★常識では考えられない2つの不運
戊辰戦争とは、慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いから
明治2年5月の箱館戦争で終了する内戦の総称です。
総称だから多くの戦いからなる、、、
鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼戦争、宇都宮戦争、上野戦争、北越戦争、朝日山戦争
二本松戦争、会津戦争、函館戦争、、、などが含まれる。
慶応4年は1868年、その干支が戊辰、つまり、つちのえたつ
の年にあたるので戊辰戦争と呼びます。
戊辰戦争は、不運の連続の奇妙な負けるべくして負けた戦争であったと
つくづく思います、、、
戊辰戦争は、薩長軍の近代化された装備が、幕府軍を圧倒して勝利したという
通念があるが、端緒となった鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍の装備が薩長軍より
勝っていました。
開戦時は、兵力、装備などの点で圧倒的に幕府軍の方が勝っていたのです。
そのため薩長軍は、勝ち目がないと、まだ幼い天皇を京都から脱出させることを
検討していたのが実態です。
天皇を奪ってしまう、、、、玉が薩長の手にある、、
それほど薩長軍は、幕府軍に勝てないと考えていたのです。
だから幕府軍が、大阪城に退いた後からでも、反攻していれば
薩長軍は壊滅していたはずなのです。
なぜなら幕府軍にはまだ洋式部隊も温存されており、海軍も保有していたからです。
徳川慶喜が自ら、戦場を放棄するという、無様な体たらくでは、幕府軍の装備が
どんなに勝っていたとしても、勝利は望めない。
薩長軍にとってこの無様な将軍のおかげで、戊辰戦争に勝利できました。
幕府軍にとってこの無様な将軍を頂いたことで、戊辰戦争で敗北してしまった。
但し二本松戦争以降の奥羽での戦闘では、薩長軍の装備が勝っていました。
ここから戊辰戦争での不運を挙げてみましょう。
もしかしたら幕府軍が、勝利したかもしれないという場面があります。
しかしこれも不運というか、なぜこういうことに、、、と思うほど不思議な場面
慶応4年正月2日、大目付滝川具挙が討薩表を朝廷に提出するため、大阪城を出た。
これに大多喜藩、大河内正質を総督とする1500の幕府軍が続いていた。
この日の夜、老中稲葉正邦の淀城下に宿泊し、翌3日出発
滝川隊の先頭には、佐々木只三郎率いる京都見回り組がいる
この行進を薩摩軍が、鳥羽街道小枝橋あたりで待ち構えていた。
滝川隊は左が鴨川、右が薩摩軍、先頭の小枝橋に薩摩郡の砲台部隊で封鎖され
ここで通せ通さないの押し問答が、2~3時間も繰り広げられた。
そして夕刻、交渉はついに打ち切り
この時、薩摩軍の大砲が一斉に火を噴いた。
この時、薩摩軍は戦闘態勢を整えて待ち構えていたが、滝川隊は
行軍形成であったため、小銃、大砲の弾込めをしていなかった。
さらに京都見回り組は、警察部隊であったので小銃を装備していなかった。
薩摩の発砲開始は夕刻、本格的な戦闘は夜間に入ってからでした。
薩摩軍は焼夷弾を使用していたのです。
伏見方面で伏見市街が焼失したのはこのためです。
薩摩軍は焼夷弾を準備していた。
つまり日が暮れてから戦端を開くことが計画的だったのです。
伏見奉行所を守備していた新選組は、ここで壊滅的な損耗を出しています。
翌4日、態勢を立て直し幕府軍は佐久間信久指揮の精鋭歩兵部隊を投入
フランス伝習を受けた佐久間率いる第11連隊は元込め式ライフルである
フランス製のシャスポー銃を装備しており、薩摩軍ははるかに劣る
ミニエー銃が主力であった。
前日とは優劣が完全に逆転した、、、
そして幕府軍は薩摩軍を一気に壊滅させた、、、、はずだった。
ここでまた不運というか、常識では考えられないことが起こった。
幕府軍本営が、佐久間隊に後詰を送らなかったのです。
フランス式精鋭部隊に、敵前衛を切り抜かせたら、後詰を送って
敵全軍を後退させて、始めて勝利となるのです。
どうしてこういう、不思議なことが起こるのでしょう。
大河内正質の不思議な指揮によって、佐久間隊を見殺しにしてしまった。
そして幕府軍は大阪城へ敗走していく、
慶喜の逃走も、この大河内正質の指揮もなんか、はじめから幕府軍は
