両親が眠るお墓へ向かう。
一瞬、どこが自分ちのお墓かわからなくなる。
当然だ。みんな自分たちのこれからのことで精一杯。
お墓まで手が回らない。



 せめてもの気持ちで お墓を片づける。

  水が使えないので 持ってきたペット
ボトルの水で 少しづつ洗い流す。

 溝に詰まった砂を少しづつ掘り出し
やっと文字が見えるようになった。

さすがに墓石は持ち上げられない。 

手を合わせてお墓を離れた。



 塩釜の叔母 叔母は皆が叔母のことを探してるとも知ら ず、自分も避難してるのにいまだ丌明の弟 (私の叔父)のことを案じてTVに出た。
4月になって会いに行った。
叔母は地震のことを愚痴るでもなく
「この年でいい経験をさせてもらった」
と、静かに言った。


いとこの家。
いとこ夫婦。2歳の子供。叔父の 4人が行方丌明に。
小学校1年生の娘が一人助かった。
赤い旗は全て撤去してください。の印。
亘理町独自の施策。
本来は、家の持ち主が立てるのだが家族が
残っていないため 兄が代わりに立ててきた。
   2階に子供の机が見える。
一階の奥に車が2台 押し込まれ多様に折り重なっている。



町の共同土葬所
火葬が間に合わなかった方々は一旦ここに。 2年後 掘り起こして火葬にするそう
いとこ夫婦と2歳の子供がここに眠っている。 叔父はいまだ行方丌明。
      まだまだ墓は必要なのだろう。
手を合わせている私たちの後ろを作業車が。


小学校の体育館に集められた思い出の品
まだ濡れているものもたくさんあり
端に山積み状態で全部は見れなかった。
この小学校は
地震の時は完全に水没してしまい
ここに避難してきた人たちは
孤立してしまった。
地震から2,3日してヘリで救助されたと いう。
 母に送った娘達の七五三の時の写真と 娘たちと3人で撮った写真。
これだけが見つかった。





実家の庭
津波で全部さらわれてしまったのに
花は生きてる。咲こうとしている。
自然って強い。

次の日、もう花がほころんでいた。
春は ちゃんとやってくる。




  満開の桜。
  東北の桜は遅い。 それでもちゃんと桜は咲く。
           春は来る。
桜の木の向こうに 運ばれたまんまの仮設住宅が見える。
 一日も早く、皆が落ち着いた暮らしができるように。
    皆が笑顔で、安心して暮らせるように。


 満開の桜。
  東北の桜は遅い。 それでもちゃんと桜は咲く。
           春は来る。
桜の木の向こうに 運ばれたまんまの仮設住宅が見える。
 一日も早く、皆が落ち着いた暮らしができるように。
    皆が笑顔で、安心して暮らせるように。



3月11日
地震があった場所が実家のある宮城県だと知
りすぐに妹に電話をかける。
繋がらない・・・。
  繋がらない・・・。
兄に電話する・・・。 やはり繋がらない。 メールならば!と思って妹にメールする。

3月11日 15:01 地震大丈夫?
 16時過ぎ
妹から電話!やっと繋がった!
「すごい揺れでもうだめかと思ったけど
私は大丈夫。子供たちと連絡が取れないの。
お姉ちゃんからもかけてみてー!」

3月11日 17:06 妹より
家はダメ
荒浜は流された
子供たちもわかんない
テレビの画像からは信じられないような光景 が流れてる。
妹から届いたメールに震えが走る。
兄にも、妹の家族にも電話が全然通じず 気持ちばかりが焦り、とにかく電話をかけ続 ける・・・。



3月11日 19:30 妹より
お兄 会社にいたら
ダメかも
         兄の会社は、仙台空港のすぐそばにある。
         もしも、会社にいたら・・・。

22:30
兄とやっと連絡がついた。
仕事で山形に行ってて無事との事。 早速妹にメールで知らせる。
返事はないが 届いてることを祈るしかない。

 3月12日
まったく電話が通じなくなくなった。
なんとか、兄妹たちの無事が確認できただけでも良しとしなければ。
親戚や友人たちの安否も気になるが
もう少し事態が落ち着くまで。と
自分を落ち着かせる。



