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気になるニュースチェックします。

毎日気になる最新のニュースをチェツクします。

昨日の新聞に何枚かの広告のちらしとともに、日本ユニセフの寄付の

振込用紙が入っていました。

ユニセフは世界の子供たちのための、国連機関です。

 

しかし日本ユニセフとユニセフは、まったく違う機関です。

日本ユニセフは、アグネスチャンが広告塔、ユニセフは黒柳徹子さんが

広告塔になっています。

 

日本ユニセフは国内でユニセフの活動を支援するための

民間の公益財団法人です。

この財団法人というのが、いかにも天下りを連想させますね。

一応集めた金を寄付していますが、全部ではないといような

ことも言われています。

 

なので寄付はやめました。

広告塔のアグネスチャンの私生活も、世界の子供のためというより

まるで御殿のお姫様のような豪華なもの。

これほど豪華な私生活をしているなら、自分が率先して寄付すれば???

 

寄付の一部はアグネスと天下り財団法人へ流れているんじゃない???

なんとも怪しい団体です、寄付するなら黒柳徹子さんのユニセフへ。

 

 

★晴れて玉は明治天皇となった

 

父、孝明天皇と同じ道を歩もうとした睦仁親王は、やはり薩長にとっては

邪魔者でしかない。

次期天皇となる睦仁は、父と同じく暗殺される運命にありました。

 

★身代わり天皇、玉の教育係

慶應3年4月13日

 玉(大室寅之祐)は、伊藤俊輔の力士隊に守られて上京し、二本松の

 薩摩屋敷に入った。

 

 この年の7月10日ごろ、長州忍者グループは宮中に放った猿を使い

 即位したばかりの睦仁の手を引っかかせ、その傷に岩倉派の侍医が

 毒入りの膏薬を貼って暗殺した。

 

 そして厚化粧をして変身した玉を内裏に入れて、身代わり天皇とした。

 この身代わり天皇の教育係となったのが、肥前佐賀藩主、鍋島閑叟(斉正)です。

 彼は当時、西洋事情に通じた日本一の殿様でした。

 

 上忍 木戸孝允に頼まれて、重い腰を上げ藩士を率いて洋式軍艦で上京し

 直ちに宮中に入り、玉の帝王教育に取り掛かった。(防長回天史)

 その閑叟は上洛途中の船上で詩を作っています。

 

 【言うをやめよ 時事挽いて巡らすこと難し

  天下豈王佐(帝王補佐)の才 なからんや

  京城の児子 まさに驚愕すべし

  知るや否や 青竜海を翻して来たるを】

 

 閑叟の驚きが手に取るようにわかります。

 青竜海を翻して来てみれば、京城にいたのはまさに驚愕すべき児子だった。

 

★官軍大本営となった大室家

 

 こうして身代わり天皇となった玉は、10月13日討幕の密勅に「睦仁」と署名

 翌14日、徳川慶喜の大政奉還の願いを、何食わぬ顔で御簾の中から受理した。

 政局は一気に流動化し、新しい国の進路を求める動きが活発になり

 玉を握った薩長と、大阪の慶喜、幕府軍との対決は

 一触即発の様相を呈した。

 

 10月17日、女装した玉は芸者風に変装した女官たちを連れて秘密裏に

 御所を脱出し、西郷隆盛とその忍者部隊および長州力士隊に守られて

 英国艦に乗り周防麻郷の大室家に引き上げた。

 

 帰省した玉を迎えて、大室家は正式に大室天皇家となり

 ここ麻里府の地が官軍大本営となったのです。

 大村益次郎、鳥尾小弥太、品川弥二郎、白井小助、世良修蔵らの

 第二奇兵隊幹部を交えて、薩長同盟の面々は度々大室家に集まって

 討幕の作戦を練った。

 

 11月下旬、玉、五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同はそろって

 麻郷井神の高松八幡宮に詣で、討幕の錦旗を掲げる官軍の

 出陣式を行った (大室近祐   伝承)

 

