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新選組の資料としては、生き残りの永倉新八が書いた新選組顛末記

篠原泰之進が書いた秦林親日記

子母沢寛の書いた新選組始末記、新選組遺聞などがあるが

縁類の人の話によると、篠原は人物もしっかりしていておよそ

人を欺くといった悪意などひとかけらもない老人であったが  

同じ話を聞くたびに変わるので、身内の者は全く信用しなかったと言う。

 

すると維新の貴重な資料の一つと言われる秦林親日記の信ぴょう性も疑われるが

人間の記憶などというものは、何十年もたてばとても正確に思い出すなんてことも

無理だろうし記憶違いということも当然あり得る。

 

新選組の生き残りの人たちの手記、談話などはいずれも30年40年後になって

他人に勧められて、昔の記憶をたどりながら、手記にまとめたり語ったりしたものです。

なので話が前後することもあるし、思い違いによる誤りも出てくるのは仕方がない。

 

しかしそういう人たちの証言などを頼りに、幕末の新選組が生きた時代へ

行ってみたいと思います。

 

 

 ★試衛館の近くに住んだ福地源一郎

 

 福地源一郎がこの試衛館を始めて訪れた時の記述

 

 

 福地は安政6年(1859)、幕府の通訳に採用され明治維新後は、新聞記者として

 活躍した。

 そして東京日日新聞の社長、その他を経て明治39年66歳で没した。

 号を桜痴といって多くの著書を残しています。

 

 福地は天保12年(1841)の生まれで近藤勇より8つ年下です。

 幕臣に採用されると小石川金剛寺坂下に妻を迎えて、新居を構えた。

 その新居から試衛館は近かったのです。

 

 土方や沖田の居た試衛館とはどんなところだったのでしょう。

 

 

「試衛館は外見はさえなかったが、高台にあるので日当たりはよかった。

  百坪ほどの土地に前庭、中庭、奥庭とあり、玄関続きの八畳が周斎の

  茶の間兼隠居部屋になっていた。

  道場は周斎の部屋からでも、玄関からでも自由に出入りができるように

  廊下でつながれていて、30畳敷きぐらいの広さであった。

  

  周斎の隠居部屋に続く10畳か12畳くらいの部屋は、客間になっていた。

  廊下がありそこが中庭で真竹が30本ほど植えて、威勢のよくない山紅葉が

  2、3本と高野槇がこれも2,3本あしらって植えこまれていた。

  台所に続いて細長い妙なつくりの部屋があったが、その部屋に

  土方歳三、沖田総司が寝起きしていたもので、見た感じではいづれも

  古家を取り壊したものに手を加えて、移築したもののようであるが

  畳は新しく、家の手入れも充分行き届いていて、清潔そのものであった」

 

 

 福地が試衛館を訪れた理由は、入門のつもりであった。

 それ以来、足しげく出入りするようになり、沖田らの印象を

 つぎのように語っています。

 

 「近藤勇というと、世間では年中、自慢の虎徹の鯉口をくつろげて絶えず

   斬ろう斬ろうとしている人物であったように思っているらしいが

   どうして決してそんな人物ではなかった。

   同じ多摩出身の近藤とは兄弟分のような土方の方は、ちょっと商人風な

   ところがあり、おまけに色も白ければ、なで肩の少しねこ背がかっては

        いたが身長もスラリとしたあの仲間うちでは、男っぷりもよい方である上に

   人との対面も抜け目なく、かつ如才なかった男だけに少し気障りなところが

   ないでもなく、人によっては毛嫌いする者もかなりあったようで、げんに

   予のごときもその一人で、近藤の道場にときたま遊びに行くことがあって

   よくそこに遊びに来ている伊庭八郎や代稽古をしていた、永倉、沖田、藤堂

   などという連中とは、話し合っても土方とはあまり口をきいたことはなかった。

 

   近藤の方は、土方とは異なり、重厚ともいう人物で人からものを頼まれても

   容易に有無とは言わなかったが、代わりに一度承服したら身命を賭しても

   必ず実行するという一口に言うと、頼みがいのある人物であった。

  

