『二宮翁夜話』からMIKするーその235「(続々)飢饉を村人全員で立ち向かう」 | 問題意識の教材化(MIK)ブログ

問題意識の教材化(MIK)ブログ

今の「学び」を「〇〇のため」で終わらせずに、「〇〇とともに」にしていくために、問題意識を教材化して、日本の教育システムで閉ざされたものを開き続けます。

image

今日の一日一読は「〔235〕救急と勧業の良法」でした。今日の夜話も昨日と一昨日に続く内容でした。前回までの2話がいかに飢饉にやられないようにするための内容だったのに対して、今回は飢饉に立ち向かうプロセスで逆により良くなっていこうという試みが語られていました。二宮尊徳という人物の視野の広さには驚嘆するばかりです。

 

尊徳が考え前回までに語られた仕法は「ただ急場を救うだけの良法ではなく、勧業のためにも良法」(305ページ)だと言われています。具体的に言うと、「遊惰の者を自然に勉励に仕向けて、思わず知らず職業を習い覚えさせる。習い性となっては弱い者も強くなるし、愚かな者も職業に慣れるし、幼い者もなわをなうことを覚え、わらじを作ることを覚え、そのほか種々のかせぎを覚えて、遊んで徒食する者がなくなる。そうして人々は遊んでいることが恥かしく、徒食することが恥かしくなって、おのおの精業におもむくようになってくるのだ。」(305-306ページ)

 

ここで注目すべきは、尊徳の仕法は飢饉を救うためで終わらずに人々をより良い方向性に向かうようになるきっかけにできるという点です。飢饉というのは避けて通れるには越したことはないのでしょうが、来てしまったことをただ嘆くのではなく、逆にそれをバネにするぐらいの機会に変えていくことができると尊徳は考えていました。まさに逆境に村人全員で強くなっていこうとしていたのです。しかも、もともと強くない人もこの機に強くなっていこうという意識が非常に強かったことが伺えます。

 

このような尊徳の考えこそが、実は一番尊徳が理想とした姿であったことがこの夜話の後半で語られています。

「恵んで費えない方法(無利息金貸付法など)は、困窮を救うための良法であるが、右の方法〔勧業を促す上記の仕法〕はこれに倍した良法といってよい。飢きん凶歳でなくても、困窮を救う志がある者は、深くこれに注目せねばならない。世間で困窮者を救おうという者が、みだりに金や穀物を施し与えるのは、はなはだよくないことだ。なぜかといえば、人民を怠惰に導くからだ。これはつまり恵んで費えることによる。」(306ページ)

 

ここで重要なのは、尊徳がこれまで重視してきた「無利息金貸付法」でさえ、人々を怠惰にさせる可能性があるから問題が残っているという認識を尊徳が持っていたことです。その223では、無利息金が慈善活動ではないことを強調したが、そこさえも超えていく内容が今回あったのです。二宮尊徳という人物は、どこまでも、自分が良かれと思ってしてしまうことの傲慢を自覚していたことが伺えます。