 12月9日、玉は御前会議を招集し、改めて王政復古の大号令を発し

 明けた慶應4年正月、鳥羽伏見の戦いで勝利すると

 新朝廷は王政復古を各国公使に布告したのです。

 

 ★晴れて玉は明治天皇に

 

 慶應4年3月14日、玉は南殿に出御、公卿、諸候を召し連れ

 五カ条の御誓文を発し、四民には立て札で公開した。

 その後、戊辰戦争にも勝利した官軍は同年7月17日

 詔勅により江戸を東京と改称

 8月27日には、京都御所で玉の即位式を上げた。

 

 明治元年9月8日「明治」と改称し、玉は晴れて明治天皇となった。
 こうして明治新王朝が創立され、朝議によって一丗一元の制を定め

 そのまま今日に及んでいます。

 

 この年の9月20日、木戸孝允が遊撃隊の精鋭を率いて、明治天皇の素性が

 一般民衆にばれないうちにと、京都を発して東京に随行している。

 10月13日に東京に到着し、玉は西郷隆盛らと相談し江戸城を皇居と定めた。

 

 明治2年函館の榎本武楊らが降伏し、戊辰の役が終わった

 この年、蝦夷地を北海道と改称

 明治という時代は、大室寅之祐と伊藤俊輔のコンビによって始まり

 明治天皇と伊藤博文のコンビによって推進され、その二人の

 死によって幕を閉じたといってもおかしくはない。

 

 ★身代わり天皇 玉と睦仁親王を比べてみたら

 

 あばた  まずあばたです。

      睦仁は種痘を受けていて、天然痘にはかかっていなかったので

      あばたはありません。

 

      ところが玉は、二歳のとき天然痘にかかり口の周りにあばたが残った。

      明治天皇とされる玉の立派な口ひげは、そのあばたを隠すためのものであり

      写真に撮られるのを嫌ったそうです。

      御真影が肖像画であるのはそのためです。

 

 体質   禁門の変のとき、13歳であった睦仁は砲声と女官たちの悲鳴を聞いて

      失神したというひ弱な体質であった。

 

      ところが玉は、約90㎏の巨漢です。

      側近と相撲をとっては、投げ飛ばしていたという。

      

 乗馬   即位時の睦仁には、乗馬の記録はありません。

      馬に乗れなかったようだという。

 

      ところが玉は、馬上から閲兵し大号令をかけています。

      

 利き腕  睦仁は右利きです。

      玉は左利きです。

 

 薩長の討幕の邪魔になり暗殺された孝明天皇と、明治天皇を比較

 してみましょう。

 

 ●孝明天皇   佐幕派、公武合体、攘夷、会津藩を信任

 ●明治天皇   討幕派、反公武合体、開国、会津藩は朝敵

 

 ここでいう明治天皇とは、薩長の操り人形、身代わり天皇となった

 大室寅之祐のことです。

 まるで二人は真逆です。

 

 生前、睦仁は父孝明天皇と同じ佐幕派でした。

 それが明治天皇となったとたん、なにもかも真逆になるなんてことはない。

 明治天皇となったとたん、薩長の操り人形になるなんてことも考えられない。

 やはり本物の睦仁は、薩長に暗殺され大室寅之祐が身代わり天皇となった。

 

 だから明治政府にとって、自分たちの都合の良い時期に都合の良い天皇が

 現れて幕末からこの明治の世を動かしていったのです。

 

 松重揚江著二人で一人の明治天皇

こんにちわ

緑がまぶしい季節になりました。

この時期、緑の中を歩くのがとても好きです。

 

ところで、あまりにも悲惨な話を少し聞いてください。

経団連の要求で、2025年に消費税が19%に引き上げられる、、、

らしいということです。

 

消費税を19%に上げようという話が、国会で持ち上がっています。

30年という長い不況と物価高が、あるにも関わらずです。

2025年は今年じゃないですか。

 

この国の政治家たちは、いったい何を考えているんでしょう。

経団連は消費税を19%上げ、さらに法人税の減税を要求しています。

経団連は、集団的自衛権の行使容認もしてきたし、2005年からは

憲法改正も要求してきました。

 