   あの時分の町道場の主人などという者は、戦国時代ともいうべき

   時世であったゆえもあろうが、剣をもってはいかに強かったにせよ

   人格的にはまるでなってないといってもいい、手合いが多かったようで

   そこへいくと近藤などは、それらの連中とは違い一人光っていた。

   そんなこんなから、つまり居心地がよかったのであろう。

   食客がいつでも絶ゆることなしに、5人や7人ゴロゴロしているというふうの

   すこぶる大まかな道場であった。」

 

   近藤は金銭に対しては無頓着で、食いつなぎに試衛館にやって来る者は

   土方や沖田の使っている妙な作りの建物で、自由に寝起きさせ

   小遣いまであてがっていたという。

   食客は常に何人かごろごろしていて、そうした者のなかから新選組の

   中核となる永倉新八、原田左之助、斎藤一、山南敬助、藤堂平助らが出てくる。

 

  また、清川八郎も試衛館をしばしば訪れている。

  近藤が清川を知るようになったのは、試衛館を訪れるようになってからです。

  しかしこの清川は近藤とは正反対で徳川幕藩体制を一日も早く解体させることだった。

  

  ●伊庭八郎

  福地の記述に出てきた伊庭八郎とは、心形刀流で伊庭軍兵の嫡男で道場主

  幕末に遊撃隊を組織して、鳥羽伏見で戦った関東でも戦った。

  ついに函館まで行って明治二年戦死、26歳でした。

  その伊庭八郎は、沖田総司らと友人であったと福地は言う。

 

  この試衛館には、最初から土方や永倉らの食客がいたわけではない。

  この試衛館の大先輩は、沖田総司と山南敬助で、試衛館の道場主、近藤周助

  隠居してからは周斎と名を改めて、総司と山南と3人でこの試衛館に住んでいた。

 

 近藤勇は妻帯していて、この試衛館には住んでおらず二十騎町から通っていたのです。

 ●周斎という老人は、「剣豪秘話」によると

 

 「近藤の養父、周斎は家督を勇に譲ってからは、楽隠居の生活をし、講談を聞きに

  行っては帰ってから、養子の勇、土方、沖田、永倉らの連中、三日にあげず

  遊びに来ている伊庭八郎、それらを集めて一人もりそば3ケずつの大盤振る舞いをして

  これらの連中がうまそうに、それらをすすりこむのを眺めていた。

  それらを眺めながら聞いてきた講釈のおさらいをした。

  そばのあるうちは、それらの連中は黙って聞いているが、食べてしまうと

  八郎が真っ先にどこかへ行ってしまう。

  続いて一人立ち二人立ち、結局勇と二人きりになる。

  互いに顔を見せて笑いながら、寝床に入るという極めて罪のない老人であった。」

 

 こういう老人と、穏やかな山南と総司ははじめ三人で暮らしていたのです。

 近藤は試衛館の運営をすべて、総司と山南に任せています。

 そこにやがて土方が来るようになり、いつのころからか食客の永倉、藤堂、井上なども

 加わって試衛館は大所帯となります。

 

 福地は試衛館は清潔そのものであったと語っているが、どこからどこまで

 隅々まできれいに磨きあげるのは総司たちの役目でした。

 いつも思うのですが、掃除はともかくとして食事とかはどうしていたのでしょう。

 

 三人のころは、総司と山南で適当にやっていたのかもしれないけれど

 あとで大所帯になってからは、どうしていたのでしょう、、、

 よけいなことですが、気になります。

新選組が活躍した幕末とは徳川幕府の末期を指す。

この幕末は剣術の黄金期でした。

 

 ★剣術の黄金期

 

 

 当時、江戸の三大道場と言われたのが

 🌸北辰一刀流 玄武館

    千葉周作、清川八郎、伊東甲子太郎,山南敬助、藤堂平助、坂本竜馬

 

 🌸神道無念流 練兵館

   斎藤弥九郎、藤田東湖、武田耕雲斎、渡辺崋山、永倉新八、芹沢鴨、野口健司

   平山五郎、平間重助、渡辺昇、桂小五郎、谷干城、高杉晋作、黒川弥次郎

 

 🌸鏡心明智流 志学館

   桃井春蔵、岡田以蔵、武市瑞山

 

