「元気」の意味と価値―スーパーの帰り道に思うこと― | みかりんのThink different

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27歳、主婦みかりんのブログ!楽しく生きて旦那の才能を開花させ、幸せな家庭を築きます♪
ホームエステ・アンバサダー / 講演 / カウンセラー / アゲマン料理研究家 / アーティスト / 作文講師。


最近、ほぼ毎日スーパーに行きます。



昼間に行くと、民家や道端にどんどん可愛い花が咲いてきているのがわかって

ほんとうに幸せですピンクチューリップオレンジチューリップハイビスカス




春をこんなに味わったことってなかったかも…


もっと味わいたい。





スーパーへ行く道って、まぁふつう献立のこととか

考えたりするじゃないですか。




帰り道って、何考えてますか?





毎日スーパー行ってると、だいたい買うモノのパターンも

決まってくるわけですよ。




野菜買って、肉とか買って、ヨーグルト、ジュース、お酒…




スーパー




そうやって毎日を過ごしていると


いよいよ


私って同じものを食べて出して、寝てお風呂入ってるだけの存在だなぁとか


思ってくるわけですよ。





だからだいたいスーパー行くと落ち込んでくるんですよね。



いや落ち込むっていうと大げさだけど、

ブルーになるっていうか…


ブルー









それでね、でもね、


同じものを食べて出して、寝てお風呂入ってるだけのことに


意味がないとは思ってないんですよ。




むしろそれらが出来なくなると果てしなく辛いしね。


点滴生活とかさ、便秘とか不眠とかお湯が出ないとかさ、

辛いもんね。




それらの最低限度のことが出来ることは幸せで

価値のあることだということは

まぁ分かってるんですよ、それなりに。




それなりに分かった上で、

でもこんなことの繰り返しに何の意味があるのか

ってねー…



やっぱ思っちゃうわけですよ、贅沢なことですけどね。



そんなことのためにストレス溜めながらお金稼いでる人がいると思うとねー、

生きるって何?どゆこと?って思いますよねー。




(だいたい野菜コーナー→肉コーナーと回って、

はて、切らしているものは何だったかなと立ち止まる

牛乳コーナーあたりでだんだんブルーになってきますよ)



ブルー








そんでまぁとりあえずお会計を済ませるんですが、


生きるって何?状態はその後も続くわけで


スーパーを出たあたりで今日は次のように思いました。





「他の人、特に家族や大切な人のことを思い浮かべると


確かに元気であること、ただ食べて寝てふつうに生活していることに


絶対的な意味があると思う。




家族には元気でいて欲しいと思う。




ただ一方で、じゃあ自分はどうだろうかと矛先を自分に向けてきたときに


「元気でありさえすれば十分!」って


思えないよねー。」






やっぱりこれだけは、自分/他人で

明確に異なるわけですよ。






だって、


自分が元気であることの


自分にとっての意味って


ないんですもん。






自分が元気であることで

主人が喜ぶとか、

親が喜ぶとか、

そういうのは分かりますよ。





ただ、自分が元気だからって

当の本人はそれを喜ばしいこととは思わないというか、

むしろ「元気である」以外の何も持っていない私にとっては

苦痛にさえなっているかもしれないという。





だって、本当に私、元気なだけなんですよ。




そんな自分、自分自身にとって、価値あると思えます?




「元気だったら、何でもできるじゃーん!」みたいな声が飛んできそうですが

じゃあ本当に「何でもできますか?」って。



(別の話になっちゃうけど、

心にいろんなストッパーがかかっちゃってるから

何でもできるってわけでもない。


ていうか「何でもできる」って幸せですか。

「これしかできない」になってみたいよ早く。)









元気なだけで仕事もしてないし

とってつけたような「やりたいこと」を暇つぶしにやってるだけだし


ていうか「暇つぶし」するぐらいなら死にたい。




(あと私厳密に言うと元気じゃありません、闘病中です)