そしてそれに乗っかる自民党政権、、、、

 

この国は今、6人に1人が貧困です。

月々10万円以下で暮らしています。

そこへ消費税19%に上げろ、、、、、とは

 

30年という長い不況を招いたのは、自民党政権です。

財務省と一緒になって、、、、

私たちの生活に直結する政治、自民党政権を叩き潰してしまわない限り

この困窮にあえぐ国民生活は、その後も続きます。

 

それが消費税19%という恐ろしい増税に現れてきます。

それだけではありません、増税はもちろんその他の政策に関しても

自分たちに直結することは熱心にやるが、国民に直結することは無視

今までがそうだったじゃないですか。

 

日本の主食、コメはどうなったのでしょう。

備蓄米放出と騒いでいたが、いまだに国民はその恩恵にあずかっていない。

店に並べられた米は少なく、値段はいくたびに上がっている。

政府は何をやってるの??  これが国民無視の証拠

 

備蓄米は100万トンもあるというのに、放出したのはわずか20万トンです。

この非常事態にこんなことをやっていたのでは、話にならない。

国民の困窮など頭にないんでしょう。

政治家は一か月10万以下で暮らす人々の暮らしなど、どうでもいいんでょう。

 

確かにコメの落札とかいろいろあるんだとは思いますが

この非常時、政府は元の金額で売るくらいのかん口令でも敷けばいい。

そうしなければ、悪徳業者がはびこって、いつまでたっても国民には届かない。

何をやってもいつまでたっても、非常時だろうとなかろうと

国民無視の自民党政権はいらない。

 

来るべき次の選挙で、自公政権潰滅させるしかない。

消費税19%の生活なんて、あまりにも悲惨です。

どうしてここまで国民を苦しめるのか。

自公も維新も立憲も国民の味方はいない。

 

 

 

★薩長の操り人形になるか睦仁

 

今日は日本の闇でした。

日本の闇、今日は孝明天皇の子、睦仁親王です。

将軍と天皇が暗殺されて、残るはまだ16歳の睦仁親王

彼はどのような運命をたどるのでしょう。

 

 

睦仁の最期

 

 慶子が生んだ皇子は、祐宮(さちのみや)と命名され、誕生後30日目に

 参内して天皇に謁した。

 この時、女の子のように脂粉を使って額に眉墨を入れたという。

 祐宮は慶子のもとで養育されることになり

 5歳まで祐宮は、猿が辻の中山家で育てられます。

 

 そして安政3年9月慶子とともに御所に戻ります。

 その時、祐宮は孝明天皇の前で、オーフィ、オーフィ、クチュー、クチューと

 言ってにぎやかに歩き回ったので、天皇が訪ねると慶子は

 「オーフィーは豆腐屋の、クチューは木靴屋の売り声です」と答えた。


 ところが何とも不思議なことに、中山家ではなぜか祐宮を公衆の目に

 触れさせまいと努力した形跡があるという。

 これは歴史公論などにも関連記事が載っていますが

 常識からいってもずいぶんおかしな話です。

 

 

 睦仁親王が践祚されたのは、慶應3年正月9日、16歳でした。

 践祚とは天皇の地位を受け継ぐことを言います。

 生母は中山慶子、中山忠能の娘だとされている。

 

 忠能は二百石とりの公家でした。

 二百石というのは、年間八十俵の収入が約束されるだけのものであるから

 貧乏公家のひとりである。

 

 慶子が孝明天皇の子、男子の出生をみたのは忠能が43歳の時です。

 この時、中山家再興の時来ると言って大喜びし、赤飯を炊いて祝った。

 その孝明天皇の死で、忠能の夢は思いのほか早く訪れた。

 

 しかし、その時、睦仁はまだ16歳、、、、若すぎた。

 

 岩倉は孝明天皇の遺体を洗い清めて、食中毒ということにして

 睦仁に見せたから、睦仁も一応は納得して践祚した。

 睦仁は宮中の習慣によって、女装して女言葉を話すなど年齢のわりには

 体格も悪く、華奢な少年であったという。

 

