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★日本の夜明け史観

 

 明治維新とはなんと輝かしい言葉なんでしょう、、、、、

 明治維新とは、徳川幕府を倒し、薩長側が新しい政府をつくるという

 この一連の動きを明治維新と呼びます

 

 私たちが受けてきた歴史教育では、薩摩、長州を中心とした下級武士たちの

 手による革命的な、封建的徳川体制の打倒によって我が国は

 西欧列強による植民地化を防ぎ、近代国家建設の幕を開けた、、、

 というものです。

 

 討幕勢力が西欧列強の植民地化を防ぎ、近代日本のすべては明治に

 幕を開けたとするこの史観を、日本の夜明け史観と呼ばれています。

 

 薩摩、長州藩士を中心とする尊皇攘夷派の志士たちが、幕府や佐幕勢力の

 弾圧に屈せず、戊辰戦争で見事に勝利し,討幕を成し遂げ

 日本は近代の扉を開き、今日の繁栄があるとする誠に美しい歴史叙述です。

 ほんとに歴史は勝者がつくる、、、、ものですね。

 

 勝者である薩長の志士と呼ばれる人たちは、どうやってこの誠に美しい

 歴史をつくったのでしょう、、、、

 私たち現代日本人ほど、自国の歴史を知らない民族というのも

 世界的にみて非常に珍しいのだそうです。

 学校教育で教えないということが、一番のガンです、ただ年号を暗記させるだけ

 これは国にとってはまことに都合がいい、、、

 中身なんかどうでもいい、ただ年号を暗記させるだけ 

 

 ★薩長史観

 

 さっきは日本の夜明け史観をみてきましたが、今度は薩長史観を見てみましょう。

 薩摩は鹿児島、長州は山口県です。

 これを略して薩長史観といいます。

 

 徳川幕府を倒し、明治政府を樹立した勢力の中心が薩長でした。

 幕府を倒し、新しい政府をつくるというこの一連の動きを明治維新と呼ぶ。

 これは革命でも世直しでもなく、ただの政治的な覇権争いです。

 

 世界の学者も明快に革命でも世直しでもない

 単なる覇権争いであったと否定しています。

 これを革命であったと美化してきた歴史観こそが、薩長史観です。

 

 明治新政府が誕生し、その後は、勝者である長州が政治的に支配する形で

 対外戦争に明け暮れる時代を経て、今日までの歴史を刻んできたのです。

 

 薩長史観とは、薩摩と長州からみた歴史観を言います。

 しかし令和となった今日でも、公教育で教える我が国の幕末以降の歴史は

 薩長史観によるものです。

 

 その薩長史観に従って、私たちは明治時代以降を近代と呼ぶように教育されてきた。

 明治新政府が誕生してからの日本の歴史は、すべてこの薩長史観によるものです。

 先に書いたあのまことに美しい歴史叙述もこの薩長史観からみたものです。

 

 それではこの薩長が、幕府を倒しまことに美しい歴史叙述を語るようになった

 明治維新なるものをこれから順を追ってみていくことにしましょう。

 

 ★突然の死から悲劇の始まり

 

 前回で日本人はみな尊皇攘夷派だったと書きました。

 日本人はみな尊皇攘夷派だったのが、やがて尊皇派と佐幕派の真っ二つに分かれ

 京の町は動乱に明け暮れていくのです。

 幕府側は尊皇佐幕、、、、、天皇を尊び幕府を補佐する人々

 薩長側は尊皇倒幕、、、、、天皇を尊び幕府を倒そうとする人々

 いつの間にか尊皇攘夷ではなくなっています、天皇を尊び外敵を追い払う。

 外敵を追い払う、、、、のはどうなってしまったのか、、、

 

 この外敵を追い払う尊皇攘夷は、実は明治維新という政権交代を薩長側が

 成し遂げるための一つの口実に過ぎません。

 

 ●幕末年譜

 

 慶応2年(1866) 12月5日    孝明天皇崩御

 慶応3年(1867)   10月14日   慶喜朝廷に大政奉還を奉請

         10月24日   慶喜朝廷に将軍職返上を奉請

         

 

 明治維新の始まりは、すべて孝明天皇崩御にあります。

 孝明天皇が崩御した時から、幕府は急速に衰退していきます。

 なぜなら孝明天皇は、薩長のような尊皇討幕派ではありません。

 不思議と思うかもしれないが孝明天皇は尊皇佐幕派です、、、

 つまり幕府を助ける側なのです、会津藩や新選組のように、、、、

 

