新年あけましておめでとうございます。

ハートとつながるヒーラー、みーこです。

 

2023年は、12月頭に仕事で無理をして風邪をひいてしまったのですが、

そこから持病の喘息が悪化し、ちょっと動くだけで咳がとまらず

年末年始をゆっくりするどころか療養に費やすことになりました。

 

このブログを書いている1月24日現在も、絶賛喘息活躍中です…

 

久しぶりのブログ更新ですが、

2024年はどんな年になるか、というテーマで書いていこうと思います。

 

その前に、1年の始まりは元旦にあり!!!

もう25日だというつっこみは横において

 私の新年の抱負はズバリ!

「自分を深く知り 

 バランスを取る」

「行動する」

 

 

自分を深く知る=ハートとつながる、と言い換えても良いかもしれません。

 

2024年は、能登の震災、津波、航空機の事故と、

人の命が失われる大きな災害、事故で始まりました。

 

まだ被害状況ははっきりとわからない状況ですが、

被害にあわれている方の心境を思うと、

新年のお祝いムードを前面に出すことが

憚られるような思いになります。

 

自粛しすぎても被害が小さくなるわけではありませんが、

かといって何も意識しないのも何となく違う、

部外者がいろいろと言うな、と思うこともありますが、

当事者しか何も言ってはいけない、というのは少し違うようにも思います。

 

2023年は、個人的には大きな変化の年だったと感じています。

 

一つひとつあげるときりがありませんが、

世間を騒がす大きなニュースが続きましたし、

政治の世界でも急激に私たち国民の負担が急増したような印象があります。

 

日本国内、世界的な大きな変化と重なるように、

私たち一人ひとりの意識にも変化があったのではないかと感じるのです。

 

環境、戦争、食糧、経済…未来がどうなるか、

不安におそわれることもあるかもしれません。

 

不安と恐怖は、私たちを死から遠ざけるために機能しています。

ですが、それは私たちが本来持っている可能性を制限することもあります。

不安は、私たちが想像すること以上に多くのことを判断しているので、

「何だかわからないけど怖い」としか言えない、というような、

漠然とした不安で身動きがとれなくなってしまうこともあります。

 

不安や恐怖がブレーキになってくれるおかげで、

私たちは安全に生きていくことができますし、

不安や恐怖を乗り越えて新しいことに挑戦することは、

自分自身を大きく成長させてくれます。

 

大切なことは、自分自身の内面に向き合い、

感情や思考を理解して行動していくことです。

 

感情も思考も、私たちの魂がこの地球で生きていくことを

サポートしてくれる機能にすぎません。

 

そういった心の動きを理解して、では現実でどう行動に移すか、

主導権はいつも「わたし自身」という顕在意識が握っているのです。

 

私自身、2023年を振り返ってみると、

不安におそわれて行動できずにいたことが多かったと思っています。

 

行動しない後悔よりも、行動した後悔のほうがいい、といわれますが、

だからといって行動できなかったことが悪いということはありません。

 

行動せずに後悔した経験からも、学べることはたくさんあるのです。

 

私たちが生きているのは、今のこの一瞬一瞬でしかありませんが、

その一瞬の中には、今まで生きてきた過去と、

これから目指す未来がたくさん詰まっています。

 

未来のために、過去に学び、今を生きる。

 

未来に備えることは大切ですが、不安や恐怖で今の自分を見失ってしまうと、

不安や恐怖が描く未来に自ら歩み寄ってしまう恐れがあります。

 

楽観的でポジティブでいればいいかというと、

それは確かに心地よく、力強いものですが、あまりにも楽観的すぎると、

突発的なリスクや予期せぬ困難に対処する能力を鈍らせることがあります。

 

だからこそ、私たちには「ポジティブ」と「ネガティブ」を理解したうえで、

バランスをとって生きていくことが大事なのです。

 

スピリチュアルの世界では、風の時代と言われ、

私たちがより自由で自分らしく生きていくことができる時代だと言われています。

 

私たちにできることは何か、できないことは何か、

心配しても仕方ないことで心を曇らせていないか

目の前にある小さな幸せを見逃していないか

 

等身大のありのままの自分自身を、思いっきり楽しみながら生きていきましょう!

