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真の母の資格もない20代の金明煕が「第二の真のお母様扱い」の矛盾(1)

ちゃぬさんのブログより転載。一部加工。


2012年12月03日(月) 16時51分45秒
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■文教祖による真の母になる年齢定義「10代でなければならない」

『み旨がなかったなら、先生は、お母様と会うことができません。お母様になる人は、二十代を越えてはいけないのです。本来は十八歳を越えてはいけないのです。十八歳を一日でも過ぎては、満十八歳を越えてはいけません。エバが十六歳で堕落したので、三年を経て、十九歳に連結されるのです。また、堕落圏で見れば、十代が問題なのですが、韓国的な立場から見るとき、年齢が若いほど地上の女性世界の純潔基盤に近いのです。』
(「真の御父母様の生涯路程4」より)

『堕落はエバから始まった。何歳の時か。十六歳。未青年。天が信頼すべき父母の基準を女性が犯した。だから復帰の原則によって、真の母になるべきそのお方は二十歳を越えてはいけない。そういう原則なんだよ。』
(理想相対 1969年2月4日 東京教会)

『十八歳のときに、十七歳で堕落してこのような世界をつくってしまったので、一歳であっても二十歳を超えていたならば、真のお母様になることができないのです。聖進様のお母さんも十八歳で結婚しました。二十歳を超えてはならないのです。原理がそうなのです。三年以上超えたらいけないようになっています。』
(第40回「真の父母の日」記念礼拝のみ言葉 1999年4月16日 韓国・中央修練院)

『真のお母様になるには、ティーンエージャーでなければならないのです。十八歳、十九歳、二十歳を超えれば、真のお母様にはなれません。』
(真の自分を探しましょう 1993年12月19日 韓国・済洲研修院)

『昨年内に、譽進と孝進も約婚してあげたのです。皆さんは「先生の息子、娘は年も若いのに」と、そのように言うことでしょう。十六歳から二十一歳までが引っ掛かるのです。アダム・エバが何歳の時に堕落したと思いますか。未成年の時です。十五、十六歳の時です。それを蕩減しなければなりません。それでお母様も、ティーンエージャーの時に先生と結婚したのです。お母様もそうであり、息子、娘もみなそのようになるのです。』
(「真の御父母様の生涯路程7」より)

(※ほかに「十六歳以前はアダム、エバが堕落する前ですから本性の基準が生きています。堕落前の本性の基準を、一〇〇パーセント活用できる時でもあります。」というみ言葉があるため真の母候補は正確には16歳を超えてはいけないと思われますが、その検証はまた後日します。実際の鶴子夫人の年齢が2歳程度若ければ別ですが。またエバはアダムの妹のため年齢が2歳程度下のはずなのですが、これも矛盾しています)


それでは、日本で第二のお母様といわれている「喜進の母の金明煕女史」は何歳のとき文教祖と関係を持って文教祖の息子の喜進を産んだでしょうか。

答えは24歳です。10代をはるかに超えています。上記の真の母の年齢定義は「喜進の母親(金明煕)」には適用されていません。文教祖は年齢定義は「原理」だとしているにもかかわらずです。

<金明煕女史のプロフィール>
金明煕先生は、一九三〇年に現在の北朝鮮の平安北道で生まれ、一九五四年に統一教会に入教しました。一九五五年に日本に渡った直後、文喜進様が東京で誕生されました。韓国に戻られたのは、一九五九年十月二日に日本統一教会が創立される半年前のことです。』
(ファミリー2005年6月号 金明煕の紹介文より)

『わたしは、一九三〇年陰暦十月二十三日(陽暦12月12日)、平安北道朔州郡朔州邑で、父親の金正玉と母親の洪亨蘭(後に洪確實と改名)との間に、四男三女の長女として生まれました。』
(ファミリー2005年6月号 金明煕自身の証より)

入教した時点で、すでに満23歳を超えています。
本来、真の母になる資格は10代でなければならないので、文教祖が女子大生である金明煕女史と性関係を持つ理由がありません。もし関係を持ったとしたら「不倫」になりますし、1953年12月当時は、最初の妻の崔先吉夫人とも、まだ婚姻関係にあり離婚前でした。