「ヒマ」ってさ、「やることない」ってさ、

なんか自分の命に意味がないように思えてくるっていうか、

わが命よ、意味を与えてやれなくてごめんよ、という気になってくる。





それでものん気に「元気である」ことだけを誇らしげに生きてっていいんですかと。




「元気」ってそんなに絶対的に価値がありますかと。





そしたら生まれつき病気を持っている子どもの場合はどうなのかと。




とてもじゃないけど、「元気」とは言えないような状態で、


生まれてこのかた入院生活しかしたことがなくて、


食の幸せも知らなくて……






そんな子どもに対して周りの人が思うことって



「生きてくれさえすればいい」


「笑顔を見せてくれるだけでいい」



ってとんでもなくハードルが下がるわけじゃないですか。



(だいたいスーパーから2つ目の曲がり角あたりで

 こんなことを考え始めました)






元気じゃなくても、ただたまに笑って生きてくれているだけで


この子が生まれたことには意味があったと。


そう思うわけじゃないですか。





(ていうかもう意味ってなに。)







当の本人はやっぱり、そうは思えない部分がきっとあるはずで


「走ってみたかった」とか

「ハンバーグ食べてみたかった」とか

「家で暮らしてみたかった」とか

「学校行きたかった」とか


そういう叶えられない思いとともに短い人生を終えるわけでしょ。







「それでもこの子に会えて良かった」

「それでもこの子が生まれたことには意味があった」


ってそう思う気持ちはスゴく分かるけど、

でもちょっと乱暴じゃない?とも思ってしまうわけでね……



当の本人の気持ちが報われていないからね。








だから、自分自身のことは

「元気」とか「元気じゃない」とか

そういう基準で考えてても救われない気がしてくるわけですよね。





だって元気な人生って、

元気なだけじゃ、ともすれば変わり映えのない

同じような日々の繰り返しだし



元気じゃなかったらそれはそれで苦しいし。






「元気」「元気じゃない」「幸せ」「不幸」

そういった基準で自分の人生に意味づけをするんじゃなく、

そういったものを超えたところに

本当の「生命の価値」ってものがあると思うんですよ。



それこそ絶対的なね。









スーパーに行くたびにそんなことを考えるもんだから


いま闘病中のパニック障害だって


なかなかとんぷく薬が取れるところまでいかなくて


今日病院行ったら


「パキシル増やしましょう」って。




とうとうパキシル40mg突入。




パキシル40っていうと、

強迫性障害(家を出るときに鍵をかけたことを何度も確認しないと気が済まない、

手を洗い続けてしまう、などなど同じ行動をずっとやり続けてしまう症状)のレベルなんですよ。





パニック障害は一般的には30飲めば収まっていくと言われてるんだけどね。





パキシルってなんか高校時代の恋愛みたいな薬で、

10mg→20mg→30mgって増薬していくとき、まず苦しいのね。

頭痛とか。



で、一定量で安定して飲んでるときは副作用は出ないんだけど




減薬がまた大変らしいのよ。




高校時代の恋愛って、

距離が縮まるとき

「あの人私のことどう思ってるんだろう…?」

「今日メールくれなかった…」

「きゃっ!今度デート!」みたいなね、

そういう激動の毎日(増薬)を過ごすわけ。


で、付き合って、関係が安定するとまぁ幸せなんだけど


問題は別れね。まさに減薬。

「なんで別れなきゃいけないの…?」

「もっと一緒にいたかったのに、分かってくれない!」

「ていうかもともとは彼が悪いのに、なんで私がフられるわけ!怒!」

みたいなね。




……無駄なたとえ話だったかもしれないけど、


とにかくパキシルってやつは

お付き合いするのも、お別れするのも

大変なんですよ。





減薬が長引くから

あんまり増やしたくなかったんだけどね。






まぁでもスーパー行くたびにこんなこと考えて

「胸が苦しいです…げほ」みたいな人には


さすがに「パキシル40処方!くすり病院」ですよね。わかります。






でもさ、こんな私でもさ、

やっぱり「毎日笑えればそれでいいんだ」なんて思えなくてですね、

私にあるはずの個性や才能を活かして活躍したい!!!っていう

フラストレーションがまたムクムクと

底の見えない温泉から湧きあがる大きな泡のように襲ってくるわけです。




はぁ……




ブルー


まぁブルーはブルーなりにきっと輝ける道があると信じてるよ。



でも「How are you?」に対して

「I'm fine, thank you.」とは意地でも答えたくない私の気持ちをどうか酌んでください。