 孝明天皇は確かに、外国嫌いでした。

 黒船でペリーがやって来た時、外国人を追い払ってほしいと幕府に指示しています。

 けれどもその幕府を倒そうなんてことは、微塵も考えたことはありません。

 なぜなら政治はすべて、幕府に任せていたからです。

 

 つまり朝廷には政権運用能力がないのです。

 幕府に代わって六十余州を運営する能力がないのです。

 政権担当能力はもちろん、その体制そのものが存在しなかったのです。

 

 案の定、慶喜の大政奉還後、わずか一週間で朝廷は外交に対し引き続き

 幕府に担当することを指示しています。

 そして諸外国への新潟開港の延期通告事務は、結局、幕府官僚が行いました。

 

 

 そんな幕府を孝明天皇が薩長と一緒になって、倒そう、討とうなんて

 考えるわけがない、、、、

 妹の和宮を家茂に降嫁させたのも、そんな思いがあって公武合体を望んだからです。

 朝廷と幕府は、助け合って協力していこう、、というのが孝明天皇でした。

 

 こんな孝明天皇がおわす限り、会津藩も新選組も安泰でした。

 ところが急遽、その孝明天皇が崩御した。

 そこから会津藩や新選組の悲劇が始まります。

 

 

 

 

 

こんにちわ、秋晴れのお天気が気持ちいいですね。

ウクライナに続き、今度はガザ地区への地上侵攻、、、

世の中、なかなか平和になりません。

 

日本も幕末のころは、勤王、佐幕が入り乱れて京の町は

暗殺が横行し、江戸市民は恐怖で外を歩くこともできなかったという。

ここで幕末年譜を見てみましょう。

 

 

● 幕末年譜 鳥羽伏見の戦いまで

 

 嘉永 6年(1853)   6月   ペリー率いる4隻の軍艦が浦賀沖にやって来た。

  安政元年(1854)     1月16日    ペリー再び来航

 安政元年(1854)   3月3日   日米和親条約を締結 、下田と函館が開港      

 

 

 安政5年(1858)     6月19日 日米修好通商条約締結 神奈川、新潟、兵庫、長崎開港

          9月7日  安政の大獄  

 

 万延元年(1860)   3月3日  桜田門外の変 井伊直弼暗殺される

         11月1日  皇女和宮降嫁を発表

 

 文久2年(1862)   閏8月1日 松平容保京都守護職

 

 文久3年(1863)       2 月          浪士組募集始まる。

         2月23日   浪士組入京 

         8月18日   8月18日の政変

         8月19日   七卿落ち 

 元治元年(1864)  6月5日   池田屋事件 

         7月19日  禁門の変

 

 慶応2年(1866) 12月5日  孝明天皇崩御

 

 慶応3年(1867) 10月14日 徳川慶喜朝廷に大政奉還

         12月9日  王政復古の大号令 

 

 慶応4年(1868) 鳥羽伏見の戦い 

 

 近藤一門の浪士組が京に入って来るまでの間には、ペリーが日本にやってきたり

 幕府がアメリカと条約を締結したり、安政の大獄があったり、桜田門外の変が

 起きたり、和宮の徳川家への降嫁があったり、会津藩主松平容保の京都守護職が

 決まり京へ入京して来たり、、、と様々なことが起きています。

 

 ★日本人はみな尊皇攘夷派なのになぜ内戦になった???

 

 幕末の京は、尊王攘夷だとか佐幕派だとかが、入り乱れて日々

 暗殺が横行する町でした。

 

 勤王派、、、、、、、、天皇に忠義を尽くす人たち

 佐幕派、、、、、、、、幕府を補佐する人たち

 尊皇攘夷派、、、、、、天皇を尊び外敵を退けようとする一派

 

 この尊皇攘夷派には、吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞などが

 いますが、このころ尊皇攘夷派といえば、日本全国の人たちは

 みな尊皇攘夷派です。

 

 何も吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞ばかりが尊皇攘夷派ではない。

 みんな尊皇攘夷派でした。

 新選組も会津藩の人たちもすべての人たちが

 みな天皇を尊び、外敵を退けようとするそういう思いをもっていました。

 みな同じ尊皇攘夷派、、、なのになぜ尊皇派、佐幕派に分かれて内戦になったのか

 

 

 

 ★内戦の原因を作ったペリーは何しに日本へやって来た???

