★失敗に終わった明治維新
討幕派の薩長は、王政復古の大号令を出しました。
しかし、慶喜は黙っていない、反転攻勢に出ます。
12月16日、大阪城に米英仏蘭、プロシャ、イタリア6か国の公使を招集し
内政不干渉と徳川幕府の外交保持を承認させたのです。
そしてさらに3日後には、王政復古の大号令の撤回を要求したのです。
王政復古の大号令を発したのは、もともと薩長、朝廷は徳川政権による
大政委任の継続を承認します。
つまり徳川幕藩体制は、維持されることになりました。。
つまり薩長の明治維新は、失敗に終わったのです。
学校教育でも、きちんと事実を教えなければいけません。
明治維新は成功したのではなく、失敗に終わったと、、、、
さらにさらに小御所会議で決定した辞官納地も骨抜きにしました。
慶喜は朝廷からの辞官納地の論書(さとしょ)に対する返書を出します。
●その内容
一 徳川慶喜の内大臣辞任を認める。
一 徳川慶喜が最高執権者として、諸大名会議を主宰する。
一 諸大名会議で朝廷へ献上する費用の分担割合を取りまとめる。
薩長は討幕の密勅を偽造したが、慶喜に大政奉還という先手をうたれた。
その後、王政復古の大号令を発したものの、再び慶喜の反撃にあって
王政復古の大号令は骨抜きにされてしまいました。
さすが政権を長くやって来ただけあって、すごいです。
薩長はこういうことには疎くて、とても慶喜には及びません。
★ここから始まる天下の奪い合い
明治維新が完全に失敗に終わった薩長は、最後の手段に出ます。
薩長にとって残されたものはただ一つ、武力で相手を潰すことだけでした。
そして幕府を潰すために、赤報隊が生まれたわけです。
何が何でも幕府の息の根を止めるために、天下を徳川から奪うために
起こったのが戊辰戦争です。
明治維新が事実、成功していたなら戊辰戦争は起こらなかったわけです。
明治維新が失敗に終わったからこそ、戊辰戦争が起こったのです。
そして戊辰戦争の引き金となったのが、薩摩藩邸焼き討ちです。
この薩摩藩邸焼き討ちだけでは収まらない慶喜は、「討薩表」を
朝廷に提出することを決意します。
●討薩表
一、国政は衆議によって決するという仰せにも関わらず、12月9日の変革を
口実として、幼帝を侮り薩長の私意を主張
一、私意をもって御親政をろう断
一、九門警備にしゃ口して、他藩を扇動、兵威をもって朝廷に対し不敬を働き
一、薩摩の家来、浪人と共謀の上、江戸市中
押し込み、強盗を働き庄内藩屯所に対し発砲せし罪状
その他の諸悪の罪状明らかである。
これら諸罪状は、すべて薩摩藩の陰謀より発したることは天下の知る所である。
天人ともに憎む所業にて、かかる奸臣、お引渡し願いたく、もしお聞き入れ
なきときは誅伐申すべく奉文奉る。
しかし慶喜が薩長に対して反撃に出たのはここまで、、、
戦いが始まってからは、ただ部下を捨て逃げ惑い、まるで戦う意志もなく
引きこもってただただ恭順のみ、、、、
哀れなのは部下と、命をかけて戦った新選組、京都見回り組と会津藩
●戊辰戦争の初戦、鳥羽伏見の戦い
戊辰戦争とは慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いから、上野戦争、越後戦争
会津戊辰戦争と続き、明治2年5月の函館戦争で終了する内戦です。
この内戦で薩長はやっと天下を取ることができたのです。
ここから薩長の歴史史観なるものが作られ、あのテロリスト集団が
志士と呼ばれるようになり、テロリストの主導者たちは英雄などと
呼ばれるようになっていったのです。
なにしろ天下を取ったので、やりたい放題、好き放題で歴史も
自分たちに都合よく書き換えることができる。
悪者はいつの間にか正義になり、正義者はいつの間にか悪者にされた。
学校教育はそのように教えこまれて、今日に至ります。
大政奉還は時の流れで、しかたなかったのかもしれない。
しかし、あのような謀略で倒幕迫るのは許しがたい。
★鳥羽伏見の戦いの前夜
西本願寺から伏見の警備上、新選組は伏見奉行所に転陣
鳥羽伏見の戦いが勃発するまで
どのような日々を送っていたのでしょう。
新選組が伏見に入ったのは、12月16日、今にも戦争が起こるのではないかと
町はパニック状態でした。
町人の中には、荷物をまとめて田舎に運び出す者もいたという。