 

少しずつブログも更新を増やしていけたらいいな…

 

 

 

 

 

ご覧いただき誠にありがとうございます。

みーこです。

 

生き辛さに苦しんだ30数年から、生きる喜びを知り始めて早数年、

自分自身、ずいぶんと前向きになれたな、

自分に自信も持てるようになったな、と思っておりました。

 

ですが、数日前から沸き上がる「私なんか・・・」という思い。

 

心がすとーん、と石のように重くなったかと思えば、

ふわっと羽のように軽くなっては、

またすとーんと重くなるの繰り返し。

(ここ笑うところですよー)

 

仕事が休みの日になったので、

朝からブログを書こうか、動画をとろうか、Xでいいね巡りをしようか、

なんて考えていましたが、いざ動こうとすると身体まで重く感じて、

何も行動できない、動けない状態になっていました。

 

Xに届いているコメントだけでも返そうとポチポチ返信していたところ、

はっとフラッシュバックが起こったんです。

 

「私は人より下の存在でいなければならない」という思いが

ぐわーーーーっと湧き出てきて、

今まで人と話をするときに、意図的に目の前の人を立てるような言葉を選んでいた場面が頭の中に湧き出てきたんです。

 

しばらく私は茫然としていました。

 

なぜなら、「私は人より下の存在でいなければいけない」から、

人前で無知を演じる、教えてほしいというポーズをとることが正しいという思い込みに囚われていて、そこに疑問を持つこともないほど無意識に刷り込まれていたことに気が付いたからです。

 

目の前で私に対して「私はダメな人間ですから」という人がいたら、

私は即座に否定するはずです。

 

生きる喜びを知ってからは、宇宙に人が存在しているということは、どんな人でも生きているだけで素晴らしいという信念を持っています。

それがたとえ犯罪者であってもです。

(ただし、生きているだけで素晴らしいと思うことと、

犯罪者や私に危害を及ぼす人間から自分を守ることは違います。

犯罪の被害にあうこと、自分だけでなく、

地域や日本、世界に危害が及ぶようなことを

容認することとは分けて考えております。

詳しく説明すると長くなりますので省きますが、

あくまで概念という形で信念としていて、

価値観はまた別だということを補足いたします)

 

では、目の前に私がいて「あなたはすごいですね、それに比べて私は・・・」と言い出したら、私はどうするでしょうか。

 

答えは一つです。「あなた(私)は素晴らしい存在だ」と伝えます。

 

なのに、ですよ。

 

今日の今日、今まで、私は私自身のことを、

「人よりも下の存在でいなければいけない」と、

「人よりもダメな自分でいなければならない」と、

自分自身の在り方を定義していたんです。

 

驚きました。そして、自然と涙が溢れて止まらなくなりました。

 

「人よりも下の存在でいなければならない」というしがらみは、

「自分を認めてほしい」という欲求に相反するものです。

 

認められない自分こそが認められるべき存在なんて、

もう何がなんだかわけがわかりませんね。

 

ですが、そのしがらみは、

人より何か優れているとねたまれる、自分が嫌な思いをする、

ネガティブな体験の積み重ねから自分を守るために生まれたもので、

決して自分を苦しめるために生まれたものではありません。

 

例えるなら、自分を守るために強いバリアをつくろうとして、

そうだ、トゲトゲのバリアなら、誰も入ってこれないぞ!と思い、

一生懸命トゲトゲのバリアを作った後、

結局自分がバリアから出られなくなってしまったような感じでしょうか。

 

「自分を嫌なことから守るため」に

「私は人より下の存在でいなければならない」という思いを持ち、

その思いが無意識に繰り返され、潜在意識に刷り込まれるほど、

より強く自分自身を縛る鎖となりますが、

そうなればなるほど、本当の自分の価値を発揮できなくなり、

「本当は私はできるのに」という満たされない承認欲求も同時に積み重なって、

自分に対する価値が歪んでふくれあがっていくのです。

 

「自分は無理して人より下にいる」という思いと

「本当は自分ができることを認めてほしい」という

相反する思いがふくれあがるとどうなると思いますか?

