将軍と天皇の最後 | 気になるニュースチェックします。

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こんにちわ

日本の闇に戻ります。

 

★将軍と天皇の最後

 

薩長の陰謀が開始されました。

薩長同盟の第一条に書かれてあった通りに薩長は陰謀を開始します。

 

●薩長同盟の第一条

 

慶應2年(1866)年1月21日 薩長同盟が成立しました。

坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介で、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允との間で

結ばれた同盟です。

 

この薩長同盟の第一条の条文には

孝明天皇父子を暗殺し、玉を新天皇に擁立、、、と書かれてあったという。

この条文はその後は他の条文に置き換えられています。

 

今では薩長同盟の詳しい条文は残っていません。

残せなかったのでしょう。

輝かしい明治維新を台無しにするものは、すべて破棄されたに違いないからです。

歴史家、松重揚江氏の著書の中にわずかに見出されるだけです。

 

★藩主3人が次々に暗殺される

 

古来、この国には皇族や貴人を暗殺する際、「刃物を用いず」という

約束事があったという。

そのためか天保7年、長州のウラ毛利忍者たちによって、藩主3人が相次いで

暗殺されたのも毒殺であった。

 

その藩主3人はなぜ殺されたのでしょう。

 

 

天保7(1836)年2月大塩平八郎の乱、飢饉、百姓一揆激化

幕府直轄領、大阪において大塩平八郎の乱勃発

前年より飢饉が続き、全国的に農民一揆も激化して世の中は騒然となり

長州政府の資金繰りも絶望的な状況となっていた。

 

このような藩政府の苦境をよそに、江戸の殿様清徳公(斉熈)は

従来からの豪奢な生活態度を変えず、撫育金にまで手を付けようとした。

ここにおいて、ウラ毛利(長州忍者グループ)は、その元凶を断つことを決意

 

国老、益田元宣は急遽、上忍会議(毛利一門六家及び二家老の現職)を招集して

その対策を練った。

その結果、3人の藩主を暗殺するための忍者部隊が組織された。

 

5月14日   長州11代藩主、斉熈53歳を江戸葛飾の別邸、鎮海園にて毒殺

9月8日   長州12代藩主、斉元42歳を萩指月城中にて毒殺

12月10日  長州13代藩主、斉広22歳を江戸桜田藩邸にて毒殺

 

幕府への届け出はいずれも、疫痢による病死あるいは、咽つかえの病とした。

 

大塩平八郎の乱とは、幕府の不正を憎み庶民をすくうために

打って出た行動です。

しかし結果は、その日のうちに幕府側に鎮圧されてしまいます。

 

 

●ウラ毛利忍者

 

 ウラ毛利とは初代、輝元が作った「毛利一門六家二家老」のことです。

 ウラ毛利忍者の存在は、表向きには「撫育方」と言って産業振興役を

 裏の任務は撫育金、つまり革命軍資金の管理、守護でした。

 

 その長官は萩本藩の城代家老、益田公 須佐12000石の領主です。

 その家臣たち、つまり忍者たちもよく訓練されており、決して

 表に出ることはなかったといいます。

 

 その階級組織も厳しく規定されており、上忍、中忍、下忍と別れていた。

 吉田松陰(中忍)をはじめ、明治維新の大きな役割を果たしたのも

 これらウラ毛利の忍者たちでした。

 

 毛利一門六家二家老の当主たちは、藩にマイナスになるような藩主をも

 取り替えるというウラの仕事を専としていました。

 当然、藩主さえ彼らの存在を知らず、彼らは忍者を使って密かに

 藩主を毒殺したのです。

 

 安政5年薩摩藩主、島津斉彬が急死したのも異母弟の久光の愛妾

 お由羅の方騒動にまつわる毒殺と噂されています。

 元治元年、睦仁親王の伯父にあたる中山忠光卿は、山口県豊浦郡

 田耕村の山中で、長州お抱えの下忍たちによって扼殺されています。

 (古川薫 暗殺の森)

 

 撫育方、撫育金の制度は、宝暦2年(1752)毛利8代藩主、重就によって

 創始されました。

 これは幕末まで約1世紀にわたり、極秘に続けられました。

 