 

 今日は日本が尊皇派と佐幕派に分かれて、内戦になった原因、ペリー来航から

 見ていきましょう。

 

  ペリーはアメリカ人、そのペリーは安政元年(1854)     1月16日に黒船を率いて

 日本にやってきます。

 何しにやって来たのかというと、日本に日米修好通商条約等の締結をするためです。

 翌年幕府は井上清直と岩瀬忠震に日本側全権として、署名させました。

 

 この岩瀬はその前にもロシアとの間に、日露和親条約を締結しています。

 また、水野忠徳はその後の日露交渉で川路聖諦を補佐するとともに

 日英修好通商条約を締結しました。

 また、日仏修好通商条約にも日本側全権として署名しています。

 

 ところで、水野忠徳という人は、現代の外務官僚などとは比べ物にならないほどの

 見識の深さ、東奔西走の行動力、外交モラルの高さがあります。

 アメリカのハリスと、英国のオールコック組んだ、米英連合を相手に

 壮絶な通貨交換比率交渉を展開し、鋭い知性で、ハリス、オールコックを

 たじたじとさせたという。

 

 黒船が来航して、その威力に屈して幕府はついに開国した、、、

 なんていううその学校教育を教える日本という国は、どうなっているんでしょう。

 そのころの日本は、今のようなアメリカの植民地でもアメリカの奴隷でもありません。

 言いたいことはきっちり言う、というまともな国でした。

 

 我が国がアメリカの奴隷、植民地となったのは第二次世界大戦で敗戦して

 GHQに占領されてからです。

 それから今日までずっとアメリカの奴隷、植民地を続けています。

 この国はいったいどうなっているんでしょうね。

 

 このように日本はペリーが来る前にも後にも、ロシアや英国、仏などとも

 修好通商条約を締結しているのです。

 ペリーが来たからと言って、大騒ぎしてパニックになった、、、というのは

 学校教育で教えられる真っ赤なウソです。

 

 

 

 他の国とは条約を結んでいるのに、なぜ今回のアメリカとだけはだめなのか。

 

 今回はアメリカだったが、別に他の国でもよかった、、、

 ただアメリカのペリーが来たから、アメリカということになっただけです。

 このペリーの締結したい条約を、幕府側は一度は拒否したがその後、締結します。

 

 この結んだ条約をめぐって、幕府側と薩長側でひと悶着がおこるのです。

 この条約は不平等条約だ、天皇の勅許を受けていない、、、、などと言って

 薩長側は幕府を責めます。

 

 

 

 最初にペリーが日本に来た時、4隻の黒船と一緒でした。

 江戸市民がみたこともない大きな黒船、、、、有名な黒船来襲です。

 そんな黒船4隻も率いて来たら、それは恐ろしかったことでしょう。

 

 けれどペリーが率いていた黒船の半分は、帆船です。

 サスケハナ、、、、、、蒸気外輪   3824トン

 ミシシッピ、、、、、、蒸気外輪   3220トン

 サラトガ、、、、、、、帆船     

 プリマス、、、、、、、帆船

 ペリーの黒船と言ったら、日本人が見たこともない大きな蒸気船というのが

 常識です、だから江戸幕府も江戸市民も大騒ぎになった、、、

 

 当時の西欧の外航船は防水、防腐のため甲版などにピッチを塗っており、

 その色から黒船と呼んだのです。

 蒸気船だろうと帆船だろうと、大砲などで武装していれば、それは軍艦です。

 

 ペリーがやって来た時、江戸市民も幕府もパニックにはなりませんでした。

 なぜならペリーがやって来る8年も前に、同じアメリカのビットル提督が

 軍艦2隻で浦賀に来航しているのです。

 弘化3年1846年に、、、、

 

 ビットルは日本が通商を行うかどうかの確認にきたのです。

 日本側は通商は国禁、外国との交渉は長崎のみというものでした。

 この感触を得て、アメリカは日本に軍事的圧力を加えてでも、条約を

 締結する方針を固め、ペリーは翌年もまた日本に来航したのです。

 

 その時、幕府はペリーがやって来る目的も、何を船に積んでいるのかも

 みんな知っていました。

 だから幕府も江戸市民も大騒ぎしたりパニックになんかなったりしていません。

 

 大きな黒船でペリーが日本にやって来た、、、、

 その恐ろしさで幕府も江戸市民もみんなパニックになった、、、、

 腰抜け幕府は外国と不平等な条約を、天皇の勅許も得ないで結んだ、、、

 もう落ぶれた幕府には、この国は任せておけない、、、、

 外国人を追い払うんだ、、、、

 そこから薩長は幕府を潰す計画を実行に移すのです。

 

 要するに薩長は幕府から政権を奪いたかっただけなのです。

 それがあの明治維新と呼ばれる政権交代、、、となるのです。

 あの明治維新は革命でもなんでもない、、、

 これは全世界が認めています。

 