 以上が当時、江戸の三大道場と言われました。

 有名人がたくさんいますね。

 この三大道場のなかから、新選組に入った者もたくさんいますね。

 これに比べると新選組となった近藤勇や土方歳三、沖田総司などがいた

 天然理心流などという流派は、数段格が下がります。

 

 🌸天然理心流 試衛館

   近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎

 

 近藤、土方、沖田たちが学んだ天然理心流

 この流派の免許の「極位必勝」には和歌が添えられている。

 

 荒海の 水につれ添う 浮島の

      沖の嵐に こころ動かず

 

 

 自然に逆らわず、天に象り 地にのっとり 剣理を極めるから

 天然理心流という。

 

 

 ★4人のさむらい百姓たち

 

 新選組の中核になったのが、武蔵国多摩郡のさむらい百姓たちです。

 多摩地方は幕府の直轄地、だから百姓の間で武術が盛んでした。

 

 近藤勇    多摩郡上石原の農業、宮川久次郎の三男として生まれた。

 土方歳三   多摩郡石田村の農業、土方隼人の四男として生まれた。

 井上源三郎  多摩郡日野在の農業、井上藤左衛門の三男として生まれた。

 沖田総司   白川藩の江戸詰めだった父は、浪人して貧しく総司は多摩郡の日野で

                     生まれたからやはりさむらい百姓だった。

        浪人というのは、職を失った者をいう

 

 

 土方、井上、沖田の3人は三代目、近藤周助の時に天然理心流に入門

 そして四代目、近藤勇に従い京へ行って、新選組の中核となった。

 

 ★試衛館一門浪士隊に参加

 

 試衛館一門が浪士隊に参加するということで、小野路村の名主、小島鹿之助は

 近藤勇と土方歳三に刀を餞別として贈ったという。

 総司には金子を贈ったという。

 

 この京上がりには、総司の義兄、林太郎も参加している。

 日野の佐藤彦五郎もよほど加わりたかったが、日野本郷三千石の名主という

 立場上、断念している。

 彦五郎も天然理心流免許皆伝の剣士です。

 

 林太郎には、この時、11歳と9歳の子供がいた。

 そのせいか、浪士隊に加わって京までは行ったが、その後、試衛館一門とは

 分かれてまた浪士隊とともに江戸に帰ってきた。

 近藤が返したと言われる。

 

 ●佐藤彦五郎は土方の姉が嫁いだ相手で、日野の名主で広大な敷地に

  道場を作り、ここで勇や周斎に稽古をつけてもらったという。

  

 ★麻疹にかかった総司

 

  文久2年(1862)年の7月ころより、江戸では麻疹が大流行

  浪士隊が江戸を出立する1年前、、、、

 

  小島鹿之助日記

  「文久2年7月 15日、近藤勇門人、沖田惣次郎殿

   当13日より道助方へ大稽古にまかり出られ、候所

   これまた麻疹躰につき、門人佐十郎布田宿まで馬にて送りゆく。

   病の軽重相変わらず、この人剣術は晩年、必ず名人に至るべき人なり。

   故にわれら深く心配いたす」

 

 総司は7月12日に武州多摩郡小野路村の名主、橋本道助家に逗留して

 小野路村の門人、再造。幸輔、倉之助、金之助、佐十郎の5人を相手に

 3日間剣術を教えた。

 

 この時、総司は謝礼として一人、276文ずつ受け取った。

 そして15日に総司が麻疹にかかったので、門人の佐十郎が総司を馬に乗せて

 甲州街道の布田宿まで送って行ったという。

 そのとき、小島鹿之助は総司の症状が、よくわからなかったので大変心配して

 小島日記に書きとめたという。

 

 文久2年は総司19歳のときです。

 この年の2月、長崎に流行った麻疹が京、大阪に広がり5月に

 江戸に入って来た。

 

 そして7月になるとますます激しくなった。

 ●増訂武江年表によれば

 

 「7月より盛にして、命を失う者、幾千なりや量るべからず

  三味の寺院、去る午年コレラ流行のときに倍して公験をもって日を約し

  荼毘の煙とはなしぬ

  故に寺院は、葬式を行うにいとまなく、日本橋上には

  一日棺の渡ること200に至る日もありしぞと」

 

 現在は大人の麻疹はまれですが、

 江戸時代は20年の間隔をおいて流行し、大人も子供も命を落とす者が多かった。

 