 

そこから様々なネガティブな思い込みや感情に派生していくということもありますが、自分に対する価値のことでいうと、

「自分は何ができて何ができないのかわからなくなり、

ありのままの自分の価値を認識することができなくなる」のです。

 

できない自分を受け入れる、受け入れないということではなく、

そもそも本当に自分にできることが何なのか、

自分は何ができないのか、その境界線がわからなくなるのです。

 

どういうことかというと、自分が本当にできないことであっても、

「わざとできなかった、本当に自分の能力が発揮できていればちゃんとできていた」と思ってしまったり、 

ちゃんとできていることでも「人よりできないように振る舞わなければいけなかった、人を傷つけるようなことをする自分はだめだ」と思ってしまったり、

現実に自分ができたこと、できなかったことに対して、正確にフィードバックができなくなってしまうんですね。

 

それが行き過ぎると、「自分が本当に人よりできないこと」を受け止められなくなるし、「自分ができることを自分で認められなくなる」ので、結果何しても「自分はダメだ」という結論にたどり着いてしまうようになるんです。

 

こういった小さな思いこみの積み重ねが、

「ダメな自分」を作り、自分に対する自信がなくなり、

自分が行動することに不安を感じるようになり、

生きていることそのものへの苦しみ、辛さへと繋がっていくのです。

 

たった一つの小さな思い込みが、くさびになって自分の世界を狭めている。 

でも、そのできごと自体に良い悪いはなくて、

人の心の仕組み上自然に起こりうることでしかありません。

 

生まれた瞬間、赤ちゃんは泣きますが、

「私ダメな人間です」

「生まれてきてごめんなさい」

「これから地球で生きていく自信がありません」と思って

泣きながら生まれてくる赤ちゃんはいませんよね。

 

ネガティブな経験で生まれた自分を苦しめるパターンも、

 だんだんと、本来の自分自身が育って顔を出してきて、

「ねぇ、私ちゃん、このままでいいの?」って

ネガティブなできごととして現れてきます。

 

ピンチはチャンス、とはよく言ったもので、

ネガティブなパターンや思い込みを手放すために、

ネガティブなできごとが起こることがあるんです。

 

その時に、ネガティブな思い込みで苦しんでいたことや、

ネガティブな経験を繰り返したことを

「悪いこと」とか「人生を損した」と思って悲しむ必要はありません。

 

これは、人間が「ポジティブ」と「ネガティブ」を、

絶対的な基準ではなく、比較して後天的に区別していくという性質を持つ以上、必ず起こる出来事なのです。

 

隣の芝は青く見えるということわざがありますが、

裕福な家に生まれ、親も優しく、何不自由なく育てられた場合であっても、

何不自由なく育っているその環境の中で、

「ネガティブ」なことと「ポジティブ」なことを区別します。

 

今持っている洋服の中に、今着たいと思う色のものがない、

お気に入りのカップを落としてふちが欠けてしまった、

髪型が自分の思い通りにならない、など、

普通に生きていればちょっとしたストレスでしかないもの、

傍から見れば「何でそんなささいなことで」と思えるようなことが、

その人にとっては大きなストレスに感じるようになるのです。

 

これは、どんな過酷な環境に生まれたとしても生き抜いていけるように

人間が生まれ持った特性なのではないか、と考えています。

 

最初から「親から怒られたくない」と思って生まれてきたとして、

生まれた子は親から怒られないように、

悪いことをしないまま生きていくことができるのでしょうか。

 

悪いことをして、親から怒られて、それを嫌だと思って学んでいく、

時にそれが理不尽なことであるかもしれませんが、

そうして自分で痛みを経験することで、

人の痛みもわかるようになるのではないでしょうか。

 

人が産まれてくる前から「理不尽なことは悪だ」という価値観を持っている、

その理不尽さはこういうことだ、というはっきりとした基準を持っているとすると、

人は四角四面に決められた通りに行動をとって

生きていかなければならないのではないかと思うのです。

 

人が決められた価値観に沿ってプログラムのように生きる、

そんな世界はとても恐ろしいように感じますし、

環境の変化に耐えられないのではないか、

人が生き残っていくことがとても難しくなるのではないか、と考えるのです。

 