3月13日
妹から仕事場に電話。
携帯が繋がらず、家の電話からだった。
ご主人の実家に避難してるとのこと。
子供たちも地震の次の日には無事会えて いまは一緒にいるとの事。
兄は避難所にいるらしいが、どの避難所かはまだわからない。

3月14日 19:37 妹より
お兄 亘理小学校避難。 電気水道はダメ 食料はどうにか 家全部流れた(T_T)
とにかく、実家のあたりの情報が何もない。 テレビが伝えるのは被害の大きな所ばかり。 片田舎の小さな港町では被害があっても 「絵」にならないのだろう。
毎日インターネットやツイッターで情報を探 すが、それも地域に偏りがあり 情報社会と言われて久しいのに、ほしい情報 が手に入らいない。本当にもどかしい。。。


月16日
ポツリ、ポツリと携帯が繋がりだし 親戚や友人たちとも連絡が取れだした。
いろいろ様子を聞きたいと思って電話するけど、聞いても何も出来ない自分に
気がつく。
結局、「元気で良かった」としか言えない自分。。。
最悪の環境の中で こちらの状況まで心配する友人たちに
かける言葉が見つからない。
3月15日 友達のかよちゃん
  そっちこそ大丈夫?
  スーパーで水とか買えないって聞いたけど。。。
3月14日 友達のもっち
金持ちも貧乏人もおんなじになったわ。
な~んにもなぐなってしまっちゃったさ
   こっちは大丈夫。
お兄さんとか大丈夫?
ここより荒浜のほうがひどいから心配してます。
3月16日 友達の高野さん



悲しいね。 ばあちゃん家ホントに無いんだね...... 津波バカヤロー!
母ちゃん 家は無くても故郷はあるよ。寂しくないよ。
 そうだね、何もなくなっちゃったんだね。
ほんとに悲しいね
背比べをした柱、懐かしいね。 おばぁちゃんが、孫が集まる度に私たちの伸びた身長を柱に刻んで名前を書いてくれたよね。 海で泳いだ後は外の水道で泥流しして、水玉模様のタイルのお風呂で体洗って...。 ご飯時にはみんなで大きなテーブルを囲んで、これでもかってくらいのたくさんのご飯。 もとこばちゃんのアイス屋さんもなくなっちゃったのかな でも一生忘れない場所。悲しいけど、たくさん思い出があるから大丈夫だよ。
 海から帰ると、玄関脇のここで砂を落と して身体を洗った。 子供達にとってはまさに「海の家」 だった。



息子の子供のころ。実家で撮った写真
玄関口で兄の息子と私の息子。
毎年夏休みには皆が集まって にぎやかだった。
今年の夏は孫を連れていくつもりだった。



ここに載せた写真は、宮城県亘理町の荒浜というところですが
これと同じことが、いえこれ以上の大変なことが
東北の人たちやその家族におこっています。
今回、私の実家が被害にあったということで、 本当にたくさんの方に励ましのお言葉やお見舞いをいただきました。
皆さんが、他人事でなく自分自身のことのようにとらえ、悲しみ そして、私と同じように「被災者の方々に対して何もできない自分」にもどかしい思いを 持っていらっしゃるのを聞いて 本当に本当に愜謝の気持ちでいっぱいです。
いまだ避難所には12万を超える人がいます。 まだまだ 復興には長い時間が必要です。
震災で、農業や漁業は大打撃をうけました。
それに加え全国の工業や産業にも大きな被害が出ました。
小さな部品が手に入らなくなっただけで 自動車メーカーは休業を余儀なくされ、建築メーカーは資材が入ってこなくなり 衣料品メーカーは縫製が出来なくなり・・・。
数え上げたらきりがないほど 様々な所で東北の小さな工場が
私たちの生活を支えていたのだと、今更ながら思います。
住む場所が提供されても、仕事がなければ食べていけません。 私達一人一人が今まで通り、消費し生活していくことで日本全体が元気になっていきます。
毎日元気に過ごして下さい。
毎日笑顔で過ごして下さい。
そして、 いつか 東北の地を訪れてみてください。
以前とは違う景色かもしれません。 それでもきっと自然は美しいはずです。
H23年5月愛知にて