最終話
このblogを始めたとき、
このblogが終わることなんて、あるのかな、って思ってました。
でも、ようやく終わりを迎えることができます。
自分で這い上がり、自分で新たな道をみつけた元夫。
元夫に、一番必要だったことだと思います。
もう大丈夫、と言いきれるわけではありません。
この先、またうつ病の状態になるかもしれません。
でも、今の現状の元夫に、大丈夫としなければ、いけないと思いました。
元夫が、うつ病と診断されたのは、娘が小学6年生のときでした。その娘は今では大学1年です。下の息子が小学3年生のときでした。その息子は今では高校1年です。
ながいながい時間でした。
でも、子供たちは、まっすぐに、成長してくれました。
先月、私は47才になりました。
元夫に対する気持ちにも整理がつき、家も仕事も新しくなってむかえた誕生日です。きっとこれにも何か意味があると、いつものなんとなくの私の直感がはたらいています。
いろんなことがありました。
いろんなこと、やり遂げました。
たくさんの人に、出会いました。
そして、助けられました。
本当に、感謝の気持ちしかありません。
自分のために書き綴ったblogでした。
でも、いつしか読んでくださり、コメントやメッセージをおくってくださった皆様、ほんとうにありがとうございました。
どれだけ救われたことか…
ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました。
このblogが終わることなんて、あるのかな、って思ってました。
でも、ようやく終わりを迎えることができます。
自分で這い上がり、自分で新たな道をみつけた元夫。
元夫に、一番必要だったことだと思います。
もう大丈夫、と言いきれるわけではありません。
この先、またうつ病の状態になるかもしれません。
でも、今の現状の元夫に、大丈夫としなければ、いけないと思いました。
元夫が、うつ病と診断されたのは、娘が小学6年生のときでした。その娘は今では大学1年です。下の息子が小学3年生のときでした。その息子は今では高校1年です。
ながいながい時間でした。
でも、子供たちは、まっすぐに、成長してくれました。
先月、私は47才になりました。
元夫に対する気持ちにも整理がつき、家も仕事も新しくなってむかえた誕生日です。きっとこれにも何か意味があると、いつものなんとなくの私の直感がはたらいています。
いろんなことがありました。
いろんなこと、やり遂げました。
たくさんの人に、出会いました。
そして、助けられました。
本当に、感謝の気持ちしかありません。
自分のために書き綴ったblogでした。
でも、いつしか読んでくださり、コメントやメッセージをおくってくださった皆様、ほんとうにありがとうございました。
どれだけ救われたことか…
ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました。
私の目標
週末は花嫁介添えの仕事、平日は医療事務の仕事。
このスタンスでこれからも、ずっとやっていこう、そう思っていた。
でも、お仕事探しセンター内の、母子家庭のコーナーの女性担当者の言葉で、一転した。
「花嫁介添えの仕事の経歴が10年ある。この関連の仕事なら、あなただったらすぐみつかるよ。
もう、好きな仕事一本で働いたら?」
46才の転職はかなりきびしい、という話からだった。
前職場でのことがトラウマになって、もう病院では働きたくないと思っていた。
それに、病院という場は、あまり得意ではない。
だから、全くちがう職種に就きたいと思ったが、46才の未経験の業務は無理だろう。
医療事務の経歴は、合わせて6年ある。
花嫁介添えの仕事をしたいのなら、平日はやはり医療事務しかない。
そんな話のやりとりからの言葉だった。
そして、その人から言葉以外の何かを感じた。
花嫁介添えの仕事、気がつけば10年になる。ずっとこの仕事を、今の結婚式場でやっていくつもりでいた。辞めることなど考えたことがなかった。
でも、この担当者との出会いにより、辞めるのではなく、卒業と思った。
私の中に、人間は働く、というのがある。それに、私の場合、働かなければいけない立場である。
生涯を、好きな仕事で終えたい。
今後、ブライダルの世界で生きていこう、そう思った。
でも、今すぐではない。
「大学1年と高校1年の子供なら、土日祝が仕事でも、もういいんじゃない?」と担当者に言われたが、息子の最後の野球の人生をみたいと思った。
土日祝すべて出勤の接客業のブライダルの仕事一本にしてしまったら、息子の野球の試合が全くみれなくなってしまうと思った。
それに、毎朝5時に起きてお弁当を作り、6時に息子を送り出す。接客業になると、遅い出勤で帰りも遅くなる。
息子にとっても、私にとっても厳しい生活になるのが目にみえてわかる。
高校3年の夏で、野球部は終わる。
あと2年。
2年後、ブライダルの世界で生きていこうという目標をもった。
この強い気持ちは、33才の頃、花嫁介添えの仕事をしようと思ったときと同じだった。
2年後の私の目標にむけて動き出す。
6年という経歴を生かし、個人のクリニックではなく、大きな病院をさがし、あえて社員ではなく、派遣として働きだした。
この2年間で、医療事務の仕事は最後としよう。だから、たくさんの知識を得よう、そしてやり遂げようと思う。
常に、アンテナははっておこう。