 ネガティブな経験は、実は自分の世界を広げてくれるものでもあるんです。

 

私自身、30年以上苦しんで、何度も嫌だと思いましたし、

本当に死のうとしたことも何回かあったのですが、

なぜか死ぬことができないままここまで生きてきました。

 

「ネガティブな経験」「ネガティブな感情」

「ネガティブな思い込み」「ネガティブなパターン」は、

それ単体では確かに苦しくて辛いことには違いありません。

ですが、ひとつひとつ乗り越えていくことで、

ありのままの、本来の自分とつながり、

完全な自分へと統合されていくのです。


私自身が長年苦しんでいたネガティブなパターンに気がついた時、目の前の世界が大きく変わったように感じました。


苦しい経験、ネガティブな経験は、

あるよりもないほうが

確かにいいのかもしれません。


ですが、ネガティブな経験を通して、

人の痛みがわかるようになり、共感性が高まります。

どんなことがあっても、柔軟に対応できる強さが身につきます。

当たり前に生きていることが素晴らしい奇跡であると心から思えるようになり、生きているだけで幸せに感じる、最幸で最強な存在になれます。

 

ネガティブな経験の分だけ、それはポジティブに変わる可能性を秘めていて、

そのためには、自分が真ん中にいること、

中庸であることがとても大切なんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、こうしてスピリチュアルな観点だけではなく、

独自に人間が生きる仕組みを考察しておりますが、

お悩み相談所はたくさんあれど、

悩みがなくなることはない、と不思議に思ったことはございませんか?

 

人間が地球環境に適応して生きていくために持って生まれた仕組み上、

わたしたちが「悩む」ということは、

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ご覧いただき誠にありがとうございます。

みーこです。

 

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ご覧いただき誠にありがとうございます。

みーこです。

 

最近は不登校の子が増加傾向にあるというニュースを見ますが、

それに伴って、家庭や親に問題がある、学校に問題がある、といった、

悪者を攻撃するような見出しのニュースや記事も目にするようになった気がします。

 

私自身、中学校の2年間の間不登校児でした。

学校に行くことができないばかりか、家から外に出ることができない状態で、毎日のようにどうやったら楽に死ねるかということばかり考えていました。

 

ですが、よくよく思い出してみると、ご飯はしっかり食べていましたし、毎月母が買ってきてくれていた少女漫画(りぼん、なかよし、ちゃお)や、深夜に放送されていたエヴァンゲリオンやバラエティ番組を楽しみにしていましたので、不登校時代に人生に楽しみがなかった、というわけでもないようですし、本当に死にたかったわけでもなかったようです。

 

今考えると、毎月少女漫画3冊買ってもらえていたのは、とても贅沢な環境だったのではないか、とも思えます。

 

不登校の間、学校に行くことが苦しかったことに違いはありませんでしたが、その根本には、生きることに対する苦しみ、生き辛さが常につきまとっていました。

 

人とどう関わったらよいのかわからず、人と関わることが苦しい。

普通の人と同じようにふるまうことができない自分はだめな人間である。

どうしたら自分が存在していることに対する苦しみが消えるのか。

そんなことを自問自答し、生きる苦しみに苛まれ続けていたように思います。

 

私が不登校だったのは、学校に行くことが辛かったのは、生きる苦しみの延長線上に上がっている症状だっただけではないか、と思います。

 

当時は親になぜ私を産んだのかと恨む気持ちを持っていましたが、今となっては産んでくれたことに感謝しています。

 

私の話はこのくらいにして、学校に行けない不登校の子どもに対し、なぜ学校に行けないのか原因を探ることは確かに大切だと思います。

 

しかしながら、昨今は『不登校の原因=悪』と捉える風潮が強いように感じており、不登校を解決するための方法が子ども自身やその家族、学校の関係者を苦しめているのではないかと思うところがあったため、私の私見を述べさせていただきたく執筆しております。

 

特に、不登校の原因が家庭・親にあるとした風潮に対し、問題提起をしたいのです。

 

確かに、幼少期の子どもと親との関係は、子どもの一生に関わるほど大切なものではあります。

 

