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気になるニュースチェックします。

毎日気になる最新のニュースをチェツクします。

こんにちわ、今日は少し隊士たちの一日を最初に見てみたいと思います。

新選組隊士となって、毎日どのような生活を送っていたのでしょう。

 

★新選組隊士の日常生活

 

 壬生村時代は、八木家、前川家などの郷士屋敷に分宿していました。

 それぞれに泊っている隊士を集めるときは、前川方坊城通西口へ出て

 拍子木を打ちました。

 

 新選組隊士といっても、見習い隊士から平隊士、伍長、会計方、諸士調役

 副長助勤などいろいろな役職に分かれていました。

 一般隊士の仕事は、将軍および幕府要人の警護、市中巡察、不逞浪士の取り締まりが

 主であるが、武術の錬磨、軍事訓練なども課せられていました。

 

 朝は明け六つに起床して、平隊士は布団の片づけ、居室の掃除、朝食

 その後、勤務割に従って隊務につきました。

 なお明け六つとは通常は、午前6時とされているが、不定時法の当時にあっては

 現在の何時に当たるかは、季節によってかなりの差があったという。

 

 ●幕府伝習隊

  ちなみに幕府伝習隊では

  朝、6時起床、6時12分点呼、掃除

  6時半朝食

  7時半から9時半まで演習、、、、、

  12時昼食、、、、6時夕食、、、、このような日課になっています。

 

 新選組の武術稽古は、隊士の義務とされていて、朝から隊務の合間をみては

 道場へ出て汗を流していました。

 壬生村時代は、前川家の表長屋を改造して道場とした。

 だんだん隊士が増加すると、八木家の母屋と離れの間に道場を建設した。

 これを分武館とよびます。

 

 稽古は実に激しいもので、倒れたまま、動けなくなっている隊士もいたという。

 どうりで新選組は強いわけです。

 

 非番の者は、刀の手入れをしたり、碁や将棋を楽しむなど自由に過ごした。

 外出もできたので、気の合う者と京都見物をしたり、沖田総司などは

 近所の子供たちと遊んだり、若い隊士は水茶屋へ出かけたりして一日を過ごした。

 門限通常、武家屋敷では宵五つとされています。

 

 永倉新八の遺談によると、許可なく門限に遅れた者は処罰されたという。

 役ある隊士では切腹という決まりであったと言う。

 一般隊士は夜四つころには床についたようであるが、夜の巡察に当たっている者や

 非常出勤の命令を受けた者は別である。

 

 ●市中巡察

 

 市中巡察には抜き身の槍をもって都大路を巡らしました。

 これには昼周りと夜周りの組があって、晴雨にかかわらず実施したという。

 新選組の出発時刻は、伝わっていないが、同時期に江戸市中取り締まりに

 あたった新微組は、昼周りは正午に出て、夜の8時ころに帰って来たという。

 夜は夕刻6時に出て、真夜中の1時ころに帰ってきたという。

 

 永倉新八の遺談では、新選組の夜周りは丑三つに及んだという。

 すると帰隊は明け方になったのではないか。(清水 隆)

 

 

 ★雨の夜の惨劇

 芹沢惨殺の目撃者は、八木家の人々です。

 ●その日 八木為三郎のはなし

 

 「局長、芹沢鴨が殺されたのは、文久3年9月18日の夜でした。

  この日は朝から雨がしゃびしゃ降って、お昼頃一時晴れましたが、また

  夕方から今度は土砂降りのひどい雨になりました。

  

  新選組は、、、今日は会津候からのお手当で島原角屋の総あげだ、、、、

  と言って、お昼ごろ隊士たちはぞろぞろ出かけて行きました。

  出かけてしまうと、前川家でも私の所でも火が消えたように静かになりました。

 

  ただ隊士に馬詰新十郎という46か47の武士がいましたが、これとせがれの

  柳太郎というのが、たった二人留守居をおうせつけられて、私の所へやってきて

  近所の女など2、、、3人呼び集めて、母屋の方で酒を飲んでいました。

 