 また女形の子役のようなひ弱な体であったが、生まれながらの皇子で

 先帝に似て強情であった。

 自分の叔母様が縁付いた徳川家を打とうとする勤王家を憎み

 公武合体を主張した亡き父の意志を継ごうと決意して、討幕に反対した。

 

● 館林藩士 塩屋良幹の語り残し

 

 明治元年に大村益次郎に従って、江戸城に詰めていたある夕方

 少年が一人、きょろきょろ物珍し気に周囲を見回しながら

 良幹の部屋に入ってきた。

 が、顔を見てすぐに出て行ってしまった。

 後を追うように何人かが入ってきたので、訪ねると

 「今のお方が天皇である」

 と言うので驚いたという。
 

 こうしたことから、まだ少年の天皇をどのようにも操れた。

 

 

 ★最後の仕上げに着手

 

 家茂と天皇を暗殺しても、次の天皇が親徳川あるいは佐幕論者

 だったならばせっかくの暗殺も徒労に終わり、目的は遂げられない。

 目的とはまだ幼少の天皇を、自分たちの操り人形にして

 討幕を実行すること。

 

 睦仁が父、孝明天皇の遺志を守って長州征伐、公武合体を主張すれば

 岩倉や薩長の計画は、画餅に帰してしまう。

 天皇を殺したのち、果たして睦仁は操り人形に甘んじて

 討幕に協力するだろうか。

 

 あるいは断固反対するであろうか。

 この前後の睦仁の真意は、公式には不明で伝わっていない。

 

 

 

 ●蜷川新氏は語る。

 

 「後年三條家の倉を整理した際、三重の桐の箱が発見され

  開いてみたところ、大行天皇(睦仁)16歳の時の下手な文字で

  書いてある文書が出てきた。

  それには【徳川の功労を滅しないよう始末しろ】ということを

  三條に命じてあった。

  討幕とは全く反対の内容である。」

 

 睦仁にこんなことを命じられたのでは、討幕による天皇ロボット化という

 一大プロジェクトは成功しない。

 岩倉や薩長にとつて、このような新帝の存在が邪魔にならないはずはない。

 かくして暗殺グループは、最後の仕上げに着手した。

 

 

 慶應3年7月、祐宮(睦仁)は御学問所で人形遊びの最中

 長州忍者の使う猿に手を引っかかれ、その傷に侍典医が毒薬入りの膏薬を

 貼ったため翌日あえなく亡くなります。

 

 翌日睦仁の遺体は、鬼子母神の菩薩像に仕立てられ、これを慶子が

 修理に出すと称して、5日間の宿下がりをもらい、八瀬の童子が大納言

 中山忠能邸に運び、桜木の根元に埋めて始末したという。

 

 

 

●八瀬とは

 

 ここでいう八瀬とは地域のことです。

 八瀬の地は「和名抄」のなかの愛宕郡小野郷の中にある。

 八瀬の人々は、八瀬童子と呼ばれ地祖を免じられる代わりに

 天皇家の葬儀に関する雑役を引き受けていました。

 

 大正天皇の時も105人の八瀬童子が棺を担いでいます。

 高松宮の時は、牛車でなく自動車の霊柩車でした。

 これは今では八瀬地方に大きな牛がいないし、八瀬童子も調達できない。

 社会変化してしまったということです。

 

 つまり大正末期まで八瀬の人々は、天皇家の葬式担当者だった。

 

 睦仁を始末したちょうどそのころ

 二本松の薩摩屋敷で待機していた玉、大室寅之祐は

 厚化粧で変身すると直ちに宮中に入り、身代わり天皇となって

 御所侍や女官たちを納得させていった。

 

 

こんにちわ

日本の闇に戻ります。

 

★将軍と天皇の最後

 

薩長の陰謀が開始されました。

薩長同盟の第一条に書かれてあった通りに薩長は陰謀を開始します。

 

●薩長同盟の第一条

 

慶應2年(1866)年1月21日 薩長同盟が成立しました。

坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介で、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允との間で

結ばれた同盟です。

 