親が子どもと関わらず寂しい思いをさせた。

子どもに干渉しすぎて自主性が育たなかった。

子どもを否定する言動で自己肯定感が育たなかった、など、

親としては一生懸命子どもを育てているつもりでも、

結果的に子どもの心の成長を妨げるような関わり方をしてしまっていた、というケースはあるかと思います。

 

ですが、親子関係を表す言葉として、「虐待の連鎖」という言葉もあります。

 

親から虐待を受けて育った子どもが親になった時、自分の子どもにも同じように虐待をする、という言葉です。

 

実際、虐待を受けた子どもが親になって虐待を繰り返すケースは、研究データによって差異があるようではありますが、3割~5割だそうで、虐待を受けた子どもが必ずしも虐待を繰り返すと断言できる数字ではないのかもしれません。

 

だとしても、虐待を受けずに育った子どもが親になって虐待をするケースのほうが多いのかというと、もしかしたら自分が親から虐げられたという認識がなく、子どもに期待するあまり虐待をしてしまうケースも含まれるかもしれません。

 

ここから、親子関係に対する2つの考え方が導き出されます。

1つは、親を育てた親にも問題があり、それが継承される可能性があるということ。

もう1つは、親を育てた親に問題があっても、それが継承されないケースがあるということです。

 

つまり、親子関係に問題があっても、親の行動に問題があっても、それが全て子供に対して悪影響を及ぼすかどうかは一概に言えない、ということです。

 

この2つの違いはなぜ生まれるのでしょうか。

 

それは2つの要因があると私は考えます。

1つは、親であれ子であれ、個人一人ひとりの在り方がどうあるかということ。

2つめは、生きている間に適切なケア、癒しを受けられたかどうかということです。

 

そもそも人間は、自分の思い通りにならない地球環境に適応して生きていけるようにできています。

詳しく書くと長くなるので省きますが、生き伸びる中で必ず「苦しみ」や「辛い出来事」があるという前提で生きていけるような仕組みを持っているのです。

 

詳しく研究されたデータを探していないので、私自身の考察にはなってしまいますが、どんな人であっても、いつでも今この瞬間から、ある程度の範囲の中で自分自身をを変えることができる、というのが私の持論です。

 

この自分自身を変える変化には限界はあります。

 

どんなに願っても「人間」が「鳥」に変わって空を飛ぶことはできません。

その代わり、パラグライダー、ハンググライダー、気球、バンジージャンプなど、疑似的に鳥のように空を飛ぶことはできます。

どんなに願っても、大富豪の社長令嬢に生まれ変わることはできませんが、たとえ大富豪になれなくても、大富豪の社長令嬢以上の豊かさ、幸せを生み出すことはできます。

 

生まれ持った個性、生まれ育った環境、過去に経験したことというのは、今これからの在り方によって、変えることができる範囲の中で自由に変えていくことができるのです。

 

そもそも、不登校がなぜ問題なのかということを考えてもいいと思います。

 

不登校であること、学校を卒業できないこと、学歴がないことで、ある一定のハンデを背負うことになることは、事実として認めなければいけないことではあります。

 

私自身、時々普通に友達とわいわい楽しく過ごす学校生活ってどんな感じなんだろうと羨ましく思うときも正直あります。

 

ですが、今この瞬間を楽しく過ごすことはできても、過去に戻ってやりなおすことはどうしてもできません。

 

この「過去にもどってやり直せない」からこそ、親や先人は私たちに「こうあるべき」と伝え導きたい思いが生まれるのです。

 

苦しい人生を歩んでほしくない。

すなわち、将来困ることがなく、幸せに生きてほしい。

 

相手の幸せを願う、相手を愛する思いゆえに、相手の意思を変えようとしたり、相手を否定したりすることがあるのです。

 

少し話はそれましたが、つまるところ過去にどんなことがあったとしても、これからの関わり方でどうにでも変えていくことが出来、それが人間が持つ無限の可能性の根拠となる本質なのです。

 

しかし、周りがどんなに関わり方を変えても、そこに「本人の意思」が伴わなければ目に見える変化として現れることはありません。

 

