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みーこです。

 

昨日の10月21日は母の命日だったのでお墓参りに行ってきました。

 

皆さんはお墓参りはどんな時に行かれているでしょうか。

 

私の母は、先祖供養を大事にしている人で、

毎日仏壇にお参りし、お寺に先祖供養に行き、こまめにお墓参りに行っており、

小さいときから私と妹はお墓やお寺に連れていかれていました。

 

ですが、母は「お寺に行かんば」「お墓に行かんば」とはいうのですが、

そうしなければいけないから行かなくてはいけないとしか言われなかったため、

小さい頃の私はお墓やお寺にお墓に行く意味を理解できず、

「またお墓に行くのか、行きたくないな」と思っていました。

※「~んば」は、九州の方言で「~しなければいけない」という意味です。

 

仏壇に手を合わせる、お墓やお寺に行くという母の行動が理解できなかった私には、

仏壇に手を合わせる、お墓に行くという習慣が身につきませんでした。

 

もともと生きることが辛くて、毎日のように死にたいと人生に絶望していて、

死んだ後自分がお墓に入って誰かにお参りされるような、

死んだ後も自分の存在が現世に残るという想像をするだけで嫌な気持ちになり、

私はお墓に入りたくない、誰かにお参りされるということは

死んでも嫌だと思っていましたので、

仏壇に手を合わせる、お墓参りに行くことが習慣として身につかず、

母が亡くなって家に母の仏壇を置いた後も、

仏壇に手を合わせることもせず、

お墓参りもお盆とお正月にしぶしぶ行くような体たらくでした。

 

30半ばに、人生観が変わる出来事があり、

お墓参りに行く意味や、仏壇に手を合わせる意味を理解できてから、

仏壇に手を合わせ、毎週お墓参りに行くようになりましたので、

子どもに何か教える時は、なぜその行動をする必要があるのか、

その行動がどういう意味を持つのかを教えることも

大事なのかもしれないと思いました。

 

思い返すと、母は「お墓に行かんば」「お経を唱えんば「あんたたち(私たち子ども)もせんば」というばかりでしたし、私たちも嫌々ついていってやりすごしていて、なぜしなければいけないのかという疑問を持つこともありませんでした。

 

ここ最近は、ブログを書くなど休みの日にすることが多かったのと、

仕事の負担が増えて体調を崩していて、

2~3ヶ月ほどお墓参りに行けていませんでした。

 

母の命日はさすがにお墓参りに行こうと思い、

車で20分ほどの距離の母のお墓と、

車で1時間ほどの祖母のお墓に生き、

帰りに何か美味しいものでも食べて帰ってこようと予定を立てていました。

 

主人は仕事だったので、私一人で行ってきました。

 

お花を買って、さあ母のお墓についた!というときに、

いつもは車がスムーズに止められるのに、

今日に限って車が多く、停めるスペースがありません。

何とか隙間に車を停めてお墓参りに行こうとしたところ、

家に線香を忘れてくるという大失態。

 

手を合わせるだけでもいいのではないか、

いやしかしさすがに線香は要るだろう、

少し迷いましたが、やはり一度家に帰ることを決意しました。

 

げんなりしながら家に帰っていると、

大通りで目の前に猫が飛び出してきてもう心臓止まるかと思うほどびっくり!

 

後続車もいたので非常に悩みましたが、

減速して猫をやりすごし、事故も起こりませんでしたが、

たったお墓参りに行くだけなのに

何でこんなに悪いことが重なるんだろう、

お墓に行ってはいけないのだろうかと思い、

疲れてテンションだだ下がりでした。

 

その時点でお墓参りに行かないという選択も出来たのですが、

ここ2~3ヶ月お墓参りに行けていなかった後ろめたさからか、

何となく命日にはお墓に行くんだという思いがありました。

さぁ気を取り直し再度お墓に行ったのですが、

お墓についたらついたで驚くことがありました。

 

通路一面に大きなクモの巣が連なっていたのです!!!!

 

あまりにも衝撃的でしたので、

イラストに起こしてみました!!!!

 

 

画像の左下が道の入り口で、右上の奥はつきあたりとなっています。

人一人が余裕で通れるくらいの道があって、

両脇にお墓が並んでいるのですが、

道幅サイズの大きなクモの巣が何個もありまして。

 

直接触るなんてとんでもなかったので、

落ちている枝や、伸びた草を使ってクモの巣をわたあめのようにからめとり、

ようやく母のお墓の前まで来たら、こんなことになっていました。

 

 

お分かりいただけただろうか・・・。

 

道をふさぐクモの巣をやっとの思いでからめとってたどりついた

母のお墓のスペースにまたも大量のクモの巣が!!!!

 

胴体の大きさが親指の第一関節ほど、

足まで入れると5センチから7センチくらいの大きさのクモが

どーん、どーん、どーんと大きな巣を張り巡らせていたのです!!!