文教祖と24歳の金明煕女史が性関係を持って妊娠し文教祖の息子を出産したのは現役信者であっても誰も否定しないと思います。そして金明煕女史は真の母候補だったと思っている信者が大部分でしょう。

しかし最初に文教祖にあった日であり入教日の1953年12月24日は、すでに23歳を超えているので真の母になる資格がないにもかかわらず、その子供は真の子女扱いになっています。

さらに驚いたことに金明煕女史は文教祖と会ったその日に復帰(血統転換の性行為儀式)を受けたといいます。もちろん聖婚式もなく、そのときまだ文教祖は婚姻中の既婚状態だったので誰が見ても不倫(姦通罪)の関係だったわけです。

「六マリアの悲劇」では文教祖と金明煕女史の出会った最初の日についてこのように書かれています。

『文さん(文教祖)が釜山まで来たのでみんな喜び挨拶をした後、タクシーで市内の影島へ行った。この日は、一九五三年十二月二十四日だった。・・・朝食を終えると、文さん(文教祖)はいつものように原理講義を始めた。・・・そしてもう一人、金永姫(金明煕)という女子大生が初めて参加していた。彼女は食口である梁允信の姪で、延世大学の学生だった。・・・夜半に散会となり、参加者の大半はそれぞれの宿に戻った。その家の一室で、文さんと私の男二人、玉相賢、辛貞順、呉明春、梁允信、池承道、金永姫(金明煕)の女六人が一緒に寝ることになった。これが釜山影島集会の始めての夜だった。実はここで初めて明かすことだが、金永姫(金明煕)はこの夜、文鮮明とセ ックスしたのである。同じ部屋の一番端に文鮮明、その次に私、そして六人の女たちが名前をあげた順で横になった。私は疲れていたのになかなか寝付けなかったが、いつの間にか眠り込んでいた。ところが妙な気配で目が覚めた。私の横に寝ていた文鮮明の所から、悲鳴とも喘ぎ声ともとれる女の声が聞こえた。しかもそれは、反対側の端に寝たはずの金永姫(金明煕)の声だった。文鮮明のセックスは何度も目撃してきた私だが、これは本当に驚いた。復帰原理で煽られた彼女が仕掛けたのか、密かに文鮮明が呼んだのかは知らないが、少なくともこれが復帰の儀式などでないことだけは間違いない。だが弱い立場の私は、ひたすら隣の行為に眠ったふりをするしかなかった。他の五人のおんなたちは、一人はマリアであり、他の四人もすでに文鮮明と関係があったが、詳しくは後述する。また、その後、金永姫(金明煕)は文鮮明の子を妊娠し、実に悲惨な人生を辿ることになった。
(朴正華氏著「六マリアの悲劇」p90より)

では1953年12月24日の出来事を金明煕女史はどのように証しているかみてみましょう。文教祖が帰ろうと会うる金明煕女史を必死に引き止める様子がわかります。そしてその日に二人は関係を持つのです。

