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毎日気になる最新のニュースをチェツクします。

★失敗に終わった明治維新

 

 

 討幕派の薩長は、王政復古の大号令を出しました。

 しかし、慶喜は黙っていない、反転攻勢に出ます。

 12月16日、大阪城に米英仏蘭、プロシャ、イタリア6か国の公使を招集し

 内政不干渉と徳川幕府の外交保持を承認させたのです。

 

 そしてさらに3日後には、王政復古の大号令の撤回を要求したのです。

 王政復古の大号令を発したのは、もともと薩長、朝廷は徳川政権による

 大政委任の継続を承認します。

 つまり徳川幕藩体制は、維持されることになりました。。

 

 つまり薩長の明治維新は、失敗に終わったのです。

 

 学校教育でも、きちんと事実を教えなければいけません。

 明治維新は成功したのではなく、失敗に終わったと、、、、

 

 

 さらにさらに小御所会議で決定した辞官納地も骨抜きにしました。

 慶喜は朝廷からの辞官納地の論書(さとしょ)に対する返書を出します。

 ●その内容

 

 一 徳川慶喜の内大臣辞任を認める。

 一 徳川慶喜が最高執権者として、諸大名会議を主宰する。

 一 諸大名会議で朝廷へ献上する費用の分担割合を取りまとめる。

 

 薩長は討幕の密勅を偽造したが、慶喜に大政奉還という先手をうたれた。

 その後、王政復古の大号令を発したものの、再び慶喜の反撃にあって

 王政復古の大号令は骨抜きにされてしまいました。

 

 さすが政権を長くやって来ただけあって、すごいです。

 薩長はこういうことには疎くて、とても慶喜には及びません。

 

 

 ★ここから始まる天下の奪い合い

 

 明治維新が完全に失敗に終わった薩長は、最後の手段に出ます。

 薩長にとって残されたものはただ一つ、武力で相手を潰すことだけでした。

 そして幕府を潰すために、赤報隊が生まれたわけです。

 

 何が何でも幕府の息の根を止めるために、天下を徳川から奪うために

 起こったのが戊辰戦争です。

 明治維新が事実、成功していたなら戊辰戦争は起こらなかったわけです。

 明治維新が失敗に終わったからこそ、戊辰戦争が起こったのです。

 そして戊辰戦争の引き金となったのが、薩摩藩邸焼き討ちです。

 

 この薩摩藩邸焼き討ちだけでは収まらない慶喜は、「討薩表」を

 朝廷に提出することを決意します。

 

 

 ●討薩表

 

 一、国政は衆議によって決するという仰せにも関わらず、12月9日の変革を

   口実として、幼帝を侮り薩長の私意を主張

 

 一、私意をもって御親政をろう断

 

 一、九門警備にしゃ口して、他藩を扇動、兵威をもって朝廷に対し不敬を働き

 

 一、薩摩の家来、浪人と共謀の上、江戸市中  

   押し込み、強盗を働き庄内藩屯所に対し発砲せし罪状

   その他の諸悪の罪状明らかである。

 

  これら諸罪状は、すべて薩摩藩の陰謀より発したることは天下の知る所である。

  天人ともに憎む所業にて、かかる奸臣、お引渡し願いたく、もしお聞き入れ

  なきときは誅伐申すべく奉文奉る。

 

 しかし慶喜が薩長に対して反撃に出たのはここまで、、、

 戦いが始まってからは、ただ部下を捨て逃げ惑い、まるで戦う意志もなく

 引きこもってただただ恭順のみ、、、、

 哀れなのは部下と、命をかけて戦った新選組、京都見回り組と会津藩

   

 ●戊辰戦争の初戦、鳥羽伏見の戦い

 

 戊辰戦争とは慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いから、上野戦争、越後戦争

 会津戊辰戦争と続き、明治2年5月の函館戦争で終了する内戦です。

 この内戦で薩長はやっと天下を取ることができたのです。

 