あまりよくない例えではありますが、同じいじめを受けたとしても、環境が変わって乗り越えることができる人もいれば、環境が変わっても苦しみに苛まれてしまう人もいます。

(そもそも同じいじめというのは存在しないのですが、あくまでも例えとして挙げております。)

 

同じいじめを受けて不登校になったとしても、いじめの苦しみから抜け出せずにいる人と、いじめられたことはもう過去のこととしてとらえつつある人に対しては、それぞれケアする方針が違うのではないか、ということは容易に想像できることです。

 

どんなに適切なケアができる環境が整っていたとしても、「本人の意思」がそこに向かうかどうかとは別のことなのです。

 

ただ、個人と環境は密接にかかわっていることですから、周りの影響で本人の意思が変わることはあります。

 

まとめますと、本人に変わりたいという意思が生まれた時に、適切なケアができるかどうかも重要ですし、本人が変わりたいと思えることを待つことも重要ですが、周りの関わりによって本人の意思が変わることもありますので、何が正しい、何が良いということは結果でしかわからないといえますね。

 

さて、ここからは不登校の原因が親であるという風潮を深く掘り下げてみましょう。

 

子どもが不登校になったのは親に原因がある、というのであれば、その親を育てた親にも、さらにはその親にも、ずっと先の親まで原因があると言えるでしょう。

そうなると、不登校の子どもを持つ親自身も、その親に問題があり、親子関係に問題があった被害者と言えるのではないでしょうか。

学校、先生、環境に原因があるいうのでも同じことです。

これまで積み重ねてきた社会としての在り方に問題があると言っていることと同じ意味を持ちます。

 

では、子どもが不登校になったのは親に原因がある、その親は関係ないとした場合はどうでしょうか。

その場合は、親に問題があったかどうかを検証しないことになります。

親を育てた親は関係ない、子どもを産んだ時点で親は正しい子育てができなければならない、というのであれば、生まれ育った環境がどうであっても正しい子育てができるようになれるという考えがなければ成立しません。

つまり、子どもが不登校になったのは親に原因があり、育てられた親は関係ないと考える場合は、どんな環境で育ったとしても、いずれ正しい子育てができるような親にならなければいけないということであり、親にある原因が子どもの不登校に悪影響を及ぼすということにはならないわけです。

言い換えるならば、不登校の子どもであっても、生きて育って親になる頃には正しい子育てができる親になっていなければいけないということになり、今子どもが不登校であることに対し、親に原因があったとしてもそれは関係ないということになるわけです。

 

子どもに問題があるのは親が原因だという場合は、親も子どもだったわけですから、親の親がどうだったかも必ず関わってくることになります。親の親に問題があると考えたとしても、親の親には問題ないと考えたとしても、どちらであっても子どもの親が悪いと決めつける要因にはならないのです。

 

なぜ学校に行くことが苦しいのか、なぜ生きることが苦しいのか、子ども自身の想いに向き合う中で「親が嫌だ」「学校が嫌だ」「先生が嫌だ」「友達が嫌だ」「兄弟が嫌だ」「家族全体が嫌だ」というような、何かに対する不満が出てくることは間違いないでしょう。

 

しかし、私たち大人が子どもと同じ目線で「それは悪い」と誰かを責めていいのでしょうか。

子どもを守るために、誰かを悪者にして傷つけてよいのでしょうか。

親だって、先生だって、誰だって人間は完璧ではありません。

生まれてから死んでいくその瞬間まで、一人ひとり歩む人生は違います。

死ぬ瞬間の想いは違います。

良い悪いというのは、私たち人間が集団で社会性を保って生きていく中で、ある程度多くの人が生きやすくなるために比較して定義される概念でしかありません。

 

原因を探ることと、問題を解決に導くことは違います。

 

何かを変えるにしても、「親に問題があるようですから親が変わりましょう」というよりも、「親が変わることで子どもさんに何かいい変化があるかもしれませんからやってみましょう」と言い換えたほうが、お互いポジティブに変わっていくことができないでしょうか。

 

もし、「暴力」や「自傷」など、命にかかわるような危険な事象が発生している場合は、悠長なことを言っていられないかもしれません。

 