 馬詰は父子とも隊士なのですが、よくみんなの頼まれごとなどを引き受けて

 親切に世話してやるので、隊士たちにも受けがよく、芹沢や近藤なども

 年上ではあるけれど目をかけてやっていたようでした。

 

 父の新十郎は柳元斎などとも言っていたと思います。

 私の家では、父、源之丞は、この日は京都の方に用事があって

 朝から留守で、夜になっても戻りませんでした。

 

 日の暮れ、少し前に菱屋のお梅がやって来たて、台所の方で私の家の女中と

 話をして遊んでいるのを見ました。

 芹沢が居ないので、帰りを待っているのです。

 このお梅というのは、垢抜けしていて愛嬌がいいので、隊士たちも

 この女を見ると、、、、女もあれくらいべっぴんだと惚れたくなる、、、

 などと言ったものです。

 

 これは売掛金を取ろうということで、菱屋の主人、太兵衛が自分の妾の

 お梅をよこしたのです。

 芹沢はこれに目をつけ、私の母屋へ上げて、とうとうものにしてしまったのです。

 お梅も最初は嫌っていたようですが、妙なものでだんだん主人の目を盗んで

 忍んで通ってくるというような始末で、この日も芹沢が角屋に行ったのを

 心待ちに待ったのだと思います。

 

 日が暮れたし、父はいず、私と弟の勇之助二人でもう寝ようと部屋へ行くと

 真っ暗な中で、私たちの床の中に女が一人しゃがんでいるのです。

 びっくりして、母まさに告げると、それならとここに勇之助と二人

 並んで寝ました。」

 

 ●母まさのはなし

 ここからは八木源之丞の妻まさの話です。

 「夜の12時ころ、誰かがそっと玄関から入ってきました。

  床に入っていたのですが、まだ眠ってはいませんでした。

  夏のことなので蒸し暑く、唐紙は開けておきました。

  暗い中で気をつけていると男の体つきはどうも土方らしかった。

 

 男は芹沢の寝ている部屋の唐紙を細目にあけ、じっと除いていたが

 またそっと出ていきました。

 それから20分ほどして、今度はどかどかと4、、、5人がものすごい勢いで

 玄関から飛び込み、芹沢の部屋の唐紙をけ破って乱入していったのです。

 

 いずれも抜刀している。

 その中に沖田と原田がいたことは確かに見たが、他の者はわからなかった。

 どうも山南も加わっていたのではないか、、

 

 芹沢の部屋の八畳間には、まだ少年の為三郎と弟が寝ている。

 跳ね起きてその八畳間に走りました、、

 するとその時、芹沢が縁側の方から、八畳間に転げ込んできたのです。

 寝ているところを襲われて、まずどこか一太刀やられ枕もとの刀を取る暇もなく

 再び切り付けられ、幾太刀もやられてから、八畳間まで来たのだが

 そこに為三郎らの手習いの机があるのにつまづいて倒れた。

 それをあとから滅多斬りにされた。

 

 この時、刺客たちが、振りかざした刀で削られた痕が今も柱に残っています。

 芹沢は兄弟の布団の上に、血まみれになって覆いかぶさり死んだが、兄弟は

 こんな騒ぎも知らずに眠っていました。

 

 私は狂気のようになって呼び起こすが、なかなか目を覚まさない。

 それでもようやく芹沢の死体が乗っている布団の下から、引っ張り出して

 二人は目を覚ましました。

 

 そのころはもう刺客たちは姿を消し、下帯一本の平間重助が刀を抜いて

 どこへ行った、どこへ行ったと大声で叫びながら、家の中を駆け回っていました。

 芹沢は素っ裸で刀も持たず、血だらけで倒れていました。

 あとで聞くと無数の傷があったそうだが、肩から首にかけて大きな傷が

 口を開けているのが見えました。

 

 芹沢の寝ていた部屋へ行ってみると、芹沢の刀は床の隅に放り出されていました。

 布団の上には、お梅がこれまた血まみれになって倒れていました。

 みんな、、、、首がもげそうだ動かすな動かすな、、、と言っていました。

 平山五郎も目を覚まさぬまま、刺殺され首が胴を離れていました。

 