『国際市場から出て、叔母について影島にある統一教会に行きました。あとから知ったことですが、そこは申聖黙氏の家であり、劉孝元先生と劉孝敏氏、そして劉孝永氏たちが、一九五三年十二月二十四日に入教し、真のお父様が修練会をしていらっしゃるときでした。・・・ 門の前に行くと、真のお父様が泣きながら祈祷される声がしていたので、外で二十分ほど待ちました。祈祷が終わり、部屋に入っていくと、部屋の戸は一つだけでした。わたしは、あまりにも多くのうわさを聞いていたので、ズボンを三つはいてきました。そして、万が一の場合に備えて、戸の前に座りました。何かあれば、飛び出していこうと考えていたのです。
・・・夕方になると、真のお父様がわたしに、「夜、帰らずにここにいれば、重要なみ言を語ってあげましょう。」とおっしゃいました。わたしは、心の中で“ああ、これは引っかかったなあ! と思いました。
 それで、「わたしは、食事は人の家に行って食べても、寝るのはたとえ下宿であっても、自分の下宿に行って寝るのであって、絶対にほかの所では寝ることができません。」と申し上げました。・・・ところが、何人かが「明煕さんに、先生が特別にみ言を語ってくださるとおっしゃったのだから、それはどれほど重要なことでしょうか。きょうの夜、間違いなく重要なみ言を語ってくださるので、帰ってはいけません。」と言うのでした。それで、残るようになりました。
・・・叔母も帰り、通行禁止時間になるのでついていこうとすると、真のお父様が「心配しないでください。あなたがいちばん上座にいれば、わたしはいちばん下座に座って話しますから。ここには、玉世賢おばあさんもいて、金元弼氏もいて、姜賢實さんもいて、また李秀卿氏もいます。ですから、心配せずに、重要な話を聞いていきなさい。」とおっしゃるのでした。それで、わたしは「神様、わたしがここに来る前にも祈祷しました。もしわたしが誤れば、一生独りで暮らします。ですから、神様、責任を持ってください! 」と祈祷したのです。
 帰る人はすべて帰り、真のお父様がみ言を語ってくださいました。一日じゅうみ言を語られたかたが、またみ言を語られるのですから、その体力は大変なものでした。理想家庭についてみ言を語られながら、「理想世界が到来するときは、サタン世界が退き、神様の理想世界が新たに来ます。それゆえに、理想相対に出会わなければなりません。」とおっしゃいました。
 そして
、「理想相対に会いたくないですか?」というみ言から始めて、露骨なみ言を語られました。それで、わたしは皮肉って、「先生は夫人がいらっしゃるのに、どうして結婚しようとされていらっしゃるのですか?」と言いました。
 真のお父様は、それでもわたしに、「理想相対に出会わなければなりません。」とおっしゃいました。

わたしは、「わたしには、約婚した人がいます。」と言いました。当時、知っている人の中に、わたしを異性として思い、好意を寄せている人がいたのです。既成教会で出会ったソウル大学校の医学部に通っている人でした。
 わたしは、その人を気の置けない信仰の友人と思っていたのですが、その人はわたしを異性として思っていました。それで、これ以上はだめであると思って、絶交したのです。そのような人を、真のお父様の前ではわざと約婚者であると言ったのです。
 すると、真のお父様は「それは、神様の御意ではありません。」とおっしゃるのでした。わたしは、「教会で手を握って祈祷したのに、なぜ神様の御意ではないのですか?」と言いました。真のお父様は、「その人では不足です! 」とおっしゃいました。
 そのような言葉をやり取りしながら、
わたしは“このかたは、本当にうわさどおり怪しいかただ! と思いました。すると、真のお父様は、「わたしの目をしっかりと見なさい。これは、人間的に考えてはいけません。しっかりしなさい! 」とおっしゃいました。
 真のお父様は、「このみ旨は人間的なものではなく、間違えればサタンが讒訴して侵犯するようになるので、わたしをまっすぐ見詰めて話しなさい。」とおっしゃいました。
 そのようにおっしゃっても、わたしが頭を下げるので、何度も「まっすぐ見詰めなさい。」と言って、本当に深刻な表情をしていらっしゃいました。

 そのような中で、わたしは幻を見ました。イエス様の姿と真のお父様の姿が、一つに見えると同時に、その横には幼い女性が真のお父様の相対者として立てられているのが見えたのです。
・・・そのようなことがあった後、わたしが釜山の影島で修練を受け、恩恵を受けて教会に通うようになるとともに、淳實さんと親友になったのです。』

(ファミリー2005年6月号 金明煕自身の証より)

