鳥羽伏見の戦いに敗れ、長年の同志を数多く失った新選組
あの天然理心流の4人も、近藤は官軍に捕らえられ刑場の露と消え
沖田総司は労がいでこの世を去った。
井上源三郎も鳥羽伏見の戦いに死んだ
生き残ったのは土方歳三ただ一人、、、、
それでも土方は戦い続け、各地を転戦しながら、北天の地へと向かう。
★土方の生きる道、新選組との決別
勝海舟は土方を旧幕府陸軍に包括し、大鳥圭介の配下につけます。
それは土方にとっても悪い話ではなかった。
土方としてもそれに身を投じることが、当座の生きる道であった。
土方は旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介が、伝習隊を率いて屯集していた
小梅村に向かう、(墨田区業平付近)
新選組本隊百人ほどは、流山での近藤の投降の間に脱出し、斎藤一らに
率いられて会津に向かっていた。
小梅村の近くにある霊山寺(墨田区横川)には、永倉新八の靖共隊がいた。
彼らも江戸を脱して会津に向かう。
途中で宇都宮を目指す旧幕軍に合流、旧幕軍は続々と総寧寺に集結した。
その数、二千とも三千ともいう、、、
そして軍議が開かれ、総督に大鳥圭介、土方は参謀に選出された。
全軍は前軍、中軍、後軍に編成され土方は、前軍千数百人を会津藩士
秋月登之助とともに率いていた。
同行する新選組隊士は、わずか6人だけ
島田魁、中島登、畠山芳次郎、沢忠助、松沢乙造、漢一郎、、、、、
6人のうち古参隊士は、島田魁一人だけ、あとは慶応3年11月に入隊した者や
まだ加入したばかりの見習い隊士ばかりだった。
つまり土方は、もうこの時点で新選組と決別していたのです。
近藤と決別したように、新選組とも決別していたのです。
そして事実、土方が新選組本隊を率いることは、二度とありませんでした。
土方の軍勢が出陣したあと、天然理心流の門人、福田平馬という与力が
近藤の助命嘆願に勝海舟を訪れている。
勝の日記に「大和こと頼み置く由」とある。
近藤とも新選組とも決別した土方が、江戸を離れるにあたり
最後のそして一筋の望みとして託したのが、この訪問だったのです。
土方の前軍が宇都宮城に入ったのは21日、新政府軍は23日宇都宮城に襲い掛かった。
この戦いで土方も、秋月も負傷する。
そして必死に守っていた戦線を離脱する。
その後、戦いは夕方まで続いたが、戦意を失い兵士たちは続々と持ち場を放棄し
逃げ去ってしまった。
城内には100人近い戦死者の遺体が残されていたという。
その後、土方と秋月は会津にむけて出発する。
従う隊士はあの6人だけ
宇都宮で負傷した土方が、ちょうど6人の隊士たちと会津にむかっていた
慶応4年4月25日流山で、近藤は斬首されたのです。
●靖共隊
ここで靖共隊に触れてみたいと思います。
永倉新八や原田左之助は甲陽鎮撫隊の敗戦後、新選組を離脱した。
彼らは永倉の旧友で幕臣の芳賀宜道を隊長として、靖共隊を組織した。
宇都宮を目指す旧幕軍は、総寧寺に集結し全軍は前軍、中軍、後軍と編成された
そのなかで靖共隊は中軍に属していた。
土方隊は前軍でした。
彼らは土方の前軍が、陥した宇都宮城に入った翌日、土方も入城している。
ここで再会したか、会わなくても旧幕軍に土方の一行がいること、彼らとは
違う新選組の一隊がいることを知った。
このことは永倉の顛末記には全く触れられていない。
永倉とともに副長に就任していた原田左之助は、この直後
靖共隊を離脱しています。
その理由を顛末記には、妻子への愛着が立ち切れなかったとしているが
土方率いる同じ新選組の一行を見て、靖共隊も土方と同じ道を進んでいる。
なにも新選組と決別し、靖共隊などという隊をつくる必要などなかった。
その後、二か月間原田の消息はつかめない。
そして上野の彰義隊の戦いで戦死者として、その姿を現わす。
★永倉新八決別の謎
靖共隊を組織した永倉新八の言い分をみてみましょう。
永倉は目的地へ直行したが、土方と近藤は姿を現さなかったという。
集まったのは原田左之助、島田魁、矢田賢之助など10人ばかりであった。
その後、神田和泉橋の医学所に近藤を訪ね、新勢力を組織して会津で
最後の一戦をと、、、、話すと近藤は色をなし
「拙者はさような私の決議に加盟いたさぬ。
ただし拙者の家臣となって、働くというなら同意もいたそう」
永倉は
「ニ君に仕えざるが武士の本懐でござる。
これまで同盟こそすれ、未だお手前の家来には、相成り申さぬ」
と激しながら、原田と矢田と立ち去り、前野五郎、林信太郎、中条常八郎
松本喜次郎らを糾合し、旧友 芳賀宜道を隊長に迎え、靖共隊を組織した。
これが永倉の言い分です。
それでは他の人が残した日記などを見てみましょう。
永倉は大久保邸に島田魁も現れたとしているが、島田の日記には記載がない。
中島登の覚書は、島田の日記と同文であり、江戸の集合場所は大久保邸ではなく
今戸となっている。