 ここから薩長の歴史史観なるものが作られ、あのテロリスト集団が

 志士と呼ばれるようになり、テロリストの主導者たちは英雄などと

 呼ばれるようになっていったのです。

 なにしろ天下を取ったので、やりたい放題、好き放題で歴史も

 自分たちに都合よく書き換えることができる。

 

 悪者はいつの間にか正義になり、正義者はいつの間にか悪者にされた。

 学校教育はそのように教えこまれて、今日に至ります。

 

 大政奉還は時の流れで、しかたなかったのかもしれない。

 しかし、あのような謀略で倒幕迫るのは許しがたい。

 

 ★鳥羽伏見の戦いの前夜

 

 西本願寺から伏見の警備上、新選組は伏見奉行所に転陣

 鳥羽伏見の戦いが勃発するまで

 どのような日々を送っていたのでしょう。

 新選組が伏見に入ったのは、12月16日、今にも戦争が起こるのではないかと

 町はパニック状態でした。

 

 

 

 町人の中には、荷物をまとめて田舎に運び出す者もいたという。

 こんな中にも穏やかなエピソードもあります。

 移転した直後のある日、近藤勇は町内の風呂屋に行ったという。

 そこで薩摩の肥田景之という藩士に目撃された。

 

 ところが別に何もない。

 騒動がおきたわけでもないし、肥田は時々出会うことがあったと

 平然としていたという。(史談会速記録)

 新選組が伏見に入っても、薩摩は意外とのんびりしていたようです。

 

 伏見に入って2日後に近藤は肩に銃撃を受けるから、風呂屋で

 肥田に出会ったのはその前日でしょうか。

 

 近藤は京都から伏見に戻る途中、藤森神社あたりで銃撃される。

 伏見には薩摩藩邸がある、銃撃した篠原泰之進らはそこにひそんでいた。

 負傷した近藤に代わって、土方が鳥羽伏見の戦いで指揮をとる。

 

 

 また、21日の雪の降る晩のこと、薩摩と新選組の口論が始まった。

 薩摩兵3百が大砲と小銃を構えて、伏見奉行所に押し寄せた。

 緊迫したが 町奉行の田宮如雲の説得によって、薩摩兵は23日に引き上げた。

                  (肥後藩国事史料 )

 

 その後も小競り合いがあったものらしく、こうした状況を見かねて中立的

 立場にあった尾張藩は25日に、新選組が伏見から撤収するよう使者を出した。

 土方はその時、自分の一存で撤収することはできないと、突っぱねたという。

                     (慶応三年雑記録)

 

 鳥羽伏見戦いの前夜、慶応3年はこうして終わった、、、、

 

 ★鳥羽伏見戦いはこうして始まった

 

 

 慶応4年正月3日、この日、大阪は寒風が吹き荒れていた。

 午後になると強風は疾風に変わった。

 幕府、会津は風下の不利な戦いになる。

 

 そのころ北上した幕府軍は、鳥羽伏見の両街道を進軍していた。

 幕府陸軍、会津、桑名、高松、松山、大垣など約1万

 対する京都の兵力は約5千 、圧倒的に幕府軍が有利である。

 幕府最先鋒隊は上鳥羽赤池へ達した。

 

 ここで薩摩5番隊に阻止された。

 討薩表を掲げた滝川具挙が、道をあけよと申し出たが、あけよあけないの

 押し問答になった。

 滝川は焦っていた、一刻も早く入京して朝廷に討薩表を奉呈しなければならない。

 朝廷がそれを受理し、討薩の勅命を幕府に下せば正義は我にある。

 こんなところで手間取っている暇はなかった。

 

 

 

 京都の薩長が勝つためには、幕府、会津藩を京都の入り口で破るしかない。

 「全力を挙げて入京を阻止せよ」

 西郷は全軍に下知している。

 

 幕府軍の隊形は、先方の滝川の周辺に京都見回り組、その後ろに幕府歩兵

 さらに砲兵と続く、、、

 

 