 しばらくすると前川邸から、近藤が3、、、4人の隊士を従えてやってきました。

 少し遅れて土方もやってきました。

 私はどうも可笑しくて仕方がありませんでした、自分たちがたった今、殺しておいて

 前川へ帰ったかなと思う頃、もうちゃんと着物を着替えてすまして

 やって来ているのだから、、、

 

 翌翌日、盛大な葬儀が営まれましたが、参列した人々は

 、、、、刺客は長州のやつらしい、、、、

 熟睡中とはいえ、芹沢先生を殺したうえ、証拠一つ残さず逃げるとは

 敵ながらもあっぱれだ、、、、

 

 などと噂するのでそれを聞いて、源之丞や私はクスクス笑っていました。

16日間の旅の果て、浪士たちは春真っ盛りの京に着いた。

 京に着くともうすでに宿は決まっていた。

 鵜殿はじめ、山岡、松岡などの公議役人は前荘司方

 清川八郎以下21名は新徳寺の寺宿、田辺吉郎方

 近藤と芹沢一味は、八木源之丞方

 

 ★新選組と暮らした家族

 

 近藤と芹沢一味が草鞋を脱いだ八木本家は、三代目の源之丞で

 穏やかな人物であった。

 家族は妻のまさ、二人の子供の為三郎と勇之助の4人

 八木源之丞一家は、隊士たちがここに屯所を構えたあとも

 隊士たちと一緒に住んでいました。

 

 新選組の隊士たちと、一緒に暮らしていたなんて

 なんと微笑ましい、、、、

  そのころはただの浪士の集まりだった新選組の面々ですが

 後に有名になった沖田総司や土方歳三などと一緒に暮らしていた家族が

 八木源之丞一家です。

 

 殺された芹沢鴨やその一味とも一緒に暮らしていました。

 芹沢が暗殺された時、芹沢の隣の部屋に寝ていたのが八木家の次男、勇之助

 恐れられた芹沢の隣の部屋にこの家の子供が寝ていたなんて

 本当は世間で言われるような、怖い人ではなかったのかもしれません。

 

 もし、本当に恐ろしく乱暴で手のつけられない男だったら

 八木家の人はそんな男の隣に、自分の家の子供を寝かせるはずはない。

 八木家の人たちと、新選組の間は別にトラブルもなく生活していたようです。

 

 二人の子供のうち勇之助は早世したが、為三郎は別家してここに居住した。

 その勇之助の葬儀のとき、芹沢と近藤は二人で弔問客の接待をしています。

 その時、芹沢が何やら手持ち無沙汰で書いた、いたずら書きのような紙が

 しばらく後まで残っていたそうですが、いつの間にか無くしてしまったそうです。

 なんとなく微笑ましいエピソードですね。

 

 

 

 今度はその八木家の長男、為三郎老人の話です。

 

 「私の家に泊ったのは、芹沢鴨、近藤勇、山南敬助、土方歳三、永倉新八

  沖田総司、野口健司、原田左之助、井上源三郎、藤堂平助、平間重助

  平山五郎、佐伯又三郎の13人ですが、南部亀二郎さんのとこに泊っていた

  新見錦、粕谷新五郎の二人と斎藤一というのが、ほとんどこっちへ入り浸って

  毎晩、雑魚寝をしていたという話でした。

  13人と斎藤一は、おぼろげながら記憶はありますが、新見と粕谷というのは

  まるっきり覚えがありません」

 

 そのうちだんだん隊士の数が増えてくると、八木邸から道一つ隔てた真向いの

 前川邸までも押しかけて、起居するようになった。

 前川邸は建坪400坪、八木邸の現当主の喜久間氏は

 「前川家は建物も新しく、部屋数も多かったので、屯所に向いたのでしょう」

  と言う

   

 「我々の同志は、追々に増加する。

  八木の所だけでは、手狭で困るから当家をも拝借する」

 と芹沢は否応もなく、前川家の人々は閉口して一家を明け渡し

 六角通りの方へ移って行ったという。

 