朴正華氏も金明煕女史も同じことを言っているのがわかると思います。そしてその後、金明煕女史は文教祖の息子を妊娠するのです。

さらに文教祖は金明煕女史だけではなく、金明煕女史の三位基台の処女とも関係を持ち、一人は妊娠し男の子を産んでいます。

この当時(1953年、54年ごろ)の文教祖極めつけの落とし文句は「理想相対(真の夫=理想相対)に会いたくないですか?」だったようです。

そしてその後は不倫の関係にもかかわらず、複数の女性と映画を見たり関係を楽しむのです。金明煕女史はどのように証しているでしょうか。

『真のお父様が、崔淳實さんと出掛けられるときには、わざと怒らせるような言葉で、「明煕よ、すまない。わたしたちは映画を見に行ってくる。」と言って出掛けられました。また、淳實さんは、映画館に行ってくると、真のお父様がおっしゃった言葉をわたしに話してくれました。
 映画の中の女性の主人公を見ながら、「あれは明煕のようでしょう? まるで明煕のようだ。」とおっしゃったと言いました。そのような中で、淳實さんとわたしは教育を受けたのです。淳實さんと、その妹とわたしを、真のお父様は三位基台として結んでくださいました。実際、崔淳實さんとわたしは、延世大学校の同期同窓でした。』

(ファミリー2005年6月号 金明煕自身の証より)

ここに出てくる金明煕と三位基台の「崔淳實と妹」ですが、この二人も文教祖と関係を持ち、「妹」に関しては妊娠し男の子を出産しましたが、幹部が育てたと「六マリアの悲劇」では述べています。

真の母の資格のない金明煕女史も妊娠し文教祖の子供を出産しているのですから、ほかの処女が文教祖の子供を産んでも不思議ではありません。

金明煕と三位基台の「崔淳實と妹」のことを「六マリアの悲劇」ではこのように書かれています。

『釜山影島の辛聖黙自宅では、金永姫(金明煕)という処女を復帰させたが、その後も関係を続け、金永姫(金明煕)は妊娠した。その事実を隠すために文鮮明は、呉昇澤という(延世大学の)学生に因果を含めて金永姫(金明煕)を押し付け、一緒に日本に密航させた。金永姫(金明煕)は日本で文鮮明の息子を出産し、貧乏のどん底で暮らすことになった。
さらに李聖礼(崔淳實の妹)という処女とも復帰(血統転換の性行為儀式)し、男の子を産ませている。
ソウルに来てからは、六マリアの場合もそうだったが、文鮮明は、新婦である処女を選択するという名目で。李聖花(崔淳實)をソウルの駅前の旅館で復帰(血統転換の性行為儀式)したのである。李聖花(崔淳實)はそのあと、自分が真の母親候補の一番だと思っていた。そのときの共犯は李順哲だった。李聖花を煽動した彼女は、新婦=真の母親として選択され、復帰した証として金の指輪を作り、この哀れな処女に贈ったものである。
そして、文鮮明はこの処女を全部見捨て、洪順愛の娘、韓鶴子と「子羊の儀式」をあげ、韓鶴子が真のお母様になると言って結婚した。』

(朴正華氏著「六マリアの悲劇」p197より)

『それ以外にも「子羊の儀式」を挙げるという口実で、処女の李聖礼(崔淳實の妹)を復帰し、彼女にも子供を産ませた。その子も、ある幹部の息子として養育されているという話だ。こんなことが許されていいのだろうか。』
(朴正華氏著「六マリアの悲劇」p250より)

ちなみの文教祖は信者である母娘とも性関係を持っています。(母親:辛貞順、長女:李聖花(崔淳實)、次女:李聖礼(崔淳實の妹))
近親相姦はサタンの業だと言っていたのは文教祖ではなかったでしょうか。

$ちゃぬの裏韓国日記
(1955年7月15日京郷新聞記事)

崔淳實が淫行媒介で拘束されています。「六マリアの悲劇」での記述は

『一九五五年七月四日、ついに文さんが拘束された。・・・五日には金元弼が拘束され、六日には劉孝敏、劉孝永、十三日には劉孝元が、そして十八日には女の李聖花(崔淳實)が拘束された。結局、文さんを含めて、六人が拘束されることになった。』
(朴正華氏著「六マリアの悲劇」p121より)