 原田伊織著知ってはいけない明治維新の真実

 

 

 

 

 

 

 

 

  こんにちわ

 朝夕はなんだか急に寒くなりました。

 

 ★悲劇の集団

 

 今日は新選組なんて、ほとんどの方が知っていることなので

 そういうあらすじはサラッと流して、この先も進んでいきます。

 京都の人は、今でも新選組というと良くは言わないといいます。

 それはそうでしょう、ある日突然、いきなり入り込んできた他所者が

 集団で人斬りをやって回ったのだから、、、、

 

 やがて浪士組は会津藩お預かりということになったが、そのころはまだ身分は

 あいまいであったので、会津本陣では壬生浪人と言っていた。

 これが詰まって壬生浪と言ったが、京都人もまねて壬生浪と言い

 新選組と改まったあとも壬生浪と呼んでいた。

 その新選組ですが、、、

 

 新選組を暗殺集団、テロ組織なんて呼ぶのは、薩長の輩、、、

 本当の歴史を知っている人々は、悲劇の集団、、、と呼びます。

 

 ★新選組の末路は哀れ

 

 その中心となったのが、入京以来、壬生の八木源之丞方に止宿していた13人

 芹沢鴨、新見錦、野口健司、平山五郎、平間重助

 近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、藤堂平助、永倉新八、原田左之助

 

 約6年にわたる活躍の後、鳥羽伏見の戦いに敗れ、幕府軍艦にかろうじて

 乗り込むことができたのは土方、原田、永倉の3名だけ

 重傷の近藤、病重き沖田を含めてもわずか5名でした。

 

 隊内で粛清された芹沢、平山、藤堂

 切腹させられた山南、新見、野口、

 逃亡した平間

 戦死した井上 の合計8名は欠けている。

 

 さらに戊辰の役、終結のころまでに原田、近藤、沖田、土方と相次いで世を去り

 天寿を全うしたのは永倉ただ一人です。

 新選組の末路は哀れです。

 天寿を全うした永倉ただ一人になるまでの間に、この人たちが次々に死んで行くのですが

 今日はその一人、山南のことをみてみましょう。

 

 

 ★山南を追跡した日

 

 総司が山南を追跡した旧暦2月22日は、新暦にすると3月の末か4月のはじめ

 この日の天気「小梅日記」平凡社東洋文庫を見ると

 2月17日   天気良し

 2月18日   小天晴

 2月19日   寒し 天気良し 併しあられ降る、昼前すぐにあがる。

   

 2月21日   大に寒し 氷はり 一向寒し

 2月22日   今日小降

 2月23日   大に快晴

 2月24日   少し曇る

 2月25日   快晴

 

 となっていて、20日前後は寒い日が続いている。

 桜はこの年は3月10日に

 大に快晴 今日清明 今花盛りなり 、、、、と記載してあります。

 

 沖田総司が山南を追いかけた日は、春にしてはひどく寒い日でした。 

 寒いけれど雪は降っていませんでした。

 沖田総司が山南を追いかけた時、テレビや映画などで必ず雪が

 降っていたとされるが、あれはフィクションです。

 

 総司が馬で雪の中を追いかけるシーンは、ものすごくドラマティックですよね。

 本当なら、、、、

 

 ●小梅日記

 

 紀州和歌山の藩校学習塾の学長、川会梅所の妻で幕末から明治にかけて

 日常生活を克明に日記につけている。

 

 

 ●伊東甲子太郎が山南の切腹に関して詠んだ句

 

 🌸春風に吹き誘われて山桜  散りてぞ人に惜しまるるかな

 

 🌸吹く風にしぼまんよりも山桜  散りてあとなき花ぞいさまし

 

 🌸すめらぎの守りともなれ黒髪の  乱れたる世に死ぬる身なれば

 

 

 水の北  山の南や 春の月   (豊玉発句集)

 

 この句は土方歳三が、上洛前に実家に残した句です。

 この句は山南敬助への土方のメッセージだという。

 

 水の北    土方が踏みもみずの北、つまり仙台から上府してきた

 山の南や   山南は 

 春の月    春の月のような男だった

 

 しかし土方と山南は後に屈折する。

 

 

 この山南は土方や井上源三郎よりも早くから、この試衛館に転がり込み

 そのころもう、塾頭だった総司とともに近藤から試衛館を任されています。

 そして近藤の義父、周斎とともに3人で試衛館に暮らしています。

 勇は妻帯していたので二十騎町の方から、通いでした。

 