 萩指月城中に埋蔵された、特別会の軍資金は歴代の藩主にさえ知らされず

 莫大な討幕軍資金としてのみ使われたというからすごい。

 

 ★まず手始めに家茂の暗殺

 

 こうして長州忍者たちを使い、薩長同盟の第一条の通り陰謀を開始する。

 

 第二長州征伐の最中、将軍家茂が毒殺された。

 この事件の裏には薩長同盟があったことは言うまでもない。

 

 ●山岡壮八 明治百年と日本人 

 

 私が調べたところによると、家茂が息を引き取るとき、御小姓組番頭の

 蜷川相模守が、ただ一人でそぱに付き添っていた。

 この人が漏らしているだけで、あとは極秘になっていて病気で

 亡くなったことになっているが、将軍は亡くなった七月二十日の

 四、五日くらい前に風邪気味で臥せっていた。

 

 そこへ宮中から差し回されたといつて、医者が訪ねてきた。

 名前ははっきりしていない。

 孝明天皇と将軍とは、和宮が降嫁されてから非常に仲がよかったから

 何も疑わずにその医者を居間へ通した。

 

 脈を診てたいしたことはありません、この薬を召し上がってくださいと

 いつて帰った。

 それを飲んで三、四日目に亡くなっているわけである。

 

 将軍の胸のあたりに紫の斑点が出て、大変苦しがってその蜷川に

 骨が折れるほどしがみついたまま、息を引き取った。

 この蜷川相模守という人は、五千石の旗本であるがこの人がずっと

 遺体に付き添って、江戸まで持って帰った。

 そしてこの死を発表したのは、ひと月経った八月二十日になってからだ。

 

 ●有栖川宮熾仁親王と和宮

 

 嘉永4年(1851)7月12日、孝明天皇は異母妹、和宮を有栖川宮熾仁親王への

 降嫁を内旨した。

 この時、孝明天皇21歳、熾仁17歳、和宮6歳でした。

 

 当時、有栖川宮邸は御所の東北隅(鬼門)猿が辻にあり、父親が教えていた書道を

 習うため和宮がよく通っていたから、二人は幼いころからよく知っていた仲でした。

 つまり幼い皇族同士が天皇に公認されて、許婚となっていたのだ。

 

 ところが安政5年ころから、井伊直弼大老は皇女和宮を見台所に迎える

 陰謀をめぐらしていた。

 万延元年3月3日、その井伊大老が桜田門で暗殺され、幕府は公武合体を

 急ぐ必要に迫られた。

 こうして熾仁親王との婚約は、勅命によって解消され文久2年6月20 日

 将軍家茂17歳と和宮17歳の婚儀が行われた。

 それからわずか4年後、家茂は大阪城で帰らぬ人となった。

 和宮は剃髪し、静寛院宮と称した。

 

 

★さて標的は 孝明天皇暗殺

 

 ●蜷川新

 

 将軍家茂の内室は孝明天皇の妹、和宮である。

 すなわち家茂と天皇は、義兄弟でありこの二人が仲がよかったことは事実である。

 二人がこうして固く協調している限り、尊王攘夷派は策の施す余地がなくなって

 一切の計画は潰滅する。

 

 いずれの時代においても、策士の心事は常に陰険きわまるものである。

 だから薩長及び公家の策士らが、当年の政治上の二頭首すなわち天皇と将軍を

 除こうと策謀したのは必然の帰結である。

 

 毒物の事実は極秘にされていたが、私の父は小姓組番頭として家茂に従って

 従軍していたので、その真相をよく知っていた。

 遺骸は江戸に送られた。

 和宮は遺骸に礼拝することを希望されたけども毒殺の痕が顔面に

 気味悪くあったため、老中は納めてある棺を開くことを許さなかったという。

 

 

 慶應二年の夏ごろ、京都御所内では家茂の暗殺後、天皇が譲位なさるか

 それなくばお命にさわるであろうと女官たちが、私語していたという。

 公家や女官たちもまた家茂を暗殺したグループが、次の標的天皇を

 狙っていることを知っていたのである。

 

 

 ● 天皇病魔に襲われる

 