どんな関わりやケアをしようとも、社会で適応して生きていくことが難しい人、一緒にいることで命の不安に脅かされるような人が存在することは確かです。

 

私自身、自分より体格も力も大きい人に、目の前で暴力を振るわれそうになっている状況で、「あなたも傷ついているのね」と言える自信はありません。

 

ですが、世の中に発信する情報として、「〇〇が悪い」と一概にくくることをやめることはできると思うのです。

 

安全な場所にいる人や、関係ない第三者として、何かを批判することは簡単ですが、そうすることで傷つく人たちがいるかもしれません。

 

人間が生きる本質は、過去に学び、未来を夢見て、今を生きる、これに尽きると思います。

 

過去や原因は批判して糾弾するのではなく、未来のために学ぶこととしてとらえるだけでよいのではないでしょうか。

 

ただ情報に流されて思考を停止するのではなく、私たち一人ひとりが、今生きていることにしっかりと向きあい、これからの人生を楽しんでいく、そんな未来になればいいなと心から思っています。

 

 

ここまで読んで頂き誠にありがとうございます。

 

ご覧頂き誠にありがとうございます、みーこです。

 

突然ですが、皆さんは勘違いすることありますか?

 

待ち合わせの場所や時間を間違えていた。

過去の出来事と違うように思い込んでいた。

名前と顔を間違えて覚えていた。

などなど、誰もが一度は経験したことがあることかと思います。

 

勘違いとはどういう意味か調べてみたところ

「間違って思い込むこと、思い違い」とあり、

勘違い=間違いであり、よくないことだと思われているのではないでしょうか。

 

かくいう私自身、日付に関する認知がどうも弱いようで、

日程やスケジュールをよく勘違いしてしまうことがあり、

「自分はだめだなぁ」なんて思っていたものです。

 

ですが、実はこの「勘違い」こそが、

現実をスムーズに生きるためのヒントかもしれない、

そんなことに気付かされる出来事がありました。

 

先日ブログにアップしましたが、

佐賀バルーンフェスタに行った時のことです。

 

↓過去のブログはコチラ↓

佐賀バルーンフェスタの思い出 | みーこ@「私」を楽しむヒーラー☆あなたの想いを未来へつなぐお手伝い☆ (ameblo.jp)

 

 

今まで、バルーンフェスタには過去2回ほど行きましたが、夕方~夜の間にしか行ったことがありませんでした。

今年はえがちゃんねるのバルーンが飛ぶということで、朝7時から始まる競技飛行を見に行こうと計画をたてていました。

 

私が住んでいるところからバルーンフェスタ会場までは、車で1時間~1時間半くらいかかるところです。

 

朝のバルーンフェスタの状況を知らない私は、朝から見に行く人は少ないだろうから、ゆっくり見れるのではないかと甘い観測を持っていましたが、情報収集すると朝こそ人が多いとのこと。

これは早めに行かなければいけない。

さて何時ころに出発しようかと考えていると、主人が「6時から始まるなら、4時には家を出たほうがいいね」と言ったのです。

 

「??」

 

バルーンフェスタの競技飛行は7時からだったのですが、私はちょっと不思議に思いながらも、あえて否定せずに「じゃあ4時に出られるように準備する」と言い、当日朝4時に家を出発しました。

道が混んでいなければ、早くて朝5時には会場につくような時間です。

 

当日まで主人は朝6時から始まると思っていて、

「6時に始まるけど4時で間に合うか、もっと早くでたほうがいいのでは」

と心配していました。

普段なら「朝7時からだよ、何をいっているのか」と主人に指摘するのですが、なぜかこの時は主人を否定しようという気持ちになりませんでした。

 

バルーンフェスタ当日朝4時に出発した私たち。

当然朝早すぎて車は走っておらず、車は快調に会場に向かっていました。

ふと主人が、「あれ、多いと聞いていたけど車少ないね」と言い出したので、

その時になってやっと私も「朝7時からだからね」と言ったのです。

主人は驚いていましたが、しかしもう出発した後です。

時間を勘違いしていたことに気づいたところで、今更戻って出発しなおすこともできません。

勘違いに気付いたからといって、特にお互いがお互いを否定することもなく、

「早くついたら会場周辺を散策すればいいさ」と、あえて勘違いを楽しむことにしました。

 

