皆殺しの天使 1962 メキシコ🇲🇽

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あらすじ

「オペラ公演が終って、夜食をとるために20人余の上流紳士淑女が、豪荘なノビレ邸に集まって来た。主人エドゥムンド・ノビレ(エンリケ・ランバル)とその妻ルシア(L・ガジャルド)、彼女の愛人らしき大佐、ピアニストのブランカ(パトリシア・デ・モレロス)建築枝師、歌手、医者のコンデ(アウグスト・ベネディコ)、そしてワルキューレと呼ばれる処女レチチア(シルヴィア・ピナル)など。しかし、彼らが邸に到着する以前から、ノビレ邸ではちよっとして異変がおこっていた。十数名もの召使いたちが、夜食会を前に次々に邸を去っていったのだ。食事を終え、人々がサロンに移り、ブランカが弾くパラディージのソナタを聴きながら、噂話に花を咲かせ、帰る時刻が近づいた。しかし、誰も帰ろうとせず、朝の4時を迎えるが、遂に帰るきっかけを失い、皆は眠りこんでしまった。翌朝、執事長フリオ(クラウディオ・ブルック)を含めた21人が、サロンの外に出れなくなるという事態が生じる。水と食物が尽き、死者まで発生し、悪夢に襲われる人々の異常な光景。彼らはまぎれこんできた羊を、他人をおしのけて喰いつく。」Kinenote

 

○Wikipedia

 

不条理とは?

「不条理主義者の哲学の中では、不条理は人による世界の意味の追究と世界の明らかな意味のなさの基本的な不調和によって生じるとされる。意味を持たない世界で意味を探す。人はこのジレンマを解決する3つの方法を持っている。キルケゴールとカミュはその解決法を著書の中で書いている。『に至る病』と『シーシュポスの神話』である。

 

  • 自殺:まずシンプルな1つの方法として人生を終わらすということ。キルケゴールとカミュはこの方法が非現実的であるとして退けている。

  • 盲信:不条理を超えた何か、触れられず実験的に存在が証明されていないものを信じること。しかしそれをするには理性を失くす必要がある(すなわち盲信)、とキルケゴールは言っている。カミュはこれを哲学的自殺として考えている。

  • 不条理を受け入れる:不条理を受け入れて生きる。カミュはこの方法を推奨しているが、キルケゴールはこれを「悪魔に取り付かれた狂気」として、自殺を引き起こす可能性を論じて批判している[1]。」Wikipedia

 

「不条理主義によれば、人は生きる意味を求める。この意味の追究には2つの道がある。1つは人生に意味がないという現実的な結論からの考え、もう1つは神のような超越者を仮定した考えである。しかし神のようなものを仮定するとまた疑問が生じる。「神の意志は何か?」キルケゴールによれば神に目的はなく、神を信じることは不条理だとしている。一方でカミュは神を信じることを、人と世界の対立を否定することで哲学的自殺としてる。だがカミュもキルケゴールも、不条理は神の存在への手掛かりではないとし、カミュは「神がいないとは言っていない、それはまだ議論の余地がある」としている。

自殺は生きる意味を失った時の最も速い解決策である。カミュは『シーシュポスの神話』の中で、「自殺に価値はない。もし本当に人生がばかげていても、抗うことがばかげていても。むしろ生きる意味が与えられていないからより良く生きようと思える」としている」Wikipedia

 

監督  ルイス・ブニュエル

 

特筆スタッフ

 

出演

 

言葉とシーン(感受の畑)

 

今出発

この客が来るのに

ホテル

ルーカス 執事

 

キャビア

処女

マダム

ガン

財布 鳥の足

4

彼等は去らない

電気を消し 横になる 床に

 

翌日

余命 数時間 ラッセル

執事

何故 部屋から出れない?