 12月中旬天皇は、病魔に襲われやがて痘瘡と診断されます。

 その後の経過は順調で24日には全快に近付いていました。

 ところがその夜から嘔吐、下痢の激しい中毒症状が始まり翌日には

 御九穴より御脱血という異常を示し、苦闘の末その日の深夜36歳の

 若さで不帰の客となりました。

 

 直ちに怪死の風説が流れ、英国大使館員アーネストサトウは

 「天皇は毒殺された」と書いています。

 

 しかし

 戦前に天皇の毒殺を説くことはタブーであり、痘瘡による病死とされたのです。

 

 ●革新の歴史家 禰津まさし

 

「 公式には病死となっている。

 孝明天皇は、痘瘡のため死去した。

 これは当時朝廷で公式に発表され、今日に至るまで宮内省と文部省など

 一切の天皇制の機関によって、墨守され国民に確信させてきた「事実」である。

 公然と毒殺説を書いた文献は、一冊もなかった。

 

 ただ当時日本に駐在したイギリスの外交官アーネストサトウの日記に

 噂として記されているのが唯一の文献であるが邦訳書では、この箇所は

 削られている。

 

 第二に宮内省で編纂した「孝明天皇紀」「中山忠能日記」などを引用して

 痘瘡による病死説を証拠付けている。

 また文部省の維新史料編纂会が刊行した「維新史」「非蔵人日記」などを引用して

 天皇の死については、一点の疑惑も起こさせないよう編集してある。

 

 さらに「維新史」全五巻を一冊に圧縮して昭和十五年に刊行した

 「既観維新史」においても、痘瘡による病死のことが記されている次第で

 病死説は明治以来、敗戦までの天皇国家の公式見解であった。

 

 もし病死を疑わせる史料があれば、引用の公式の記録以外は

 永久に公表を禁じられたに違いない。

 

    (略)

 

最後にいいたいことは、どんなに未発表の文書があったとしても

犯人が誰かということを書いたものがあるはずはない。

明治以降の天皇家は、もしこのような文書があることを知れば

直ちに処分してしまったにちがいないからである。

 

とにかく私は以上において典医の報告などにより、天皇の毒殺説について

有力な証拠を伝えたつもりである。

つまり快方へ向かうことが決定的となった二十四日に何人かによって

一服盛られその夜から翌二十五日の朝にかけて、毒殺の症状を呈しつつ

他界したのである。

 

私ども歴史家は真実さえわかればよいのであるが、天皇をめぐる苛烈な討幕

佐幕の闘争を見るとき、病死説は天皇毒殺の犯人を隠すために

大きな役割を果たしているということができよう。」

 

 

それでは文中に出てきたアーネストサトウの日記を見てみましょう。

 

●アーネストサトウ 日本における外交官

 

 1967年2月9日アーガス号で、横浜から兵庫へ到着した兵庫湾に停泊中の

 プリンセスロイヤル号の艦上で、日本の貿易商人数人と会い天皇の崩御を知る。

 その時のことを数年後に次のように書いています。

 

 「彼ら(日本の商人たち)は、私に帝の崩御に関するニュースを伝えた。

 噂では帝が崩御された原因を痘瘡としていた。

 しかし数年後、その間の内幕によく通じている一日本人によって

 私は帝が毒殺されたのだということを信ずるようになった。

 帝は所信をもって、外国人に対するいかなる譲歩にも真っ向から反対された。

 そのため幕府滅亡の計画が早められ、宮廷を西方権力との関係に

 巻き込もうとする人たちによって、帝は邪魔にならぬ所へ片づけられたのであった。

 

 しかし開国反対のなにものでもない保守的な帝によって

 おそらく内戦になるだろうということは予期されるはずであった。

 だからその邪魔になる貴人の死を毒殺に帰するということは、東洋の国では

 ごく普通のことである。

 帝が後継者として、、15、16歳の少年を残して政治の舞台から消えてなくなったことは

 最も時機を得たものであるということを、否定することはできない」

 

●犯人捜しをされないために病死説」を説く明治政府

 

病死ならば犯人はいないことになるから、犯人捜しはしなくていい。

しかし毒殺ならば犯人は存在することになる。

犯人捜しをされては困る側の人間が「病死だ」と叫ぶ

犯人捜しをされないために。
 

 

次は睦仁親王の最期を見てみます。

 

 二人で一人の明治天皇著松重揚江