しかも稗田利八も今戸へ向かっています。
また、菊地明氏によると、
「勝沼の戦いに敗れた甲陽鎮撫隊は、甲州街道を敗走し、落ち合う場所だけを
定めて、江戸に向けて走った。
3月9日の夜中,鎮撫隊が日野を通過した記録(河野清助日記)があるので、
隊士たちの大半は、10日に江戸入りしたと思われる。
当時、今戸神社に居を移していた松本良順を頼ったようで、隊士たちの
多くは今戸を目指した。
負傷した池田七三郎も今戸神社の近くの称福寺に収容された。
ここは泉橋の医学所が手狭になったため、臨時の病院にあてられた寺で
甲州に出兵しなかった負傷者たちも移送されていた。」
ところが永倉は、本所の大久保主膳邸が集合場所だったという。
本当に大久保邸が集合場所なら、彼らはそのまま仲間たちを待っていれば
いいのに、、、、そのうえ奇妙な行動をとっている。
今戸の松本良順の元を訪れ、再起するための資金300両を借用する。
そこで今戸に近い吉原に隊士たちがいることを聞き、妓桜で遊興している
彼らと面談しているのだ。
つまり吉原にいた隊士たちにとって、江戸での集合場所は
大久保邸ではなく、今戸だったということになる。
江戸での集合場所に行かなかったのは、近藤や土方ではなく
永倉だった、、、、、
鎮撫隊の敗走の途中で、永倉は新選組の会津行を提案した。
近藤もそれに同意した、しかし、その手順が近藤と永倉で異なった。
永倉は現勢力で会津藩に投じようと考えていた。
永倉の考えに従った隊士たちが、大久保邸に集まった。
近藤の指示に従おうと考えた隊士たちは、本来の集合場所今戸に集まった。
今戸には大勢の隊士たちがいる。
それに対してわずか、10人ほどで決議した永倉たちの案を飲めと言われても
近藤は納得できない。
この時の対話が、あの永倉の言い分にあるニ君に仕えるつもりはないと
決別に至ったのでしょう。
しかしこれはあくまでも、永倉の一方的な言い分です。
あとに生き残った者はなんとでも言える。
それに対して、多少きつい言葉を吐いたとしても、だから自分たちが
正しく決別に大義名分があるとするのは、永倉の理屈でしかない。
ここに新選組は決別した、、、、
★惨、、、靖共隊
この時、永倉に同行した者は、原田左之助、矢田賢之助、林信太郎
前野五郎、中条常八郎、松本喜次郎の5人です。
そして永倉は靖共隊を組織するのです。
靖共隊とも靖兵隊ともいわれる。
永倉の靖共隊の目的は、あくまでも会津藩の支援にあった。
大鳥圭介率いる伝習隊と協同しながら、各地を転戦するが、、、
しかし江戸を発った靖共隊の行く末は、自滅の破局が待ち受けていた。
原田は直後、靖共隊を離脱その後、彰義隊で戦死
矢田、林、松本は戦死、あるいは刑死、、、、
永倉とともに町人姿に身をやつし、ようやく江戸にもどった芳賀も
官軍側の義兄との口論がもとで、無残な死を遂げる。
それも相手の大勢の部下によってたかって、滅多斬りにされ
骸を菰にくるまれて、川に捨てられるという、むごたらしさで、、、
靖共隊の末路は哀れです。
★思えば不運の連続の奇妙な戦争
鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争は、思えば不運の連続で
負けたような奇妙な戦争です。
行くところ、その戦略においてもなぜか不運がつきまとう。
その最初で最大の不運が、徳川慶喜の逃亡でした。
会津での戦争も、その人選その戦略においても、なぜこのようなと
首をかしげたくなるような人選が行われ、負けるべくして負けた不運だった。
土方が蝦夷地に渡ってからも、不運は続いた。
最初から最後まで不運の連続、、、、このような戦争もあるんだと
つくづく思いました。
それでは、この不運がつきまとう戊辰戦争を見ていきましょう。
会津藩が新選組を配下に加えたのは、一言で言えば
汚れ役を押し付けた、、、、ということです。
いくら任務とはいえ、刃傷沙汰を伴う治安警察の仕事を
日常的に担うのを忌避するためです。
新選組も組織の存亡をかけ、あえてそれを引き受けた。
元治元年の池田屋事件で、新選組はその名を一躍高めたがそれにより
会津藩と新選組は尊攘派の憎しみを一身に負うことになった。
その尊攘派の総本山ともいうべき存在が、長州藩です。
鳥羽伏見の戦いで大敗した幕府軍は抗戦派の中心人物、小栗忠順を罷免し
ハト派の勝海舟を陸軍総裁に登用し、戦後処理に入ってしまう。
幕府が滅び、薩長の次の目標は会津である。
その会津に対する最初の追討令は、仙台に出された。
1月17日、京都在留中の仙台藩重臣、但木土佐に会津追討の沙汰が
手渡された。
「会津容保、今度、徳川慶喜の反謀に与し、錦旗に発砲し、大逆無道
征伐軍、発せられ候間、その藩一手を以て、本城襲撃、速やかに
追討の功を奉すべき旨、御沙汰候事」
同じ沙汰が米沢、秋田、南部藩にも下った。
薩長は奥羽諸藩の手で、会津を攻撃させるという姑息な手段に出たのだ。