 

2日目

忘れられた

使用人達も辞めた

2人っきりにもなれぬ状況

 

蓋をあけると

切りたった崖

終焉の瞬間 指揮者

無音という音

 

海に流れ込む

 

外から見るとコミュニケーション出来ない

警察

市長

家に入れない

 

壁を壊して見る

飲む 順番

食料すらない

 

紙を食べる

皮肉屋

奇跡

 

ロザリオを組織

 

寒い

ブランカ 狂う

ルルド 奇跡

 

ドア 

手だけ

潰す

すると

ナイフを自らに

 

カップル

逃げられない

 

📦

インキュパス

 

変質者 防止

 

🐏

二階へ

食べる?yes

 

3日目

子供達なら

 

罪のない人の血が必要

 

心中

ネッガー フリーメイスン

 

子供の声

 

3日目の夜

 

コックとメイド

 

彼に終止符

争う

 

ノービレ

パラディシのソナタ

行かなければ

 

ライト

出て来た

 

寺院 教会⛪

ドーム

ロザリオ?

 

また出れない?

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街の混乱

 

総評

最近、こうゆう哲学的な映画を見る事が多く、ちょっと困る。と言うのは、こうゆう話には底がなく、終わりが無い。人生とは何かを語るのは楽しい。学生時代、ある哲学専攻の友人と学食で時々会い、長時間、人生に関して語りあった。結論が無い議論と言うか、むしろ結論を出したら終わってしまう話である。何か不毛だなと思い、正直にその気持ちを言ったら、彼は怒り出し、二度と口を聞いてくれなかった。それで、こうゆう話も出来なくなり、仕方無く某国への買春ツアーにはまった。買春ツアーほど不条理で、それでいて艶めかしく現実を忘れさせてくれる世界もなかった。この不条理の某国に何年もいて死んだら、人生とはこうゆうものか?楽しいじゃないか?で終わったであろう。でも実際にはそんな人生がある筈も無く、某国7000万の国民の誇りと怒りのカミングアウトとブーイングに会い、慌てて日本に逃げ帰り、しまいには右半身麻痺の障害者となった。僕の人生は、是非ともルイスブニュエルに映画化して欲しかった。彼は喜んで、救いの無い、回答の無い映画を作った事であろう。

この、映画はブニュエルの合理的解釈の拒否と言う点に於いて極北にある映画だと言う。

 

合理的解釈の拒否

合理的解釈の拒否という点での極北はメキシコ時代の傑作と言われている『皆殺しの天使』だろう[12]上流階級の人々が晩餐会を催すのだが、不思議なことに誰も帰ろうとしない。皆で夜を明かすのだが、誰一人としてどうしても部屋から出られないのである。そして時間だけが過ぎていくというのが物語のプロットであるが、「何故彼らは部屋から出られないのか」という疑問に一切回答は与えられないままに映画は進行する。また、「部屋から出られない」ことに何かの暗喩が込められているのではないかという詮索にも、一切の手がかりを与えない。」Wikipedia

 

この様な晩餐会や集まりは、僕の印象から言えば、如何にして帰る口実を見つけて早く帰ろうとするものだろう?気の置けない友人同士のラフなパーティではない。この「気の置けない」と言う言葉に、ちょっと自信が持てなくて、調べてみた。この前、「尻を捲る」と言う表現を調べたら、「開き直る」と言う意味を完全に逆意の「逃げる」と理解していたことがあり、それ以来、どんな些細な言葉でも調べている。

 

気が置けないとは

「解説者「『気が置けない』とは,本来『相手に気配りや 遠慮をしなくてよいこと』という意味です。」 解説者「平成 18 年度と 24 年度の『国語に関する世論調 査』では,2回とも『相手に気配りや遠慮をしなくて はならないこと』と回答した人が半数近くいて,本来 の意味を選んだ人よりも多くなっています。

気が置けない - 文化庁www.bunka.go.jp › pdf › kotoba_5

 

今回は国文学部金属工学出身の僕の使い方は正しくて、でも文化庁に拠れば、この言葉を逆意で理解している人が増えていると言う。でも、ブニュエルのこの映画では、この「気の置けない」の意味すらも不条理に困惑してしまう。人々は帰りたいのに帰らないのだ。親しくも無いのに、何故かいつまでも一緒にいるのだ。憎み合っている人もこの中にはいる。そして、半数の日本🇯🇵国民までも、この「気の置けない」と言う意味に混乱していると言う。確かに気の置けない友人程、怪しい友人はいない。そうゆう意味で、この言葉は変容しているのかもしれない。

 