負けるようになっていた運命だったのでしょう。
常識では考えられないことが、2つも起きてしまいました。
でもこの戊辰戦争では、これからも不運としか言いようがないことが
次々に起こります。
それでは初めから見ていくことにしましょう。
★憎しみを一身に集めて
京都守護職松平容保の配下、新選組が手柄をたて、その名を高めれば
高めるほど西国諸藩の浪士たちの憎しみは募り、新選組を抱える
会津藩への恨みも増すばかりであった。
そして在京の仙台藩士、但木土佐についに会津追討令がだされました。
「会津容保、今度、徳川慶喜の反謀に与し、錦旗に発砲し、大逆無道
征伐軍、発せられ候間、その藩一手を以て、本城襲撃、速やかに
追討の功を奉すべき旨、御沙汰候事」
仙台に続き、米沢、秋田、南部藩にも追討令が下りました。
会津藩主従の衝撃は大きかった、、、、
京都で6年間、御所の守衛にあたり、孝明天皇の信を一身に集めた
主君容保が朝敵にされたのです。
この上は会津に帰り、全兵霊鬼となって薩長に立ち向かうしかない。
2月15日、容保は和田倉門の馬場に全藩兵を集め、午後5時あたりは
すでに薄暗く、大提灯が灯されたなかで
「汝らの奮戦、感激に耐えず、しかるに内府(慶喜)公、にわかに東帰され
余、全隊に告げず、東帰したことを大いに恥じる。」
と詫びたのです。
嗚咽がひろがり、兵士たちは号泣したという。
仙台藩に会津追討令が出された以上、戦うしか道はない。
会津兵は容保を囲み夜遅くまで痛飲したという。
そして容保が帰国の途についたのは、2月16日でした。
これに江戸詰めの婦女子、藩兵が続き全員が会津に帰ったのは
3月の下旬であったという。
会津はこれからどうなるのか、、、、
重臣たちの心は揺れた、、、
容保や会津の兵士たちは、徹底抗戦して鳥羽伏見の雪辱を期することだったが
大樹と仰ぐ幕府はもうない、、、、
会津はあらゆるチャンネルを使って、戦争を回避する道を探ったのです
国家老、西郷頼母や田中土佐などは、恭順しかないと尾張、肥前などに
嘆願書を送り、朝廷に弓を引く考えのないことを訴えた。
また、直接交渉による和平工作の道も探っていた。
それを担当したのが、公用方の広沢富次郎です。
広沢は勝海舟やイギリスの外交官、アーネストサトウらの協力を得て
西郷隆盛と直接談判におよび、戦いを思いとどまらせようとしたのです。
ところが薩摩藩参謀、海江田武治に会い、西郷との面談を申し入れると
そのまま捕らえられ、和田倉門の獄舎に幽閉されてしまったのです。
★会津攻撃作戦着々と
関東に戦乱が広がる頃、薩長政府の会津攻撃作戦も着々と進行していた。
2月下旬、征伐大総督、有栖川宮熾仁親王の下に奥羽鎮撫総督府が設置された。
総督 九条道孝
副総督 沢 為量
参謀 醍醐忠敬
下参謀 大山格之介、世良修蔵
一行は早くも3月18日仙台湾、寒風沢に上陸した。
薩長の攻撃は日を追って強まり、山縣有朋、黒田清隆を参謀とする
北陸道先鋒総督府と、軍艦,岩村精一郎率いる東山道先鋒総督府の
部隊が越後に迫っていた。
越後の小千谷に領地を持つ会津藩は、急遽出兵を迫られる。
会津藩は旧幕府陸軍の支援を受け、国境に兵を出す。
日光口 総督 大鳥圭介 副総督 山川大蔵 約1300人
越後口 総督 一瀬 要 約1300人
白河口 総督 西郷頼母 副総督 横山主税 約1300人
大平口 総督 原田対馬 約 700人
米沢口 青竜二番士中隊 100人
旧幕府軍 4700人
しかし、この人選に会津は早くも暗雲がただよう状況となっていくのです。
4月に入り会津国境は緊迫した。
★31藩による奥羽越列藩同盟の成立
薩長は仙台藩に会津を討伐せよと迫るが、仙台は会津に対して
旧怨などない、みだりに兵士を死傷するのは忍びないと
戦闘の意志のないことを語った。
米沢藩も当初から会津に同情しており、嘆願書を総督府が受け入れない
場合、会津とともに戦うことを示し、会津藩を感激させた。
また、庄内藩の家老、松平権十郎は
「会庄一致し、しかる後、米沢を説き米沢同盟せば、仙台は直ちに同盟せん
会津、庄内、仙台、米沢同盟せば、奥羽列藩の同盟ならん。
しかる後、兵を進めて江戸城を本営となし、機を天下に伝えば
凶徒をはらい君奸を清め手に唾して事なるべし」
と豪語したという。