今の状態をすべて変えてもいいと思えるほどのブライダルの仕事があれば、2年またずして飛び込もうと思う。
もう私はたくさん生きた。
自分の人生、おもしろいって思う。
いい意味で、これで全て終わりでもいいと思っていた。
でも、また目標をみつけてしまった。
あともう一花咲かせようと思う。
このスタンスでこれからも、ずっとやっていこう、そう思っていた。
でも、お仕事探しセンター内の、母子家庭のコーナーの女性担当者の言葉で、一転した。
「花嫁介添えの仕事の経歴が10年ある。この関連の仕事なら、あなただったらすぐみつかるよ。
もう、好きな仕事一本で働いたら?」
46才の転職はかなりきびしい、という話からだった。
前職場でのことがトラウマになって、もう病院では働きたくないと思っていた。
それに、病院という場は、あまり得意ではない。
だから、全くちがう職種に就きたいと思ったが、46才の未経験の業務は無理だろう。
医療事務の経歴は、合わせて6年ある。
花嫁介添えの仕事をしたいのなら、平日はやはり医療事務しかない。
そんな話のやりとりからの言葉だった。
そして、その人から言葉以外の何かを感じた。
花嫁介添えの仕事、気がつけば10年になる。ずっとこの仕事を、今の結婚式場でやっていくつもりでいた。辞めることなど考えたことがなかった。
でも、この担当者との出会いにより、辞めるのではなく、卒業と思った。
私の中に、人間は働く、というのがある。それに、私の場合、働かなければいけない立場である。
生涯を、好きな仕事で終えたい。
今後、ブライダルの世界で生きていこう、そう思った。
でも、今すぐではない。
「大学1年と高校1年の子供なら、土日祝が仕事でも、もういいんじゃない?」と担当者に言われたが、息子の最後の野球の人生をみたいと思った。
土日祝すべて出勤の接客業のブライダルの仕事一本にしてしまったら、息子の野球の試合が全くみれなくなってしまうと思った。
それに、毎朝5時に起きてお弁当を作り、6時に息子を送り出す。接客業になると、遅い出勤で帰りも遅くなる。
息子にとっても、私にとっても厳しい生活になるのが目にみえてわかる。
高校3年の夏で、野球部は終わる。
あと2年。
2年後、ブライダルの世界で生きていこうという目標をもった。
この強い気持ちは、33才の頃、花嫁介添えの仕事をしようと思ったときと同じだった。
2年後の私の目標にむけて動き出す。
6年という経歴を生かし、個人のクリニックではなく、大きな病院をさがし、あえて社員ではなく、派遣として働きだした。
この2年間で、医療事務の仕事は最後としよう。だから、たくさんの知識を得よう、そしてやり遂げようと思う。
常に、アンテナははっておこう。
今の状態をすべて変えてもいいと思えるほどのブライダルの仕事があれば、2年またずして飛び込もうと思う。
もう私はたくさん生きた。
自分の人生、おもしろいって思う。
いい意味で、これで全て終わりでもいいと思っていた。
でも、また目標をみつけてしまった。
あともう一花咲かせようと思う。
私の転職
週末の花嫁介添えの仕事はそのままで、平日の仕事は、入院施設のある病院に転職をした。
仕事を辞めて一ヶ月間は、引っ越してきた荷物の片付け、なかなか会えなかった友人との会食、息子の学校行事と野球部の応援などの日々をすごした。
生活のことを考えれば、すぐにでも仕事探しをしなければいけなかった。
でも、今までの忙しさと、それまでの仕事場でのストレスで、脳がパンパンになっているのを感じてたから、休養が必要だった。
2週間たった頃には、脳が軽くなり、思考が平常に戻った。
3週間たった頃には、荷物も片付け終わっていた。
そして、仕事を辞めて2ヶ月目から、就職活動を開始した。
以前、子供たちの就学金のことで何度も役所へ行ったとき、私の目に飛び込んできたパンフレットがあった。
それは、お仕事探しセンターというものだった。
その名の通り、お仕事を探す会社。
だいたい仕事探しはハローワーク?
でも、こんなに大きな会社があるんだぁ~と驚いた。
あのとき自分の目に飛び込んできた感覚は、ふつうではなかった。
いつもの自分の直感を信じ、この会社の門をたたいた。
今勤めている病院の仕事は、ちがう経路からみつけたものだが、この会社から得たものは、これから先の自分にとって、ものすごいものとなった。
仕事を辞めて一ヶ月間は、引っ越してきた荷物の片付け、なかなか会えなかった友人との会食、息子の学校行事と野球部の応援などの日々をすごした。
生活のことを考えれば、すぐにでも仕事探しをしなければいけなかった。
でも、今までの忙しさと、それまでの仕事場でのストレスで、脳がパンパンになっているのを感じてたから、休養が必要だった。
2週間たった頃には、脳が軽くなり、思考が平常に戻った。
3週間たった頃には、荷物も片付け終わっていた。
そして、仕事を辞めて2ヶ月目から、就職活動を開始した。
以前、子供たちの就学金のことで何度も役所へ行ったとき、私の目に飛び込んできたパンフレットがあった。
それは、お仕事探しセンターというものだった。
その名の通り、お仕事を探す会社。
だいたい仕事探しはハローワーク?
でも、こんなに大きな会社があるんだぁ~と驚いた。
あのとき自分の目に飛び込んできた感覚は、ふつうではなかった。
いつもの自分の直感を信じ、この会社の門をたたいた。
今勤めている病院の仕事は、ちがう経路からみつけたものだが、この会社から得たものは、これから先の自分にとって、ものすごいものとなった。