そして文鮮明教祖の母娘相姦を「六マリアの悲劇」ではこのように述べています。

『ところで文鮮明は、この(六マリアの一人の)辛貞順の長女で処女の李聖花(崔淳實)を、将来はエバになる人だと言って犯したが、金永姫(金明煕の妊娠)事件でその嘘がばれてしまった。また次女の聖礼(崔淳實の妹)も文鮮明から復帰(血統転換の性行為儀式)を受け、子供まで産むことになった。
辛貞順は六マリアになれたことで、文鮮明のそばで永遠に平和な生活ができると思っていた。それで、釜山草梁洞にあった家を売り、文鮮明に捧げた。私が釜山で縄の商売を始めたとき、その資金を用意してくれたのも、やはり辛貞順だった。
しかし母親と娘二人の母子三人が、文鮮明とセ ックスしてしまった事実は、辛貞順を苦しめることになった。そして、それが原因でか病気になり、数年後に死んでしまった。
あの世に行った辛貞順は、今の文鮮明をどう見ているのだろうか。』

(朴正華氏著「六マリアの悲劇」p152より)

『それにしても、文さん(文教祖)を巡る女性問題の続出には、さすがの私(朴正華)もまいっていた。復帰原理を口実に人妻も処女も、目の前に現れる女たちは遅かれ早かれ、文さん(文教祖)セ ックスする関係になった。そうなれば当然、夫や親は怒るだろう。なかには、母親と二人の娘の三人と関係したこともある。大事件に至らなかったのは、これも神のご守護なのだろうか?
・・・ところで、(ソウル鍾路区)清進洞の家から逃げ出した直後、文鮮明は李順哲とソウル本駅の前にある旅館に行き、霊的な儀式だという名目で、処女の李聖花(崔淳實)と復帰原理の儀式を行った。要するに三人はそこで、霊的な儀式ではなく、肉体的な儀式=セ ックスをしただけなのである。
厳格に言えば復帰の儀式は、その横で他の食口が証人として見ていなければならない。この日は李順哲が証人として協力した。李聖花(崔淳實)は処女だったので、将来は「子羊の儀式」をあげて、つまり正式に結婚して文鮮明の妻になれると思い込んでいた。事実、李順哲は李聖花(崔淳實)にこのとき、「未来のお母さまへ」と言って高価な指輪まで贈っているのだ。このことは、私が当事者の文鮮明から直接聞いたので、間違いない。』

(朴正華氏著「六マリアの悲劇」p87より)



<金明熙氏のソウル民事地方法院への訴状>
(※この金明熙氏は男性で喜進の母の金明熙女史とは同姓同名の別人)
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1、反キリスト性
統一教がキリスト教連合、宗教統合をうんぬんするのは、このような邪教を認めてもらうための巧妙な奸計にすぎない。
混淫は聖書宗教ではなく邪教であるに もかかわらず、これをキリスト教の根本であると主張している。キリスト教は性の純潔を重視し、唯一の離婚観として姦淫をあげている。
霊魂の救いを得るには 姦淫を避けよと命じている。にもかかわらず、文被告は美貌の女子、金持ちの女子たちに眼ざしをそそぎ、女子たちをして便所にまで追っかけてこさせるほど誘引した。
アダムとイヴの裸身は悪魔に貞操を奪われたためだから、このような原罪を清算するためには、堕落した経路の反対経路によって、文自身に清い血をもらい受け、霊体を得ることによって初めて可能だと欺瞞してきた。
創世記第三章を性欲主義にすりかえ、一大私娼集団を形成してきた。
 男は女を、女は男を蕩減復帰させることにより、寡婦や家庭の主婦をして独身男子を悦ばせ、金もなくうろついている無為徒食の若い男子らを誘い、女子と交わらせては、性欲を満喫飽食させた。
時には、男娼集団となり、時には女娼化の過程を通じ、男女混娼の私娼街を形成してきた。このような奇々怪々な教理は、 正統のキリスト教理には見いだすことのできない異端である。
六〇万ウォンずつ三回にわたり文被告は一八〇万ウォン受けとった上、豪奢な生活のなかで信徒たちを姦淫しつつ復帰をうんぬんしたこともあるのである。
 キリスト教は混合宗教ではないにもかかわらず、不可思議な世界基督教統一神霊協会という要領をえない教名をつけて、世人を惑わさせた。