 この時、どうしたわけか幕府軍の歩兵も砲兵も戦闘隊形を取っていない。

 ただぼんやりと交渉を見守っているのだ。

 夕刻に至って交渉は決裂、、、、

 滝川は京都見回り組に、強硬突破を命じた。

 

 相手は少人数、力で押し通れと前進を始めた。

 未だ昔日の幕威と大軍勢に相手をなめていたのだ。

 相手は臨戦態勢で牙をむいて待ち構えていた。

 そこへ羊のようにのんびりと行進を始めた。

 

 幕府の重臣は誰一人、薩長が本気で戦うとは考えていなかった。

 慶喜が大砲を擁して上京すれば、無抵抗で通過させるだろうと

 思いあがっていたのだ。

 

 その時、突然薩摩兵のラッパが鳴り大砲が火を噴いた。

 鳥羽伏見の戦いはこうして始まった。

 

 勝敗は一瞬にして決まった。

 滝川の馬は狂奔し、滝川を街道に振り落とした。

 滝川は仰天し、馬を拾うや味方の兵を蹴散らして逃げだした。

 

 後続の幕府歩兵は、小銃や背嚢を投げ出して退却する。

 

 この鳥羽伏見の戦いで活躍した幕軍は、新選組と会津別選隊と

 京都見回り組だけです。

 この敗戦の原因は、洋式装備の立ち遅れ、指揮官に人を得ず

 作戦、戦略の劣悪など、、、

 

 徒らに大砲を誇るのみで、烏合の衆にすぎない。

 原因はいろいろあるが、最大の責めは大阪城に閉じこもったままの

 慶喜にある。

 

 これまでの戦闘で本気になって戦ったのは、会津藩、新選組、見回り組だけ。

 幕府の主力は大阪城に閉じこもったまま、、、

 こんな幕府のために命をかけて戦うのは、ばからしいと徳川寄りの諸藩も

 こぞって官軍についてしまった。

 

 彼らが慶喜の下、一丸となって戦えば、兵力は圧倒的有利、大阪城は秀吉が築いた

 強化に強化を重ねた金城鉄壁である。

 慶喜も薩長が武力攻撃に出るまでは、あの手この手で明治維新を阻止してきたが

 武力に出られてからは、まるで戦う意思のないおまけに部下を捨てるという

 前代未聞の失態を演じた人物でもある。

 徳川幕府が終焉を迎えたのも当然といえる。

 

★哀れ赤報隊の末路

 

薩摩藩邸焼き討ちの知らせを受けた時、西郷隆盛は京にいて

手を打って喜んだと伝わる。

自分が送り込んだ赤報隊の、江戸市中での無差別テロの

挑発についに幕府が乗ったのです。

 

挑発に成功した相楽総三らの赤報隊は、討幕の一部隊として組織され

薩長討幕軍の先鋒を務めることになります。

しかし、今まで二百余年の長きにわたった徳川幕府への江戸市民の

思いは強く、ある日突然、薩長の集団がやって来たからといっても

そうそう受け入れられるものではない。

 

そこで西郷隆盛ら主導者たちは、赤報隊に年貢半減をアピールしながら

進軍させたのです。

討幕軍は年貢を半分にすると公約して、民衆の心を引き寄せながら

東へ東へと進んだのです。

 

このころ各地で一揆が頻発しており、これを世直し一揆という。

そういうなか、赤報隊の掲げる年貢半減は大いに受け

薩長討幕軍の進行を大いに助けたのです。

 

ところが薩長の中枢は、その東進がほぼ終わる頃、この年貢半減を取り消す。

赤報隊が勝手に触れ回ったものとして、赤報隊を追討したのです。

そして相楽総三以下、赤報隊の一番隊は慶応4年3月下諏訪にて処刑されました。

 

 

御衛士が中核となっていた二番隊は、京へ戻され新政府軍に編入されました。

三番隊は桑名で処刑されました。

つまり赤報隊は、薩長、岩倉たちに利用され、使い捨てにされただけでした。

 