申し訳無いが、ここで極私的課題に戻らさせてもらう。不敬罪のカミングアウト、カミングアウトと言うが、僕は実際には、どうしてこの不敬罪の部屋から出られないのかを誰にも教えてもらっていない。また、どうやってこの部屋に入ったのかも、教えてもらっていない。「また、「部屋から出られない」ことに何かの暗喩が込められているのではないかという詮索にも、一切の手がかりを与えない。」ただ彼らは、僕に無言のプレッシャーをかけ、徐々に徐々に居場所を無くし、幾度となく自殺を画策失敗させ、あの国にいられない様にし、おは打ち枯らして日本に帰らせ、僕が勝手に、右半身麻痺になったに過ぎないと言うのが、表面上のストーリーである。これこそが、不条理ではないか?

誰も死ねとは言っていないのに、

勝手に何度も自殺を企み、

誰も死ねとは言っていないのに、

本当に飛び降りた時の為に

階下に巨大なトランポリンまで用意し、

誰も追い出したのではないのに、

勝手に逃げ帰り、

誰も病気になれとは言っていないのに、

勝手にやけ食いして倒れたのだ。

正にブニュエルの映画そのものである。

誰も帰るなとは言っていないのに彼等は帰らず、そして帰れなくなり死者まで出る。こんな不条理の状況で人はどうするか?上述のカミュとキルケゴールは、こう説明している。は、僕の回答です。

 

  • 自殺:まずシンプルな1つの方法として人生を終わらすということ。キルケゴールとカミュはこの方法が非現実的であるとして退けている。

 

やって見ましたが、ますます人生を愛している自分に気がついた。死にかけた体験から察するに、死とは終わりでは無く、次の停留所に行くバスを待つようなものかと思いました。

 

  • 盲信:不条理を超えた何か、触れられず実験的に存在が証明されていないものを信じること。しかしそれをするには理性を失くす必要がある(すなわち盲信)、とキルケゴールは言っている。カミュはこれを哲学的自殺として考えている。

 

これこそは、カミングアウト以前の自分でした。仏様を盲信し自分はお願いするだけでした。

 

  • 不条理を受け入れる:不条理を受け入れて生きる。カミュはこの方法を推奨しているが、キルケゴールはこれを「悪魔に取り付かれた狂気」として、自殺を引き起こす可能性を論じて批判している[1]。」Wikipedia

 

ほとんどの人がこうゆう人が多いのでは無いかと思うのですが、所謂「しょうがない」と言う奴です。ただ、しょうがないでは生きていても面白くないので、子供や、恋人と言った御供(タイ語トワテーン)の存在を頼りに生きます。

 

でも、この様な不条理の中にあって、欧米の哲学者が考えないのが、宗教の盲信では無く、宗教を道理として確信すると言う事です。いや、僕は仏教徒として日々確信を深めているのは、仏教は宗教ではないと言う事です。自分の中にあるもう一つの自分だと言う事です。不条理は、日々の生活を確実に行う事で、解決する問題だと言う事です。この映画にしても、部屋から出られなくなったら、仏教徒なら、そこで如何にして生活をしようと考えるのじゃないか?如何にして睡眠を取り、身と心を整えようと考えるのじゃないか?生きる科学、生物としての人間の指針が仏教ではないかと思っています。盲信では無く、確信です。

敢えて残された謎は、僕達人間(あるいは生物)はレム睡眠を通じて、時を超え繋がっているのではないか?と言う事です。

投稿が長くなりました。最近不敬罪の為に、投稿字数にさえ制限がかかるのです。法句教のブッダの言葉を引用して終わります。

 

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我等はここにあって死ぬ筈の物である、

と覚悟をしよう。

この断りを他の人々は知っていない。

しかし、この断りを知る人々があれば、

争いは静まる。

 

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水道を作る人は水を導き、

矢を作る人は矢をため、

大工は木材を貯め、

慎み深い人達は自己を整える

 

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合掌

 

「法句経(ほっくぎょう)、ダンマパ(:Dhammapada)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズムで伝えた、韻文のみからなる経典である。「ダンマパダ」とは、ーリ語で「真理: dhamma)の言葉(: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する[1]。」Wikipedia

 

 

短歌

 

❺不条理に

❽手掛り与えず

❺苦を託つ

❼日々生きること

❼穿つ仏心

 

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