4、反倫理、反道徳、反社会性
 文鮮明がくりひろげた混淫の行脚はわれわれの想像をこえている。文被告の教義がいくら混淫の血分けだといっても、その程度があまりに深刻で放置しておけない。彼は百数十名の女子らを耽溺した色漢であり、代表的な悪例として、一人の母と二人の娘を同時に犯した三母女混淫事件をはじめとし、母女混淫、叔母と姪混淫、主婦姦淫、寡婦、独身女姦淫など、その醜悪な実相に至っては各論部分にて追って詳述することにする。果たしてこうしたことがこの国この社会にあったのか、疑わざるを得ない。彼の行跡は一九四〇年代から混淫を記録しているが、こうした理由によって彼は解放後、北緯の興南で監獄にぶち込まれ、国軍の越北進軍のおかげで釈放され南下し、一九五四年ごろにはいわゆる梨花女子大事件でまたも監獄行となった。こうした中でも彼は貸家を転々としつつ、旅館その他の場所で、はなはだしい例としては、一つの部屋に数名の女たちを連れ込んで順次混淫を行った上、彼についてきた信徒に「あなたもちょっとやってみろ」と いって、その信徒が唖然失色して、脱教した事例もあった。彼のパンツは常に汚れていて、彼が便所へ行けばついて行って、彼の「生命の樹」を便所内にまで要求する女までいるほどであった。彼の糟糠の妻、崔先吉にゴム靴で頬っぺたを火花が散る程打たれたこともあって、常に逃げ廻るのにせわしかった。そうかと思えば、一過程に六十万ウォンずつ、三過程を経て清算し得るという血分けで、百八十万ウォンをもらって混淫したこともあり、女娼ならぬ男娼としての行脚を行なったこともある。このような文鮮明の奇怪な発想は、その祖先を神格化する着想にも見られる。文被告の祖先神格化のため、京畿道城州に彼の祖父の墓をまるで王陵のように造りあげたかと思えば、彼の死んだ子のためにも、また陵を造った。一般信徒達が辛苦して稼いだ金で、彼は帝王のように豪奢な生活を営み、これをいさめる者は仮借なく粛清した。(中略)文被告の誇大妄想症は、精神的底辺において、自己卑下の劣等意識を解放することにあったため、貫禄ある家柄の子孫らしく偽装することによって、自らの神格化を図ったのである。これがいわゆる教主文鮮明の実像である。(中略)原告は彼のような者の下で、何を学ぶために入教したのか、自愧を禁じえないし、激怒せざるをえない。彼の行脚で破壊された善良な家庭は数限り無く、合同結婚式は死の行列であり、魔の葬送曲であった。子女と妻が、失なった夫たちを戻せと、結婚式場で泣き叫び、妻と子女を失った夫が妻と子を戻せと絶叫した。彼等の恨みのこもった怨念は永久にこだまするであろう。同時に彼にそむかれた糟糠の妻崔先吉は、糞桶からひしゃくを持って来て、彼に汚物汚水を浴びせたが、その程度では崔女人の怨みが解かれたとはいえない。
一九七八・三・二五
 原告 金明煕
 原告訴訟代理入 弁護士 龍太暎 
ソウル民事地方法院 御中

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(「金明熙氏の訴状」は「淫教のメシア文鮮明伝」(晩せい社)の巻末に掲載)


「真の母の資格もない20代の金明煕が「第二の真のお母様扱い」の矛盾(2)」 へ続く

文一族相関図・六マリア編<六マリア13人?それ以上か↑6人だけではなかったのです。  
先生はね、六マリアじゃないんだよ。60マリアなんだね。うん?・・・ いや・・・ 数百マリアかな