年貢半減は東進をスムーズにするため、最初から使い捨てにする心算の

赤報隊に行わせ、用が済むと早速赤報隊を抹殺した。

西郷たちは後々、江戸での蛮行の痕跡を残さないため端から

赤報隊を抹殺したのです。

 

相楽が処刑されると、知らせを受けた相楽の妻は、後を追って自害しています。

 

★転落の始まり 大政奉還

 

 ところで幕末のあの時期、突然慶喜は大政奉還しています。

 大政奉還とは、今まで徳川幕府が政権を担ってきたが、それを朝廷に

 返すということですが、なぜでしょうか。

 

 それは討幕の密勅が出たと慶喜が知ったからです。

 

 これは明治天皇の密勅ではなく、薩長が作成した偽の密勅です。

 大西郷全集    策謀の張本人は公家の岩倉具視としている。

 京都守護職始末  中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の3人が密勅を

          薩摩、長州に下したと記述している。

 その密勅の中身をみてみましょう。

 

  ●討幕の密勅の中身

 

 「詔(みことのり)す、源慶喜、累世の威をかり

  こう賊の強を恃み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を拒絶し

  ついには先帝の詔を矯めておそれず、万民を溝がくにおとして顧みず

  罪悪の至ところ、、、

  神州まさに傾覆せんとす、、、、

  朕、いま民の父母として、この賊にして討たずんば、なにをもって

  上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いんや、これ憂憤のあるところ。

  諒闇も顧みざるは万やむべからざるなり。

  汝よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜をてんりくし、もって速やかに

  回天の偉勲を奉じて精霊を山岳の安きに置くべし。

  この朕の願い、あえて懈ことなかれ。」

             正二位   藤原忠能

             正二位   藤原実愛

             権中納言  藤原経之

                  慶応三年十三日奉

 

 つまり徳川慶喜は、会津藩や新選組を使って、みだりに勤王の志士を殺害し

 万民を苦しみの谷間に突き落とし、その罪は国を亡ぼすものだから

 朕はやむを得ず、賊臣慶喜を始末する、、、というもの。

 要するに天皇が、賊臣慶喜を討てという命令を出したというわけです。

 

 後年、正親町三条実愛は 

 「あれは玉松操という人物が書いたもので、ここに名前のある三人と

  岩倉具視の四人しか知らないことだ」

 と暴露しています。

 

 

 ★犯罪の証拠物件、討幕の密勅

 

 偽の討幕の密勅を作成したのは、岩倉具視や大久保一蔵です。

 これは天皇摂政の署名もなければ、花押もないというあっぱれな偽ものです。

 日本史に例をみない犯罪の証拠物件です。

 これをぜひとも見たいという方は、宝島社 原田監修、別冊宝島2368に

 偽造された天皇の密勅の写真が載っています。

 

 岩倉や大久保らにとっては、天皇の存在なんてものはいかに軽かったか。

 幼い天皇を人質にとるわ、偽の密勅を作るわ、偽の錦の御旗を作るわ、、、

 これら歴史的大罪が国家に対して、いかに無責任極まる大罪であったか、、、

 

 そういう連中が後に明治新政府を名乗り、国民をあの悲惨極まる戦争へと導く。

 

 

「朝廷に政権を返上したところで、明治天皇はまだ幼い。

  政治をやれる人間は、幕府をおいて他にない。

  結局、従来通り政治は幕府に委任されるのだ。

  こう考えて慶喜は、土佐藩がセットしたテーブルについたのだ」

     (昔夢会筆記)

 

 

 そして慶応3年10月13日、在京50藩の代表を二条城に集めた。

  大広間で板倉勝静が、大政奉還を示すとどよめきが起こった。

 

 「我が皇国、政権が武門に移り、さらに徳川家に至って二百余年

  われわれその職を奉じてきたが、今日の形成に至り慚愧に堪えない。

  そこで政権を朝廷に帰し、広く天下の公儀を尽くし、聖断を仰ぎ

  同心協力して共に皇国を保護し、必ずや外国と並び立つ 国家にしたいと考えた。

  諸君に忌憚のない意見を求める。」

         と板倉は説明した。

     

