、聖歌19曲も作曲した金徳振はもともと女好きでプレ-ボ-イだったので、性のリレ-にのめり込んで、一週間後には何と72人の輪になったことを証言している(六マリアの悲劇p276)。


こんなことをしたら途中で動機が狂うのは明白である。それで、事情に精通している婦人に聞いてみたら、その通りだという。



「しかし、こういう過程の中で、「自分こそが再臨メシアだ。あの文鮮明はインチキでサタンだ」と唱え、自分の復帰を受けなければ本物ではない、 と主張する人が何人も各所に出現し、その人たちに復帰を受けるために集まる信者たちも増えるようになった。

こういう事態になって、 文鮮明は考えた末、「三十六家庭」というのを作り出した。文鮮明が世界の人間すべてを復帰し、血代交換させることは無理なので、この36家庭だけを直接復帰させることにした。そのあとは、真の父母が「聖水」をまいて、新しく結婚する新郎新婦に祝福を与えるという形に変え、 「合同結婚式」を行なうことにした」(六マリアの悲劇p233)



これについては事情に詳しい36家庭の婦人に聞いてみたが、この説明については”いぶかしい"顔つきでyesとは言わなかった。

だから36家庭が 出来たのではなく、原理的意義に基づいて36家庭は形成されて行ったという。さらに、六マリアについては全員が人妻ではなく、半数は人妻で、後の半数は処女であり、その中から将来の妻が選ばれる予定であった。

6マリアの使命は困難な使命なので、途中で抜けて人もいるので、予備の 方々がいたという。

第三の真の母の候補として、郭先生の妻の妹が決まっていたが、直前で六マリアの長老格の方(霊能者)が突然啓示を受け、 真の母になる方はエバが10代で堕落したので、10代でなければならないと言った。

郭先生の妻の妹は23歳だったので、急遽10代の女性を探さねばならなくなった。その時、洪順愛氏が台所で働いていたが彼女には17歳の娘がいた。その方が韓鶴子女史である。

したがって、そのような経緯を 知っている人々はこの方を誰も生まれながらの独生女とは思っていないという。

余談であるが、当時の六マリアの方々の写真が堂々と誇らしげに 六マリアの悲劇p125に掲載されているので、参考にされたし。

古参の韓国の先生方から見れば、原理講論だけで入信しているシックは奥義を知らないので子供の 信仰に見えるという。

最後に、文教主がどのようにして無原罪になったのかを六マリアの悲劇より記述しておきましょう。 


「丁得恩はただキリスト教を信じていたのだが、1946年6月6日、天からお告げを受けたという。その内容は、「今、36度線を越えて一人の青年が、 カバン一つ背負って平壌に向かっている。その青年は、神様が大事な役目を託し、この世の中に送った人である」ということだった。 

そして、その人が平壌に向かっているので、「出かけて行って、その人を迎えてあげなさい」と言われたそうだ。 

丁得恩はとりあえず、南の方へ探しに行ったところ、寺洞という所で、ボロ服を着てリックサック一つ背負った青年が、こちらに向かって来た。 

それが文鮮明(当時は文龍明)だった。丁得恩は彼の前に行き、お辞儀をした後、自分の家に案内した。丁得恩の自宅は萬寿台のふもとにあった。 

文鮮明を案内してきた丁得恩は、自分が神様のお告げを受けたこと、先生が来るのを知り迎えに行ったことを説明した。

さらに丁得恩は、自分が 神から「聖母」として認められたので、文鮮明とセックスすれば、文鮮明は神と同格の立場になり、堕落した夫婦の立場にある女の人達を復帰させる ことが出来るようになる、と話した。そして、文鮮明が下になり、丁得恩はその上に乗って、蘇生、長成、完成の三回のセックスを行なった。 

この復帰の実践の公式と方法は、まるで文鮮明の原理と同じだ。聖母マリアの代わりに、聖なる丁得恩と復帰したことによって、文鮮明は、 完全なる神のように罪のない人間になり、エデンの園にいたエバを取り戻す復帰の資格が出来た、ということだった。丁得恩は夢に中で神様と セックスしたので、自分は「聖母」だと言う(六マリアの悲劇p184-5)


「またここで、いろんな問題が生じて来た。その内容は、女の信者たちがそれぞれに文鮮明とセックスをしていたので、お互いに「自分こそが文鮮明を生んだ(霊力でこの世に生んだ)聖なる母親だ」という主張が飛び交っていたのである。

要するに、信者である女たちが文鮮明とセックスを することによって、文鮮明に復帰する資格が与えられた、ということだ」(六マリアの悲劇p185)


これに対する師観のコメント:

その1: 女性信徒の上述の主張は、韓女史「お父様は私に出会って原罪が無くなった」という主張に酷似している。 

丁得恩の話から判断すると、決め手になるのは性の儀式の位置にあるようだ。その体位において、無原罪の方が有原罪の上位に 位置して執り行われ、上から下へ聖化する流れだ,ということになる。

おそらく、女性上位は丁得恩だけで、それ以外の時の文師は男性上位なのでしょう。韓女史の場合も例外でないとすれば、お父様と出会うことによって彼女自身が無原罪になったことになる。 

さらに、この話から分かることは、失敗する前のマリアは女性上位の立場でイエスと儀式を執り行うことを示唆しているが、イエスが無原罪で生まれたことになっているので、必ずしも当てはまらない。文教主も無原罪で生まれているとしたら同様に あてはまらない。

また、神が夢の中で丁得恩と儀式をするとなると、神は無形じゃないの?という問題が出てくる。そもそも、 夢は、しょせん夢であって、どの程度、当に出来るのかという問題もでてくる。


その2:不倫によって堕落したから、逆不倫によって蕩減復帰するという道理であろうが、これでは、「目には目を、歯には歯を」の旧約時代に逆戻りである

。新約時代では、イエスの放蕩息子の話のように、神は悔い改めて帰って来たら、無条件で許すのである。

そこにおいては、六マリアも性のリレ-も必要はない。血分け・血代交換・血統転換によって、果たして人間はサタンの自己中心の汚れた血統から神中心の聖なる血統に生まれ変わるのであろうか?

答えは否である。元六マリアの人々証によると、文教主の愛の奪い合いと位置争いの醜い競争だったという。

いくら性の儀式を挙行しても人格が完成して聖人になるのではないのである。誰が無原罪になりたいからといって、人格完成が伴わないこんな破廉恥な儀式をしたいのであろうか?少なくても私にはあてはまらない。

残念ながら、統一家の子供たちは六マリアに囲まれて生活している文教主の姿を見て育ったので、麻薬、浮気、不倫、暴力、自殺など行ってしまうのである。

教条主義的な信徒は我々が責任分担を全うしないから、こんなことになったんだというが、実態はそんな次元をはるかに超えている。


その3:西川先生は血代交換を受けずに、日本に宣教に来て、みごと成功して韓国に帰った時に、一人の婦人がアメリカに宣教に行く前に性の儀式を勧めたという。

潔癖で純粋すぎる西川先生はもちろん断ったが、もともとこの道に合う人ではなかったので、遅かれ早かれ教会を去ることは知る人は知っていた。それゆえ、知っている人たちは、誰も西川先生を責めたりしない。むしろ、当然と思っている。

我々も西川教だったから、伝道されたのであって、六マリアや性のリレ-を知っていたら、一体誰が伝道されたであろうか?


対策として、以下の無原罪論を推奨したい:

イエスはすでに無原罪になるための蕩減条件を立てて出生したので、再臨主はイエスのような出生の過程を経なくても神は資質のある者を選ぶことが出来るということである。

だから、文師以外に7人とか12人とかのメシア候補が可能になる。韓国ではメシアを名乗る者は50名いるという。この立場は全く根拠が無いのではなく、文師自らがこの立場を言及している:

「メシアとは、思いを尽くし、心を尽くし、魂を尽くして、地上に神のみ旨を成そうとする人のことをいう、私もメシアになろうとしているし、あなたもメシアにならなくてはならない」という。

韓国でメシアを名乗る者が50名いるのなら、世界中ではもっといることになる。

この立場は「私は道であり、真理であり、命でありる。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」というメシア観では ないので、他宗教との摩擦は起きない。それゆえ、超宗教運動のUPFを推進しやすくなるでしょう。


前の日記にも書いたが、私が本部で神学対策を担当し、浅見定雄と神学論争をしている時に、朴正華の「六マリアの悲劇」が出版されたが、それに対する対策はお金で決着した。彼の残りの人生を生きていけるだけのお金をだして、「私は裏切り者」という本をこちらが書いて手を打った。

しかし、「六マリアの悲劇」は主管して読めば、原理の秘儀とUCの歴史を知る詳しい資料としての価値があると思われる。

 

~~~~~~~~~~~~転載終わり。

 

加工、付け足し後にまだあり・・・。

 


https://ameblo.jp/karamatto777/entry-12108599562.html 
「聖母」になった丁得恩と文鮮明教祖の間に何があったの? 
https://ameblo.jp/mikan-ha417/entry-11919767344.html 
文一族相関図・六マリア編<六マリア13人?それ以上か↑6人だけではなかったのです。 

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