こんな中にも穏やかなエピソードもあります。
移転した直後のある日、近藤勇は町内の風呂屋に行ったという。
そこで薩摩の肥田景之という藩士に目撃された。
ところが別に何もない。
騒動がおきたわけでもないし、肥田は時々出会うことがあったと
平然としていたという。(史談会速記録)
新選組が伏見に入っても、薩摩は意外とのんびりしていたようです。
伏見に入って2日後に近藤は肩に銃撃を受けるから、風呂屋で
肥田に出会ったのはその前日でしょうか。
近藤は京都から伏見に戻る途中、藤森神社あたりで銃撃される。
伏見には薩摩藩邸がある、銃撃した篠原泰之進らはそこにひそんでいた。
負傷した近藤に代わって、土方が鳥羽伏見の戦いで指揮をとる。
また、21日の雪の降る晩のこと、薩摩と新選組の口論が始まった。
薩摩兵3百が大砲と小銃を構えて、伏見奉行所に押し寄せた。
緊迫したが 町奉行の田宮如雲の説得によって、薩摩兵は23日に引き上げた。
(肥後藩国事史料 )
その後も小競り合いがあったものらしく、こうした状況を見かねて中立的
立場にあった尾張藩は25日に、新選組が伏見から撤収するよう使者を出した。
土方はその時、自分の一存で撤収することはできないと、突っぱねたという。
(慶応三年雑記録)
鳥羽伏見戦いの前夜、慶応3年はこうして終わった、、、、
★鳥羽伏見戦いはこうして始まった
慶応4年正月3日、この日、大阪は寒風が吹き荒れていた。
午後になると強風は疾風に変わった。
幕府、会津は風下の不利な戦いになる。
そのころ北上した幕府軍は、鳥羽伏見の両街道を進軍していた。
幕府陸軍、会津、桑名、高松、松山、大垣など約1万
対する京都の兵力は約5千 、圧倒的に幕府軍が有利である。
幕府最先鋒隊は上鳥羽赤池へ達した。
ここで薩摩5番隊に阻止された。
討薩表を掲げた滝川具挙が、道をあけよと申し出たが、あけよあけないの
押し問答になった。
滝川は焦っていた、一刻も早く入京して朝廷に討薩表を奉呈しなければならない。
朝廷がそれを受理し、討薩の勅命を幕府に下せば正義は我にある。
こんなところで手間取っている暇はなかった。
京都の薩長が勝つためには、幕府、会津藩を京都の入り口で破るしかない。
「全力を挙げて入京を阻止せよ」
西郷は全軍に下知している。
幕府軍の隊形は、先方の滝川の周辺に京都見回り組、その後ろに幕府歩兵
さらに砲兵と続く、、、
この時、どうしたわけか幕府軍の歩兵も砲兵も戦闘隊形を取っていない。
ただぼんやりと交渉を見守っているのだ。
夕刻に至って交渉は決裂、、、、
滝川は京都見回り組に、強硬突破を命じた。
相手は少人数、力で押し通れと前進を始めた。
未だ昔日の幕威と大軍勢に相手をなめていたのだ。
相手は臨戦態勢で牙をむいて待ち構えていた。
そこへ羊のようにのんびりと行進を始めた。
幕府の重臣は誰一人、薩長が本気で戦うとは考えていなかった。
慶喜が大砲を擁して上京すれば、無抵抗で通過させるだろうと
思いあがっていたのだ。
その時、突然薩摩兵のラッパが鳴り大砲が火を噴いた。
鳥羽伏見の戦いはこうして始まった。
勝敗は一瞬にして決まった。
滝川の馬は狂奔し、滝川を街道に振り落とした。
滝川は仰天し、馬を拾うや味方の兵を蹴散らして逃げだした。
後続の幕府歩兵は、小銃や背嚢を投げ出して退却する。
この鳥羽伏見の戦いで活躍した幕軍は、新選組と会津別選隊と
京都見回り組だけです。
この敗戦の原因は、洋式装備の立ち遅れ、指揮官に人を得ず
作戦、戦略の劣悪など、、、
徒らに大砲を誇るのみで、烏合の衆にすぎない。
原因はいろいろあるが、最大の責めは大阪城に閉じこもったままの
慶喜にある。
これまでの戦闘で本気になって戦ったのは、会津藩、新選組、見回り組だけ。
幕府の主力は大阪城に閉じこもったまま、、、
こんな幕府のために命をかけて戦うのは、ばからしいと徳川寄りの諸藩も
こぞって官軍についてしまった。
彼らが慶喜の下、一丸となって戦えば、兵力は圧倒的有利、大阪城は秀吉が築いた
強化に強化を重ねた金城鉄壁である。
慶喜も薩長が武力攻撃に出るまでは、あの手この手で明治維新を阻止してきたが
武力に出られてからは、まるで戦う意思のないおまけに部下を捨てるという
前代未聞の失態を演じた人物でもある。
徳川幕府が終焉を迎えたのも当然といえる。