 

 

 薩摩藩の小松帯刀は、こう述べた。

 「ご政権を返上あそばされても、ただ今の朝廷には大政をとることはできがたく候わん。

  いずれにせよ、諸大名を召されとくと存意をおたずねあるべき。 

  それまでの間は外国事務、国家の大事件は朝廷の御評議によって決行し

  その他は従来のごとく、御委任を賜ることと存ずる」

  

 

 これなら慶喜の地位はそれほど変わらない。

 ここに武力ではなく、平和裏に政権が朝廷に返上されました。

 慶喜は笑みを浮かべた、これで薩長が幕府を攻めてくることはない。

 

 翌日14日、慶喜は、松平定敬を連れて参内し、大政奉還を奉上した。

 これでこの時、この瞬間から慶喜は、将軍ではなくなりました。

 反幕府勢力の薩長の願い通り、慶喜は政権を返上した。

 血も流さず、平和裏に何事もなく徳川政権は朝廷に返上されたのです。

 

 これで何も起こらなければ、めでたしめでたしとなるのですが

 これでは相変わらず、徳川の政治が続く何事も変わらない、、、

 これに業を煮やした薩長は次の手を打ちます。

 

 それが王政復古の大号令です。

 

 ★王政復古の大号令とは何を号令したのか

 

 慶喜が大政奉還しても、情勢が相変わらず不利だと知った討幕派は

 王政復古の大号令を発します。

 それは15歳になったばかりの天皇を手中に収めて決行された。

 

 これを主導したのは、西郷隆盛と大久保利通です。

 彼らは公家の岩倉と協力しつつ、王政復古の大号令を発する準備を進めた。

 1867年12月8日、岩倉は自邸に薩摩、尾張、越前、土佐、安芸の代表を招き

 王政復古を断行することを伝達し5藩の協力を求めた。

 

 明けて12月9日、朝議を終えて摂政以下の上級公家が、退出したのを見計らって

 5藩の藩兵が御所九門を封鎖、公家衆の参内を阻止したうえで、岩倉が参内

 15歳の明治天皇を臨席させ、王政復古の大号令を発したのです。

 

 これにより公武合体論などがはらんでいた、また慶喜が意図した徳川主体の

 新政府の芽は完全に抹殺されたのです。

 大号令が発せられると、京都守護職も京都所司代も廃止された。

 これにより新選組も直属の上司を失うことになった。

 

 ★小御所会議という討幕の原点 短刀一本あれば片が付く

 

 その日の夜、小御所会議が開かれた。

 この会議は御所内の小御所で開かれたので、小御所会議と呼ばれます。

 この会議は新政府の薩長を主体とする討幕派と、山内容堂を主体とする

 佐幕派の対立した初の会議です。

 

 出席者は明治天皇、皇族、公卿

 その他、元播磨藩主徳川慶勝、前越前福井藩主松平春嶽、前土佐藩主山内容堂

 薩摩藩主島津茂久、安芸広島藩世子 浅野茂勲の5名だが

 その他薩摩藩士 大久保一蔵、土佐藩士 後藤象二郎、安芸広島藩士 辻将曹

 たちが陪席を許された。

 

 この時、西郷隆盛は外で警備を担当していました。

 

 この会議では、山内容堂と岩倉具視の対立でもめた。

 山内は尊皇佐幕、岩倉は討幕派です。

 山内は慶喜に大政奉還を提案し、慶喜の地位を保証した人物です。

 山内はこの会議は慶喜が出席することを拒んだ会議であると非難した。

 

 さらに今回の会議に至る事態を、幼い天皇を担いだ権力を私しょうとする

 陰謀であると断罪したのです。

 この時、容堂は「幼沖なる天子、、、、」という表現をしたとされる。

 岩倉はここをとらえて、幼沖なる天子とはなにごとか、と反攻に出た。

 