 

 

 総司は浪士隊として京に来る一年前に、麻疹にかかった。

 またこの文久2年の麻疹は、榎本武揚もかかっています。

 当時、榎本は27歳、幕府の命令でオランダ軍艦を注文に行きついでに

 外国の海軍技術を習得するため、留学生として6月18日咸臨丸で江戸を出発

 長崎まで行き、そこから外国船に乗り換えオランダに渡航することに

 なっていたが、なんと長崎についたのは8月23日、65日もかかっている。

 

 そのわけを留学生の一人、沢太郎左衛門が口述しています。

 「そのわけは、6月18日に品川を出発し浦賀によって、すぐ出航しようと

  いうとき波が荒くて出られません。

  そこで滞溜いたしまして、伊豆の下田につきますと、麻疹が大変流行し

  第一に麻疹にかかったのが榎本君、それから私、咸臨丸の乗組員は

  大半麻疹にかかって三分の二以上病気になりましたから、ついに

  下田を出発することができませぬ。

  とうとう8月2日まで下田におりました」

 

 

 総司は京に行ってから労がいにかかります。

 それはこの麻疹が発病の遠因となったという。

 

 結核は結核菌の感染による疾病で、体が強健で抵抗力があれば

 感染しても発病はしない。

 総司は麻疹にかかる前に、結核に感染し肺に小さな初感染巣ができ

 これが自然治癒しないうちに、麻疹にかかったので体の抵抗力が減退し

 肺病巣が暫時拡大し、ついに発病に至ったものと思われる。(森満喜子)

 

 

  大路和子氏は、この時、罹患した麻疹で躰を弱らせ、さらに浪士隊となって

 京に向かう途中の木曽路の旅の、荒くれ男たちでさえ音を上げる寒さに

 総司は労がいの引き金となる重い風邪をひいたのではないかと言う。

 

 古い医学書に

 一家をつくして死するの病なり、兄弟一門すべて死に絶える

 と書いている。

 伝屍病ともいわれる恐ろしい病気であった。

 

 近代医学では、遺伝説は否定されたが、同一家庭内で濃厚感染するのは事実。

 それにしても総司はどこで濃厚感染したのでしょう。

 

 父母の死因は何だったのでしょう

 労がいではなかったのでしょうか

 

 

 

こんにちわ

まだまだ暑い日が続いていますね。

ところで私は歴史がとても好きで、興味をもつと片っ端から本を読みあさり

史料を集めました。

 

歴史を学ぶ者は、人生を学ぶ

    英雄、豪傑も苦悩の連続     松風庵主

 

そして一番興味を持ったのが、明治維新と新選組のことでした。

これを見ていくと、今の日本が置かれた立場が見えてきます。

日本が米国の植民地であることは、今ではある程度の人は薄々知っています。

日本がこんな風になったのは、明治維新前後の内戦にあります。

明治維新前後の日本は内戦だらけでした。

 

1866年       第二次長州征伐

1868年       鳥羽伏見の戦い

1868年、7月    上野戦争

1868年から1869年 戊辰戦争  などなど、もう内戦だらけです。

 

これはすべて幕府と反幕府軍との戦いです。

同じ日本人同士、なぜこんなにも血を流し戦わなくてはならなかったのでしょう。

しかも幕府軍は、敵の200倍の戦力、、、なのに大敗してしまいました。

   

歴史は勝者が創るものであるから、勝者の都合のいいようなものしか

後世には伝わりません。

都合のわるいものは書き換えられるか、抹消されるかのどちらかです。

死んでしまった敗者には口なしで、生き残った者も勝者の言いなりです。

ずっと後になってぼそぼそと真実が語られることもありますが、広く後世に

伝わった歴史はそのまま真実として、修正されることも抹消されることもなく

永遠に日本の歴史として伝わっていくのでしょう。

 

★★★維新以来、百年を経た今も

 

 幕末の戦闘ほど世に悲しいことはない。

 それが日本人同族のことであり、いづれもが正しいと信じたるままに

 それぞれの道へ己等の誠を尽くした。

 然るに流れゆく一瞬の時差により、ある者は官軍となりある者は賊軍となって

 士道に殉じたのである。

 