ですがバルーンフェスタの会場に近づいてくると、少しずつ歩道を歩く人や、車が増えてきたのです。

 

朝4時に家を出発し、5時頃に会場の駐車場付近に近づいたのですが、そこでとうとうバルーンフェスタの渋滞につかまりました。

急に車が増えたこと、想像以上に車が多いことにも驚きましたが、それよりも、7時から競技飛行が始まることに対して、会場の駐車場は午前3時から駐車できるようになっていたのです。

午前3時に駐車場が解放されるということは、7時から始まる競技飛行に対して、朝3時台から駐車場確保、場所取りをする人がいるということですね。

 

駐車場の渋滞につかまってから実際に駐車できるまで1時間ほどかかりました。

駐車場に車を停めることがでできたのが6時。

車を降りた時点でお手洗いに行列が出来ている状況でした。

会場まで歩いて20分、一部空いているお店もあり、ゆっくり朝ごはんを食べ終えてさぁ今から競技飛行を見に行くか!というときには6時50分と丁度良い時間になっており、競技飛行を楽しむことができました。

 

事前にしっかりとバルーンフェスタの情報収集をしていれば、安心して4時に出発し、当日スムーズに競技飛行を見れたことは間違いないでしょう。

 

ただ私たち自身「えがちゃんのバルーンが見たい!!」というほど強い思いはなく、「行ったときに見れたらいいね」くらいの気持ちでしたので、正直間に合わなくて見れなかったら仕方ないと思っておりました。

それがなんと、主人の「6時から始まる」という勘違いのおかげで、何も計画しなくても思い通りに競技飛行を見ることができたのです。

 

通常であれば、当日朝4時に出発する前に「6時ではなく7時だ」という訂正が入り、行動が修正されます。

行動をどう修正するかで結果は変わってくるのですが、事前に渋滞の様子がわかれば、7時開始でも4時に出発しようとなっていたかもしれませんし、もしかしたら、7時から始まるからと朝5時に家を出たとしても間に合っていたかもしれません。

 

主人の勘違いも、結果よかったねという結果論だと言われればその通りでしょう。

 

過去のブログで、「悪いことが起こること」と「悪いことが起こったから悪いと思う事」は別のことだという記事を書いたのですが、「勘違いをする」ということそのものが悪いのではなく、「勘違いによって誰かに迷惑をかけること」や「勘違いで誰かに嫌な思いをさせる」ということが良くないことではないかと改めて気づかされました。

 

↓↓よければこちらの記事もリンクを貼っておきます↓↓

悪いことが起こることが悪いことではないというお話 | みーこ@「私」を楽しむヒーラー☆あなたの想いを未来へつなぐお手伝い☆ (ameblo.jp)

 

名前を間違える、相手と約束している時間を勘違いする、ということはあまりよくないことだとは思うのですが、誰にも迷惑をかけない勘違いというのは、もしかしたら潜在意識が無意識に知らせてくれるサインかもしれません。

 

私たち夫婦、もとい特に私は、事前に細かく計画を立ててその通りに行動するということがどうも苦手で、大枠だけ決めてある程度はその時の状況に合わせて行動すればいいやと思うタイプなので、もしかしたら私の性質を良く知る主人の無意識が、「6時開始のつもりで動けば丁度良くなる」と判断して、勘違いを起こしてくれたのかも?!と思うとロマンがないでしょうか。

(都合よく考えすぎかもしれませんが)

 

私たちが生きている世界は、自分ではどうにもならないような突発的なことがいつ起こってもおかしくない世界です。

自分の思い通りにならないことが起こっても対応できるように、顕在意識と無意識がバランスをとっています。

顕在意識には、自分の思い通りの現実を作り上げる力があり、

無意識には、思い通りにならない現実に柔軟に対応できる力と、顕在意識をサポートする力があります。

 

〇〇だから〇〇しなければ、と現実でガチガチになっている場合は、時には思考の力を抜いて直感に従ってみると、思いもよらない発見があるかもしれませんよというところで、今回のブログは締めさせていただきたいと思います。