 

一人クモの巣を掃除しながら思ったのは、

これまでのプチ不幸があったおかげで、

クモの巣だらけのお墓を見ても、

恐怖やショックが少なくて済んだなということでした。

 

ドライブがてらお墓参りして、

美味しいものでも食べて帰ろうとウキウキした気持ちで

このクモの巣だらけの光景を見ていたら、

今日一日が台無しだと思えるほどの

大きなショックを受けていたのではないかと思うのです。

 

車を停めるところがない、

線香を忘れて家に帰る、

車道に猫が飛び出してくる、

自分の思い通りにならない小さな出来事が重なり、

知らず知らずのうちに、悪い出来事に耐性がついていたようで、

クモの巣だらけの光景を見て驚くと同時に、

「こういうことだったのか」と、今までの出来事がストンと腑に落ちたんですね。

 

目の前で起こる出来事に対して良いか悪いか判断する必要はありますが、目の前で起こった悪い出来事が自分にとって悪いことかどうかということは、全く別のことなんですよね。

 

私自身、生きていて自分の思い通りにならない、うまくいかないことが多くあって、自分はなんてダメな人間なんだろう、自分の人生はとんでもなく悪いものだ、と思っていた時期がありました。

 

苦しんでいる当時は、「苦しんだ出来事が糧になる」「辛い経験が自分を成長させてくれる」という言葉が大嫌いで、苦しみはないほうがいいと考えていましたが、今の自分自身を肯定できるようになってから、苦しみがもたらしてくれるものもあると受け入れることが出来るようになりました。

 

もちろん、嫌なこと、苦しいことは「無い」に越したことはありません。

自分が望んでいない限り、嫌々辛い環境に身を置いたり、無理に苦しむ方へ進んだりする必要はありません。

 

その大きな根拠は3つあります。

 

まず一つ目は、人は赤ちゃんとして生まれた時から「自分の思い通りにならない世界に適応して生きていくことができる」機能を持って生まれてきているということです。

つまり、もともと自分にとって嫌なこと、苦しいことがあるという前提条件に適応して生まれてきているので、望まなくても必ず嫌なこと、苦しいことに向き合うことが出てくるというわけです。

 

そして二つ目は、一つ目と関わってくることなのですが、赤ちゃんとして生まれた時から、人は「区別する」「比較する」という能力を持っているため、どんなに恵まれた環境であっても「自分にとって良いこと、ポジティブなこと」と、「自分にとって悪いこと、ネガティブなこと」を見出してしまうということです。

例えば、毎日生活の心配もない、欲しいものも手に入るしどこにでも自由で生きていけるような環境で生まれたとしても、親から認めてもらえないことが不満になったり、親がすごすぎて○○さんの子どもとしか見てもらえないことに苦しみを感じたりします。

親から愛されていても、それを「愛されている」と受け止めることができなければ、愛されていない苦しみを持ってしまいます。

詳しく解説すると長くなりますので割愛しますが、現実世界の出来事に対する受け止め方を変えるためには精神的な成長が不可欠ですが、精神的な成長を遂げるためには、辛いこと、苦しいこと、ネガティブな感情を経験することが欠かせません。

 

そしてもう三つ目は、嫌なこと、苦しいこと、ネガティブな感情を避けたいという思いは、自分にとって良いこと、ポジティブな感情を求めることにつながり、それが成長につながるからです。

 

そもそも「良い」「悪い」というのも、「比較」「区別」から生まれる価値観ですので、苦しみを求める先に成長があるということもありますので、苦しいこと、辛いことに進んで向かうことが「良い」「悪い」で考えること自体ナンセンスでもあるのですが、ここもまた長くなりますのでこの辺で・・・。

 

苦しみ、辛さ、嫌なこと、悪いことを認識する力は、

自分の身を守るために必要な能力ですので、

嫌なこと、悪いことだと感じることを、

自分の思いに反して無理にポジティブにしてしまうと、

自分の心が分裂してしまいます。

 

ですが、私たちは無意識に様々な経験や欲求、感情や要素を紐づけて

多くの複雑な価値観を形成し、自己の在り方を決定していますので、

嫌なことや悪いことが続くと、自分自身の全てが悪いという

錯覚をしてしまうことがあります。

 

悪いことがあったからって自分が悪いわけじゃないって、

そんなの当たり前のことだよね、と思うかもしれませんし、

意識してもしなくても、生きていることに支障が出るという事はありません。

 

生き方に「良い」「悪い」、「正解」「不正解」なんてないのですから。

 

ただ、ちょっと心に余裕があるときに、

自分が嫌だと思う事、悪いことだと思うことに対して、

ちょっとだけ線引きをして捉えてみると、

少しだけ嫌なこと、悪いことは嫌だなという感情を感じたまま、

結果的に自分にとって良かったと思えるようになっていきます。

 

目の前の良いこと、悪いことに左右されず、

結果良いんじゃない?という捉え方ができるようになれば、

人生が今よりちょっとだけ、良いことが増えていくかもしれません。

 

そんなこと言っている私ですが、

墓参りに行くのに線香を忘れ家に取りに戻り、

途中で猫が飛び出して心臓が止まるような思いをし、

再度お墓にいったら今まで見たことがないクモの巣の数に歓迎され、

クモの巣が少し手に触れれば「ギャー!!!!」と悲鳴を上げ、

生理的に受け付けない模様のクモを一生懸命お墓の外に出し、

へとへとに疲れてランチどころではなくなり、

家でうどんをすすりながら、せめて月に一回はお墓参りに行こうと誓った、

そんな母の命日だったということを書きたかったのです。