この薩長同盟の第一条の条文には

孝明天皇父子を暗殺し、玉を新天皇に擁立、、、と書かれてあったという。

この条文はその後は他の条文に置き換えられています。

 

今では薩長同盟の詳しい条文は残っていません。

残せなかったのでしょう。

輝かしい明治維新を台無しにするものは、すべて破棄されたに違いないからです。

歴史家、松重揚江氏の著書の中にわずかに見出されるだけです。

 

★藩主3人が次々に暗殺される

 

古来、この国には皇族や貴人を暗殺する際、「刃物を用いず」という

約束事があったという。

そのためか天保7年、長州のウラ毛利忍者たちによって、藩主3人が相次いで

暗殺されたのも毒殺であった。

 

その藩主3人はなぜ殺されたのでしょう。

 

 

天保7(1836)年2月大塩平八郎の乱、飢饉、百姓一揆激化

幕府直轄領、大阪において大塩平八郎の乱勃発

前年より飢饉が続き、全国的に農民一揆も激化して世の中は騒然となり

長州政府の資金繰りも絶望的な状況となっていた。

 

このような藩政府の苦境をよそに、江戸の殿様清徳公(斉熈)は

従来からの豪奢な生活態度を変えず、撫育金にまで手を付けようとした。

ここにおいて、ウラ毛利(長州忍者グループ)は、その元凶を断つことを決意

 

国老、益田元宣は急遽、上忍会議(毛利一門六家及び二家老の現職)を招集して

その対策を練った。

その結果、3人の藩主を暗殺するための忍者部隊が組織された。

 

5月14日   長州11代藩主、斉熈53歳を江戸葛飾の別邸、鎮海園にて毒殺

9月8日   長州12代藩主、斉元42歳を萩指月城中にて毒殺

12月10日  長州13代藩主、斉広22歳を江戸桜田藩邸にて毒殺

 

幕府への届け出はいずれも、疫痢による病死あるいは、咽つかえの病とした。

 

大塩平八郎の乱とは、幕府の不正を憎み庶民をすくうために

打って出た行動です。

しかし結果は、その日のうちに幕府側に鎮圧されてしまいます。

 

 

●ウラ毛利忍者

 

 ウラ毛利とは初代、輝元が作った「毛利一門六家二家老」のことです。

 ウラ毛利忍者の存在は、表向きには「撫育方」と言って産業振興役を

 裏の任務は撫育金、つまり革命軍資金の管理、守護でした。

 

 その長官は萩本藩の城代家老、益田公 須佐12000石の領主です。

 その家臣たち、つまり忍者たちもよく訓練されており、決して

 表に出ることはなかったといいます。

 

 その階級組織も厳しく規定されており、上忍、中忍、下忍と別れていた。

 吉田松陰(中忍)をはじめ、明治維新の大きな役割を果たしたのも

 これらウラ毛利の忍者たちでした。

 

 毛利一門六家二家老の当主たちは、藩にマイナスになるような藩主をも

 取り替えるというウラの仕事を専としていました。

 当然、藩主さえ彼らの存在を知らず、彼らは忍者を使って密かに

 藩主を毒殺したのです。

 

 安政5年薩摩藩主、島津斉彬が急死したのも異母弟の久光の愛妾

 お由羅の方騒動にまつわる毒殺と噂されています。

 元治元年、睦仁親王の伯父にあたる中山忠光卿は、山口県豊浦郡

 田耕村の山中で、長州お抱えの下忍たちによって扼殺されています。

 (古川薫 暗殺の森)

 

 撫育方、撫育金の制度は、宝暦2年(1752)毛利8代藩主、重就によって

 創始されました。

 これは幕末まで約1世紀にわたり、極秘に続けられました。

 

 萩指月城中に埋蔵された、特別会の軍資金は歴代の藩主にさえ知らされず

 莫大な討幕軍資金としてのみ使われたというからすごい。

 

 ★まず手始めに家茂の暗殺

 

 こうして長州忍者たちを使い、薩長同盟の第一条の通り陰謀を開始する。

 