 百年の歳月を閲し、その縁あるこの地に

 不幸、賊軍の名に斃れたる

 誇りある人々に対し、慰霊碑を建てる。

 在天の魂 以て冥すべし

        ( 中村勝五郎 識す )

 

 その裏面に

 「慶応4年 戊辰正月 鳥羽伏見の戦いに敗れ

   ここ淀堤千両松に布陣し、薩摩長州の西軍と激戦を交し

   悲運に斃れた会津桑名の藩士および、新選組ならびに京都所司代

   見廻り組の隊士の霊に捧ぐ

     昭和45年6月4日」

 

  と書かれ日本中央競馬 馬主協会連合会長、中村勝五郎氏や

  京都馬主協会長 樋口正一氏、松本英吉氏らの名が刻まれている。

 

 

  この鳥羽伏見戦死者の慰霊碑 が、昭和45年ころになって

  なぜ建てられたのでしょう。

 

 ●京都新聞 昭和48年1月連載 夜明けの舞台

 

 淀競馬場に3年ほど前、京阪電車をまたいで駐車場と馬場を結ぶ

 陸橋が架けられた。

 工事が始まると、宿直の作業員が近くの妙教寺の東軍戦死者の墓から

 夜な夜な 「元の場所に返せ」といううめき声が聞こえ

 そんなばかな、、、と現場の責任者が一夜宿直をした。

 するとやはり声が確かに聞こえたという。

 そして妙教寺に相談したところ、激戦のあった淀川堤千両松付近の土が

 競馬場建設の時、運ばれ戦死者の墓が移動させられたことがあった。

 そのとき、おそらく血染めの土、骨片なども一緒に運ばれたのだろう。

 早速、その霊を慰めたところピタリと治まったという。

 以来、毎月4日の命日に供養を続けている。」

 

 維新以来、百年を超えてもなお戦死者の霊魂は、淀付近に

 立ち止まっているのかもしれない。

 

 この慰霊碑は、京都競馬場東端に

 「戊辰役東軍戦死者埋骨地」

 と刻まれた細長い石碑とその左側に自然石の慰霊碑がある。

 慰霊碑の後ろには、赤地に誠と白く染め抜いた幟旗が数本立ち並び

 香煙がたなびいている。

 これは昭和45年6月4日、競馬関係者有志の方々によって建てられたものです。


 ★淀城址 千両松の死者たち

 

 ところでこの淀、千両松のあたりから夜な夜な聞こえてくる戦死者の声とは

 ここで死んだ戦死者とは、、、、

 京阪電鉄で淀駅、駅の北西歩いてすぐのところに淀城の石垣と内堀の一部がある。

 維新以後は廃城になった。

 

 この淀城は徳川期になって、京の護衛のため移築され城の北側は宇治川が

 桂川に合流し東の後方は巨椋池、南は木津川が天然の外堀となり

 難攻不落の城といった感じがする。

 

 ここで籠城すれば、かなりの間、持ちこたえられる。

 そのため新選組は、この城に入って戦おうとした。

 ところが淀藩の者は、自分たちが生き残るため、徳川を見限った。

 

 井上源三郎は1月4日千両松あたりで死んだ。

 彼は降り注ぐ銃弾のなか、抜刀して斬り込み壮烈な戦死を遂げた。

 その他1月5日に山崎蒸が淀で負傷し大阪で死亡

 ここで死んだのは、新選組は井上源三郎、ほか24名

 その他、幕臣の様々な隊、なかには16歳の少年もいたという。

 

 鳥羽伏見戦い以後、新選組の戦死者は正確にはわからないが

 脱落者を入れると新選組は三分の二の隊士を失っている。

 千両松とは、伏見街道の中央にある大きな松で、豊臣秀吉が

 千両の価値あり、、、と言ったことから千両松と名付けられたという。

 

 

 

 

 人間の恨みの思いというものは百年を経ようが千年を経ようが

 永遠に消えないものなのでしょう、、、

 この京都競馬場の話を聞いたとき、怖いというより悲しさを覚えました。

 

 これから少し歴史の長い旅へ出たいと思います。

 秋とは名ばかりの暑い毎日ですか、秋の夜長、少し歴史に浸ってみてはいかがでしょう。