 さらに岩倉は何も閣議決定していない段階で、慶喜が辞官納地を行って

 誠意を見せることが先決であるという主張を繰り返した。

 これまで大政を委任されてきた徳川幕府将軍に対して、辞官納地を求めるならば

 慶喜を会議に参加させるのが筋というものでしょう。

 そして慶喜に対して、直接口で伝えればいい、、、

 それもさせずにただただ辞官納地を主張。

 

 大久保とともに陪席を許されていた薩摩がこの経緯を、警備の西郷に伝えた。

 その時西郷はこうもらしたという。

 短刀一本あれば片が付く、、、、

 

 この一言が岩倉の耳に入った

 岩倉はこれを浅野茂勲に伝える、岩倉の決意を知った広島藩はこれを

 辻将曹が、後藤象二郎に伝えた。

 後藤は山内容堂と松平春嶽に伝えたとされる。

 

 西郷という男は、赤報隊をみてもわかるように非常に冷酷でいざとなれば王座を

 血で汚してでも短刀一本でけりをつけろという、そういう男です。

 

 これに危険を感じた容堂は、結局慶喜に辞官納地を求めるつまり

 官位と所領を没収することに反対せずに決議したのです。

 薩摩の末端、下級武士であった西郷隆盛という男が、国家の行く末を決する

 小御所会議の方向を左右したのです。

 

 ●王政復古の大号令

 

 ●慶喜に将軍職辞職を勅許する

 ●京都守護職、京都所司代を廃止する

 ●摂政、関白を廃止する

 ●新たに総裁、議定、参与の三職を設置する

 

 

 

こんにちわ

今年ももうあと2か月、早いですね。

今日も行ってみましょう。

 

★天誅を叫ぶ狂気の集団

 

 孝明天皇崩御から、会津藩と新選組の悲劇が始まる。

 孝明天皇が崩御したのは、慶応2年12月5日、天皇の死因は毒殺説と病死説が

 あるが薩長側が政権を取ったせいか、この点はぼやかされてはっきりしないまま

 今に伝わっています。

 

 ただちょうど薩長の都合のいい時期に、天皇が崩御したということは

 薩長側にとって最大の目的である討幕の、最大の障壁が消滅したということです。

 孝明天皇おわす限り、討幕はできない、、、、

 その天皇が崩御した、、、、、

 

 会津藩と新選組が京都に来たのは、京の動乱を鎮めるためです。

 会津藩と新選組が京に入ったとき、京の町は暗殺、略奪、強姦、放火が

 横行する恐怖の町でした。

 

 なぜこんなことになっていたのかというと、討幕を実行するために

 薩長の指導者たちが続々と京に集まって来ていて、そこで浪士たちを募り

 その浪士たちに、暗殺、略奪、強姦、放火、強殺をやらせたからです。

 

 なぜそんなことをさせたのかというと、目的は討幕のためです。

 江戸幕府を討つ、崩壊させるためです。

 なぜ幕府を討たなければならないのか、、、政権交代が目的です。

 徳川幕府から薩長政権、つまり明治新政府を誕生させるのが目的です。

 

 そのために、黒船来航を口実に使ったのです。

 黒船は外国船です、尊皇攘夷とは天皇を尊び、外敵を打ち払う、、、、こと。

 薩長が集めた浪士たちに、右を向いても左を向いても、攘夷、攘夷と叫びさせ

 外敵を打ち払おう、、、、と攘夷運動を展開させたのです。

 

 尊皇攘夷運動、、、政治をいにしえの王政に戻し、徳川家を諸藩なみに

          引きずり落とすことを目的とした運動

 

 挙句に暗殺、略奪、強姦、放火、強殺をやらせ、京の町を恐怖に陥れた。

 そして幕府は、黒船が来たことで、アメリカと条約を結びましたが

 この条約は天皇の勅許を受けていない、不平等条約だと言って

 薩長は幕府は、腰抜けだ、許せない、こんな幕府は潰してしまおうと

 攘夷運動を展開したのです。

 