 第二長州征伐の最中、将軍家茂が毒殺された。

 この事件の裏には薩長同盟があったことは言うまでもない。

 

 ●山岡壮八 明治百年と日本人 

 

 私が調べたところによると、家茂が息を引き取るとき、御小姓組番頭の

 蜷川相模守が、ただ一人でそぱに付き添っていた。

 この人が漏らしているだけで、あとは極秘になっていて病気で

 亡くなったことになっているが、将軍は亡くなった七月二十日の

 四、五日くらい前に風邪気味で臥せっていた。

 

 そこへ宮中から差し回されたといつて、医者が訪ねてきた。

 名前ははっきりしていない。

 孝明天皇と将軍とは、和宮が降嫁されてから非常に仲がよかったから

 何も疑わずにその医者を居間へ通した。

 

 脈を診てたいしたことはありません、この薬を召し上がってくださいと

 いつて帰った。

 それを飲んで三、四日目に亡くなっているわけである。

 

 将軍の胸のあたりに紫の斑点が出て、大変苦しがってその蜷川に

 骨が折れるほどしがみついたまま、息を引き取った。

 この蜷川相模守という人は、五千石の旗本であるがこの人がずっと

 遺体に付き添って、江戸まで持って帰った。

 そしてこの死を発表したのは、ひと月経った八月二十日になってからだ。

 

 ●有栖川宮熾仁親王と和宮

 

 嘉永4年(1851)7月12日、孝明天皇は異母妹、和宮を有栖川宮熾仁親王への

 降嫁を内旨した。

 この時、孝明天皇21歳、熾仁17歳、和宮6歳でした。

 

 当時、有栖川宮邸は御所の東北隅(鬼門)猿が辻にあり、父親が教えていた書道を

 習うため和宮がよく通っていたから、二人は幼いころからよく知っていた仲でした。

 つまり幼い皇族同士が天皇に公認されて、許婚となっていたのだ。

 

 ところが安政5年ころから、井伊直弼大老は皇女和宮を見台所に迎える

 陰謀をめぐらしていた。

 万延元年3月3日、その井伊大老が桜田門で暗殺され、幕府は公武合体を

 急ぐ必要に迫られた。

 こうして熾仁親王との婚約は、勅命によって解消され文久2年6月20 日

 将軍家茂17歳と和宮17歳の婚儀が行われた。

 それからわずか4年後、家茂は大阪城で帰らぬ人となった。

 和宮は剃髪し、静寛院宮と称した。

 

 

★さて標的は 孝明天皇暗殺

 

 ●蜷川新

 

 将軍家茂の内室は孝明天皇の妹、和宮である。

 すなわち家茂と天皇は、義兄弟でありこの二人が仲がよかったことは事実である。

 二人がこうして固く協調している限り、尊王攘夷派は策の施す余地がなくなって

 一切の計画は潰滅する。

 

 いずれの時代においても、策士の心事は常に陰険きわまるものである。

 だから薩長及び公家の策士らが、当年の政治上の二頭首すなわち天皇と将軍を

 除こうと策謀したのは必然の帰結である。

 

 毒物の事実は極秘にされていたが、私の父は小姓組番頭として家茂に従って

 従軍していたので、その真相をよく知っていた。

 遺骸は江戸に送られた。

 和宮は遺骸に礼拝することを希望されたけども毒殺の痕が顔面に

 気味悪くあったため、老中は納めてある棺を開くことを許さなかったという。

 

 

 慶應二年の夏ごろ、京都御所内では家茂の暗殺後、天皇が譲位なさるか

 それなくばお命にさわるであろうと女官たちが、私語していたという。

 公家や女官たちもまた家茂を暗殺したグループが、次の標的天皇を

 狙っていることを知っていたのである。

 

 

 ● 天皇病魔に襲われる

 

 12月中旬天皇は、病魔に襲われやがて痘瘡と診断されます。

 その後の経過は順調で24日には全快に近付いていました。

 ところがその夜から嘔吐、下痢の激しい中毒症状が始まり翌日には

 御九穴より御脱血という異常を示し、苦闘の末その日の深夜36歳の

 若さで不帰の客となりました。

 