 山南は天然理心流ではなく、北辰一刀流

 近藤はこの名門のエリートを重用し、文久元年府中六所の宮で行われた

 勇の天然理心流四代目就任披露の野試合に、29歳の山南は赤軍東之方中軍戦士

 として記載され、沖田総司は太鼓役であった。

 この野試合の顔ぶれの中に、井上源三郎がいる。

 

 

 まだ、永倉、原田、藤堂の名は見当たらない。

 この後に試衛館の食客になったからです。

 

 

 翌年文久2年には、総司とともに小野路へ剣術教授に出張しています。

  穏やかな隠居老人、周斎と穏やかな山南と3人での試衛館での暮らしに

 総司の楽しい日々が想像できるようです。

 

 

 ●血塗られた日々

 

 しかしやがて土方や藤堂平助、原田左之助などがこの試衛館に加わり

 明けて文久3年、試衛館の一派は京都入りし新選組を名乗る。

 そして文久3年の7月ころ、岩木升屋という料亭に押し入った不逞浪士を

 山南がたたき斬った。

 

 そして松平容保より、八両の恩賞を受けた。

 この当時、隊士たちに会津藩より支給されていた月給は三両です。

 会津藩は山南の武功を破格なまでに評価したのです。

 

 血まみれのひどく欠損した山南の愛刀、赤心沖光はまるで魚拓のように

 鮮血に染まった押し型を取られて、武州へ送られました。

 これは今も小野路の小島資料館に残っています。

 

 小島資料館所蔵の原色のこのイラストは、異様なまでに暗さだけが香り立つ。

 親切者として壬生の町雀や子供たちに、好感をもって受け入れられた山南が

 志向したものは、こんなことよりも、はるかに穏健な手段だったろう。

 山南が敵とするのは、不逞浪士よりもはるかに大きな夷敵ではなかったか

      伊東成郎

 

 ●八木為三郎

 「あれは丑年(慶応元年)2月23日です。

  七つ時(午後4時ころ)山南さんが切腹すると知らせる人があり、急いで

  出かける父の後について門を出かかると、前の通りを目をつり上げて

  歯を食いしばって、大急ぎで通っていく女が目に入りました。

  

  この女は島原の天神で、明里といい山南のなじみの女で私どもも

  顔を知っていました。

  私は門の前に立ったまま見ていると、女は前川家の西の出窓の格子の所に

  走り寄って、とんとんたたきながら何かしきりに叫んでいました。

 

  山南さん、山南さんと叫ぶ明里の声に、格子の障子が内から開いて

  山南の顔が見えました。

  それはなんとも言えない淋しそうな眼をして、顔は真っ青でした。

 

 明里は泣き悲しむ様子で、格子につかまりながら別れを惜しみ

 山南も格子によせて何か言い残しているようすでした。

 20、、、30分もそうしているうちに、中の障子はすーと閉まってしまいました。

 明里も人が来て連れ去られました。

 

 私は二人の姿が見えなくなった西窓を立ち尽くしたまま見つめていましたが

 日が暮れてもとうとう障子の向こうに、明かりは灯りませんでした。

 そこへ父が前川方からやって来て、

 

 「山南さんはもう、切腹してしまわれた。

  あすこの部屋だったそうだ」

 と言いました。

 

 山南酸の葬式は、翌日でお棺は駕籠で送られました。

 一般の人の見送りもあり、組の人や壬生界隈の人たちにも評判が

 よかっただけに本当に惜しまれました。」

 

 としみじみ語った。

 

 現在前川邸の旧跡に住む田野十ニ雄氏は

 「すでに建築後180年近い本屋(ほんおく)は、玄関の改修と台所部分の撤去の

  ほかは態を留めているが、本屋の中之間西側にある押入れの右おくにあたる

  位置に坊城通に向かって出格子窓があり、山南はここで明里に別れを告げ

  中之間で沖田の介錯で切腹した」という。

  

  山南の遺骸は壬生光縁寺に運ばれ、土葬に付された。

  この寺は山南の家紋と同じ、丸に立ち葵

  山南は存命中、何度かこの寺を訪れている。

 

 刻名された墓石は往時のまま、、、、

 ここには山南をはじめ、新選組隊士20余名が埋葬されている。

 

 ●住職 歓誉師

 

 「すでに隊士の墓石には、剥落が始まっていますが、新たに墓石を再建するような

  考えはありません。

  この墓石は、幕末に新選組が建てた貴重な遺産です。

  それに当時の墓地内に、彼らは確かに埋葬され訪れる皆さんに

  拝んでいただいているのですから、たとえいずれ墓石が朽ちても

  新選組隊士たちは、永久に当寺に脈打っておりましょう」