『道の文化』を深掘る-その16「道(どう)をつけたがる日本人」 | 問題意識の教材化(MIK)ブログ

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今日の一日一読は前回の続きで「道(どう)の文化は擁護できない」に入り、「道(どう)をつけたがる日本人」でした。今回も短い文章でしたが、中身が刺激的なので、一旦まとめてみたいです。


山田先生は「道(みち)の文化」と似たものに「道(どう)の文化」があるが、同じ漢字を書いても違いがあると言います。それだけではなく「道(どう)の文化」には反感すら覚えるというのです。


正直、私自身はこれまで道を「どう」と読むか「みち」と読むかにはそこまでこだわりがありませんでした。広く知られている「道」はほとんどが「どう」であって、「武士道」や「剣道」、「柔道」、「華道」、「茶道」などがありますが、西洋的な「術」と比べて優位性があると思っていました。


しかしながら山田先生はキッパリと「道(どう)と名づけられたものに、ろくなものがない」(39ページ)と考えていると言います。どのような意図があるのかをしっかりと深めていきます。