 八木家の人々も、一緒に暮らしてはいたが、新選組があまり

 騒がしい時などは、下男や女中ばかりにして、一家で親戚へ

 泊りに行ったりしていたという。

 

 

 

 

 

 ★前川屋敷の怪

 

 前川家は明治に入って、没落して所有者が何人か代わり東京から

 京都に移ってきた田野氏が、新選組ゆかりの家とは

 まったく知らずに買ったという。

 

 当時は、屋根は痛み雨漏りもひどく、畳は全部腐り果てていたという。

 建物はさすがに頑丈な作りで、部屋数もあるのだが、

 とても陰気臭く感じたという。

 

 まさかその家の中で、斬られたり切腹させられたり、拷問を受けた者が

 あろうとは露知らず、取り壊して新築しようとしたところ

 周囲から反対されて、初めて前川屋敷であったことを知ったという。

 

 それで一部を手直しする程度にしたが、大工が入ると屋敷の

 あちらこちらから、蛇が出て来て大工は気味悪がって、途中で

 仕事を投げ出して帰ってしまうことが何度かあったという。

 

 「きつねか狸の類が今も棲み着いていましてね。

  いつか大きな蛇が、座敷の中を這いまわっているのを見つけ

  庭に放したのですが、どこから入りこんだのか真夜中

  家内の枕もとを這いまわっていたのです。

  家内の悲鳴にびっくりして、はね起きたのですが

  これにはたまりかねて、障子に挟み付けて殺しましたが

  家の主みたいのが、まだ何匹が棲みついています」

 

 前川邸には、古高俊太郎を拷問にかけて白状させた蔵も

 屋敷続きの裏に当時のままの姿で残されている。

 蛇は人間の化身なのでしょうか。

 あの当時殺された隊士たちが、蛇の姿となって屋敷に

 棲みついているのでしょうか、、、、

 

 

 

 

 ★★★木曽路を行く浪士たち

 

 

 今日は浪士組が歩いた木曽路の路を歩いてみましょう。

 浪士たちはどんな旅をしたのでしょう。

 

 ★桜に見送られ京へ

 

 文久3年2月8日に江戸を出発し、木曽街道(中山道)を通って

 2月23日に京都へ到着、約16日間の旅です。

 今なら新幹線で約2時間53分、、、、

 

 武蔵、上州、信濃、木曽、美濃、近江と主に山道を通って

 京に入る道を中山道という。

 江戸の日本橋から京まで中山道を行けば135里32丁

 江戸の日本橋から東海道を行けば、125里20丁

 10里も中山道の方が長い

 浪士隊は一日平均、8里強を歩いています。

 

 浪士組に中山道をとらせたのは、中山道の方が路用が安くすむことも

 あったが、この浪士組出立の10か月前に神奈川の生麦村で事件が

 起きていたことで、外交問題にまで発展していたから、幕府は

 頭を痛めていたこともあった。

 いわゆる生麦事件

 

 浪士234名は7隊に分かれ、伝通院からはるか京を目指して出立した。

 武江年表によれば、この年は 2月の初めころ、新暦では3月半ば過ぎは

 すでに桜の花が咲いていたという。

 浪士たちは桜に見送られての出立だった。

 

 

 ★木曽路を行く浪士たち

 

 浪士組は1番隊から7番隊まで、試衛館一門は6番隊に属した。

 ただし試衛館の井上源三郎と沖田林太郎は3番隊に配属された。

 

 浪士取り扱いの鵜殿甚左衛門鳩翁は、陣笠をいただいて馬上

 取り締まり、山岡鉄太郎、同、松岡万はぶっさき羽織に

 義経袴をつけて徒歩

 

 浪士隊の先頭は根岸伴七が一番隊を率いていた。

 年すでに55歳、白髪まじりの総髪

 上洛の中心人物、清川八郎は高下駄ばきで、本隊の先になり後になり

 ぶらりぶらりと歩いて行った。

 