こうして31藩による奥羽越列藩同盟が成立しました。
31藩による奥羽越列藩同盟でしたが、この中で必死の戦いを挑んだのは
会津、庄内、長岡、二本松の4藩のみです。
31藩全藩が必死の戦いはせず、三春藩などは反逆の同盟離脱第一号となり
降伏し会津東征に従っています。
また、新発田藩なども薩長軍に内応し、同盟諸藩侵攻の先導役を積極的に
行っています。
★悲報奔る 白河城攻防戦の不運
奥羽の関門、白河で戦闘が始まったのは、閏4月の下旬
列藩同盟の盟約に沿い、会津藩は家老、西郷頼母、若年寄横山主税を
副総督とする1300の軍勢を白河に送った。
仙台藩も会津と同じ規模の軍勢を送り込んだ。
これに新選組なども加わり、同盟軍の兵力は2500以上
この中で、小銃、大砲による近代戦を経験をしているのは会津藩だけ
従って、戦略を立て全軍を指揮できるのは会津藩に限られた。
ところが、なぜこのような人選になったのか、非常におかしな人選を
したものだと頭を抱えざるを得ない人選が、行われているのです。
それが総督、西郷頼母と副総督、横山主税です。
この西郷頼母は、先日まで頑なに恭順を唱えていた人物です。
京都事情には疎く、この数年は容保とそりが合わず蟄居していました。
また、横山主税はパリ留学から帰国したばかりです。
なぜこのような人選が行われたのか、、、、
本来なら佐川官兵衛か山川大蔵を戻すか、会津に滞在中の新選組
土方歳三を抜擢すべきであった。
この時土方に同情的な広沢富次郎は、捕らえられて会津にいなかったのも不運
函館戦争での土方の活躍を見るならば、このような人選は会津にとっても
土方にとっても大変残念であり、不幸だったと言わざるを得ない。
この白河の戦いくらい、軍事体制に大きな欠陥があったものはない。
人を選ぶ、人を見るということが会津には欠けていたのかもしれない。
西郷頼母を最も重要な、白河口の総督に選んだことが思わぬ事態を招き
奥羽列藩同盟にも早くも亀裂を生じさせていくのです。
白河の戦いで仙台藩参謀、坂本大炊が、頭に弾丸を貫いて斃れた。
このほか軍艦、姉歯武之進もやられた。
会津藩では、副総督、横山主税も稲荷山に登るやたちまち弾丸を受け斃れた。
横山に続き軍事奉行、海老名衛門、軍事方、小松十太夫らが倒れた
相次ぐ指揮官の戦死に白河の戦いは、大敗北となった。
戊辰東北戦争最大の被害を出した激戦の砲声がやんだのは正午過ぎでした。
たった半日の戦闘で、会津藩は300余人を失い、同盟軍は700人前後の
死者を出している。
会津藩の首脳は茫然自失
続々と入る白河の悲報は、同盟の今後に暗い影を落とした。
川瀬才一が見た白河の戦い
●白河の庄屋 川瀬才一「見聞略記」
会津は一千余の多勢なれば、すこぶる気強きとの街説、四方に伝聞したれば
諸藩の兵たちたちまち来集
なかでも仙台兵、第一の多勢にて二千余におよべり、ここにおいて会津勢は
大いに力を得、多勢の兵を控えたれば、官軍勢を侮り猛威を振るい
天下を掌握したるの勢いにて油断のところ五月一日、卯の上刻官軍軍勢五百余人
九番丁関門外まで寄せ来れり。
この兵の過半は、前夜に来りて潜伏したという。
この日、官軍より突然打ち出したるその砲戦の激しき
これを聞くもの驚愕、肝を冷やさざるなし
会津勢は手配りも案外に相違し、大いに周章狼狽して、東西に走らせ
南北に散乱するの混雑、、、クモの子散らすがごとし。
関東口、米沢口、原方口の三方は一度に破られ総崩れとなりたり」
★二本松少年隊
白河城が西軍に占領されて以来、同盟諸国の足並みは乱れ
どこも孤立無援の状態であった。
そこで二本松では兵力の不足を補うため、急遽12~17歳の少年たちを
招集した。
その数62名、少年たちの多くは西洋砲術指南の木村銃太郎の門下生でした。
この少年たちの活躍が目覚ましかったのは、大壇口での攻防でした。
少年たちは、古畳で胸壁を築き、銃や大砲で2時間余りも激戦を展開
しかしついに隊長の木村銃太郎は、腰に銃弾があたりもう助からないと
部下に自らの首をはねさせている。
少年たちも散り散りに退却を余儀なくされ、大壇口は破られてしまった。
これも会津白虎隊と並ぶ悲劇の一つです。
その後、薩長軍は二本松城を後にし、会津若松へと向かいます。
そしてここでも白虎隊の悲劇が生まれるのです。
明治維新の真実著原田伊織