 この攘夷運動を展開させ、暗殺、略奪、強姦、放火、強殺を浪士たちにやらせた

 薩長の主導者たちは、後に幕末のヒーロー、志士などと呼ばれるようになります。

 その名前もきら星のごとく、、、、

 薩摩の西郷隆盛、大久保利通

 長州の高杉晋作、伊藤博文、桂小五郎、山縣有朋などなど

 

● 赤報隊

 西郷隆盛は、岩倉具視の了承を得て、テロ部隊、赤報隊を組織した。

 この部隊は一番隊から三番隊までありました。

 一番隊、、、、、相楽総三を隊長とする相楽の昔からの同志たちが

         中核をなす部隊で、赤報隊の中心です。

 

 二番隊、、、、、新選組を離脱した御陵衛士が中核をなしていた。

         御陵衛士たちはこんなところに、生きていたんですね。

 

 三番隊、、、、、近江出身者が中心、主に水口藩士

 

 この赤報隊が正式に組織されたのは、慶応4年です。

 その長、西郷隆盛は隊長の相楽たちに、江戸で旗本、御家人などの幕臣や

 佐幕派諸藩を挑発することを命じたのです。

 つまり、暗殺、略奪、強姦、放火、強殺をやらせたのです。

 

 そして赤報隊の面々は、蛮行を繰り返し、毎夜のように徒党を組んで

 江戸の商家に押し入る。

 日本橋の公儀御用達、播磨屋、蔵前の札差伊勢屋、本郷の老舗、高崎屋といった

 大店が次々とやられ、家人などが惨殺された。

 そして必ず三田の薩摩藩邸に逃げ込む、逃げ込めば捕まえられない。

  しかし西郷は用が済むと、冷酷に赤報隊を抹殺しました。

 あとにテロの痕跡を残さない、、、、ために。

 

 江戸の市民はこの連中を御用盗と呼んで怖れ、夜の江戸市中から人が消えた。

 

●奇兵隊 

 

 奇兵隊といえば高杉晋作ですね。

 この高杉晋作の奇兵隊も、赤報隊と同じくテロ集団です。

 隊士たちは、百姓はもちろん犯罪者、元犯罪者など宗門人別改帳から外された

 暴れ者が多かった。

 

 宗門人別改帳とは、民衆調査のための台長

 この台長から外された戸籍のないやくざのようなもの。

 

 奇兵隊は入隊しても、犯罪を犯すものが多く、高杉は「盗みをなす者は殺す」という

 ふれを出しています。 

 こういうふれを出さざるを得なかった集団が奇兵隊です。

 

 山縣有朋が、会津戦争に向けて、率いていた長州第一軍の主力が奇兵隊でした。

 会津戦争において、会津城下で繰り広げられた、戦争犯罪ともいうべき蛮行は

 あまりにも有名ですが、それがこのならず者集団であったなら、あり得るでしょう。

 

 討幕の為、京に集まったテロの主導者たちは、西郷隆盛、高杉晋作、桂小五郎

 吉田松陰、山縣有朋、伊藤博文、大久保利通、、、、、

 彼らが赤報隊や奇兵隊、その他、浪士たちにやらせたテロは、それは酷いものです。

 

 テロとは、、、、自分たちの考えを認めさせるため、物を壊したり、人を傷つけたり

         殺したりして人々を怖がらせること。

         政治的な目的を達成するため、暴力及び暴力による脅迫を用いること。

 

 ★天誅という狂気

 

 

 それでは、京に集まった薩長の主導者たちが、浪士たちにやらせたテロを見てみましょう。

 しかしこれらはまだほんの一部です。

 ●慶喜に近い、関白九条尚忠の執事、島田左近を暗殺

 ●島田左近の同僚、宇野重固も暗殺された。

 ●彦根藩ゆかりの者の暗殺、長野主膳の家族など

 ●同じく彦根藩ゆかりの村山可寿江の生きさらし

 ●京都奉行所与力やその配下の暗殺

 ●幕府に協力的と見た、商人への略奪、放火、無差別殺人

 ●佐幕派とみた公家の家臣たちの暗殺、あまりに多数で公家に対する脅し

 ●学者の暗殺、池内大学など

 ●その他、仲間内ではくをつけるための無差別殺人

 