 出立して3日目、あの有名な芹沢鴨の横暴が早速出た。

 手違いで泊る部屋がなくなった芹沢は、カンカンに立腹

 宿場の真ん中で、大焚火をやりだした。

 

  本庄から新町、倉ヶ野、高崎、板鼻、安中、松井田、坂本

 江戸を出てこれまで山なし (五街道細見、岩井良樹著)

 とあるようにここまでは楽な旅でした。

 

 上州路(群馬県)に入って、3番目の宿場の高崎は、谷川岳から吹いて来る

 刺すように冷たい風がビュウビュウと吹いていた。

 谷川岳の氷壁を吹き抜けた風が、何キロもの川面を伝って吹き付けてくる。

 東京では想像もできない冷たさだ。

 

 標高三千メートル級の御岳山や駒ケ岳の山麓をぬって歩くのは

 足腰の丈夫な当時の人でさえ、どれだけ大変なことであったか、、、、

 

 坂本を出て中山、子持山稲荷を経て碓氷峠を超える。

 2月の半ば、新暦では3月、中、下旬であるが、この辺はまだ雪があり

 浪士たちは寒さに震えたであろう。

 

(五街道細見)

 相州箱根より、険悪なる所あり、これより上がり道ばかりなり。

寒きこと甚だしく五穀、稗、蕎麦のみ多し。

また、果物の木もなし

嶺より宿まで下り十八丁

 

 

 ★短歌をつくる土方歳三

 

洗場、奈良井を過ぎて木曽川の上流に沿った木曽山中の道となる。

土方歳三はよほど感動したのか、短歌を作っている。

 

 立ちわたる朝(あした)の雲も色深き

       霞にこむる 木曽の架け橋

 

 

 (五街道細見)

  木曽の架け橋、往古険しき所ゆえ、南方から石を積み立てて

  今はわずかに九尺ばかり架け橋あり

 

 このわずか九尺ばかりの危険な橋を浪士たちは渡ったのです。

 さらに須原、野尻、三留野を過ぎて妻籠に至る。

 妻籠から京まで五十五里十四丁、江戸へは八十里半

 

 妻籠宿では

 「寒気烈しきゆえ土壁なし」

 「寒気甚だしきゆえ、うれども枯るる」

 「これみな寒気深きなり」

 と酷寒の様子が書かれている。

 

 さすがの荒くれ男たちも、この寒さに音を上げたことだろう。

 この寒気により前年に罹患した麻疹で,躰を弱らせていた総司は

 思わず労がいの引き金となる、重い風邪をひいたのではないかという。

 

 木曽路は最後の宿の馬籠宿で終わり、美濃路に入る。

 美濃を通過する中山道は、太田宿を過ぎるあたりまで、木曽川の流れに沿い

 やがて木曽川は方向を変え、尾張との国境を流れて伊勢湾に注いでいる。

 

 中山道は木曽川と分かれてなお西に向かい、近江路に入る。

 番場宿は近江路3番目の宿、番場の忠太郎で有名ですね。

 忠太郎は実在の人物で、彼の墓や忠太郎地蔵まであります。

 

すり鉢峠を越えると鳥井本陣、ここから高宮宿までの間に彦根城が見える。

井伊直弼の居城です。

桜田門外の変の時、総司はまだ17歳でした。

 

高宮宿大鳥居をくぐると多賀神社

浪士たちや総司もお参りしたかもしれない。

旅人たちの多くはここで憩いをとったという。

 

中山道は草津に入ると東海道と合流して一本の道になる。

瀬田の唐橋を渡って大津に至る。

京まであと三里(12キロ)です。

大津は最後の宿、浪士たちはこの大津で分宿して泊っている。

 

そして翌朝、6時に出立

途中、笠置山脈と比叡山脈の間の逢坂の関を超え

そしていよいよ三条大橋、16日間の旅の果て浪士たちは京についた。

 

木曽街道六十九次、東海道五十三次の終着点である。

 

陰暦の2月23日は、新暦では4月10日

浪士たちは春真っ盛りの京についたのです。