 直ちに怪死の風説が流れ、英国大使館員アーネストサトウは

 「天皇は毒殺された」と書いています。

 

 しかし

 戦前に天皇の毒殺を説くことはタブーであり、痘瘡による病死とされたのです。

 

 ●革新の歴史家 禰津まさし

 

「 公式には病死となっている。

 孝明天皇は、痘瘡のため死去した。

 これは当時朝廷で公式に発表され、今日に至るまで宮内省と文部省など

 一切の天皇制の機関によって、墨守され国民に確信させてきた「事実」である。

 公然と毒殺説を書いた文献は、一冊もなかった。

 

 ただ当時日本に駐在したイギリスの外交官アーネストサトウの日記に

 噂として記されているのが唯一の文献であるが邦訳書では、この箇所は

 削られている。

 

 第二に宮内省で編纂した「孝明天皇紀」「中山忠能日記」などを引用して

 痘瘡による病死説を証拠付けている。

 また文部省の維新史料編纂会が刊行した「維新史」「非蔵人日記」などを引用して

 天皇の死については、一点の疑惑も起こさせないよう編集してある。

 

 さらに「維新史」全五巻を一冊に圧縮して昭和十五年に刊行した

 「既観維新史」においても、痘瘡による病死のことが記されている次第で

 病死説は明治以来、敗戦までの天皇国家の公式見解であった。

 

 もし病死を疑わせる史料があれば、引用の公式の記録以外は

 永久に公表を禁じられたに違いない。

 

    (略)

 

最後にいいたいことは、どんなに未発表の文書があったとしても

犯人が誰かということを書いたものがあるはずはない。

明治以降の天皇家は、もしこのような文書があることを知れば

直ちに処分してしまったにちがいないからである。

 

とにかく私は以上において典医の報告などにより、天皇の毒殺説について

有力な証拠を伝えたつもりである。

つまり快方へ向かうことが決定的となった二十四日に何人かによって

一服盛られその夜から翌二十五日の朝にかけて、毒殺の症状を呈しつつ

他界したのである。

 

私ども歴史家は真実さえわかればよいのであるが、天皇をめぐる苛烈な討幕

佐幕の闘争を見るとき、病死説は天皇毒殺の犯人を隠すために

大きな役割を果たしているということができよう。」

 

 

それでは文中に出てきたアーネストサトウの日記を見てみましょう。

 

●アーネストサトウ 日本における外交官

 

 1967年2月9日アーガス号で、横浜から兵庫へ到着した兵庫湾に停泊中の

 プリンセスロイヤル号の艦上で、日本の貿易商人数人と会い天皇の崩御を知る。

 その時のことを数年後に次のように書いています。

 

 「彼ら(日本の商人たち)は、私に帝の崩御に関するニュースを伝えた。

 噂では帝が崩御された原因を痘瘡としていた。

 しかし数年後、その間の内幕によく通じている一日本人によって

 私は帝が毒殺されたのだということを信ずるようになった。

 帝は所信をもって、外国人に対するいかなる譲歩にも真っ向から反対された。

 そのため幕府滅亡の計画が早められ、宮廷を西方権力との関係に

 巻き込もうとする人たちによって、帝は邪魔にならぬ所へ片づけられたのであった。

 

 しかし開国反対のなにものでもない保守的な帝によって

 おそらく内戦になるだろうということは予期されるはずであった。

 だからその邪魔になる貴人の死を毒殺に帰するということは、東洋の国では

 ごく普通のことである。

 帝が後継者として、、15、16歳の少年を残して政治の舞台から消えてなくなったことは

 最も時機を得たものであるということを、否定することはできない」

 

●犯人捜しをされないために病死説」を説く明治政府

 

病死ならば犯人はいないことになるから、犯人捜しはしなくていい。

しかし毒殺ならば犯人は存在することになる。

犯人捜しをされては困る側の人間が「病死だ」と叫ぶ

犯人捜しをされないために。
 

 

次は睦仁親王の最期を見てみます。

 

 二人で一人の明治天皇著松重揚江