 これらのテロを行ったのは、薩摩、土佐なども含まれるが中心は長州です。

 これらのやり口は、非常に凄惨で首と胴体、手首などをバラバラにし

 それぞれ別々に公家の屋敷に届けたり、門前に掲げたり投げ入れたりした。

 

 上洛していた一橋慶喜、のちの徳川慶喜が宿泊する東本願寺の門前に

 投げ捨てたり、投げ入れたりしました。

 そして単に惨殺するにとどまらず、その首は難波橋にさらされました。

 さらに耳を切り取り、中山忠能の邸に辞職を求める脅迫文をつけて投げ入れた。

 

 町奉行所、賀川肇の場合は、テロリストの集団に押し入れられて惨殺された。

 そして賀川の腕を斬って、公家の邸に投げ入れ、首は慶喜の宿所に投げ入れた。

 また、与力配下の目明しの場合、肛門から竹を突き通し、脳まで貫いて

 絶命させたうえ、そのままの姿で市中にさらしました。

 

 仲間内ではくをつけるための、無差別殺人はその残酷さにおいて

 後世のやくざの比ではありません。

 この許しがたい行為は、伊藤俊輔、のちの伊藤博文も手を染めています。

 彼らはこれらの行為を天誅、、、と称しました。

 天の裁き、、、だというのです。

 もうただただ狂気だと断じるしかありません。

 

 これらの許しがたい行為は、ただただ徳川から政権を奪うという

 ただそれだけのために行ったのです。

 これらの残虐なテロが燃え上がった、文久2年という年、後に

 志士となりヒーローとなった薩長の若造たちの年齢は

 桂小五郎     29歳

 高杉晋作     23歳

 久坂玄瑞     22歳

 吉田稔駿     21歳です。

 

 未熟さ、若さそれはいつの時代においても残酷さを秘めています。

 

 文久2年以前から、テロは激しくなっていましたが、この年からテロは

 さらに激しさを増していったのです。

 そしてこの年の年末に、京都をテロから守るため京都守護職が置かれたのです。

 その若き会津藩主は松平容保、そのとき容保もまた薩長のテロリストたちと同じ

 満26歳という若さでした。

 

 ●京都守護職

 

 京都守護職とは何か、徳川慶喜は次のように述べています。

 「浪士だの藩士だのが、大勢京都に集まって、なかでも長州だの

  薩摩とか所司代の力で抑えることができかねる。

  そこで守護職というのができたんだ。

  兵力のあるものをあそこへ置こうということで、会津になった」

              (昔夢会津記 平凡社)

 

 その配下についたのが、新選組です。

 

 

 ★薩摩藩邸焼き討ち

 

 京都守護職、松平容保を支える会津の武士と新選組の前に立ちはだかったのが

 あのテロ集団の連中です。

 西郷隆盛、大久保利通、木戸孝充、高杉晋作、坂本龍馬に公家の岩倉具視らです。

 

 テロは江戸だけでなく、野州、相模、甲州にまで拡大していった。

 そしてついに慶応3年12月22日の夜、テロ集団は庄内藩屯所を襲撃するに至る。

 さらに翌日には、江戸城二の丸で放火が発生

 これも赤報隊の仕業とされている。

 ここにきて、耐えに耐えてきた幕府と庄内藩は、堪忍袋の緒が切れる。

 

 老中、稲葉正邦は幕府軍を編成して、薩摩藩邸への攻撃を命じる。

 12月25日幕府軍は三田の薩摩藩邸を包囲、砲撃した。

 これが薩摩藩邸焼き討ちです。

 これが戊辰戦争への引き金となりました。