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毎日気になる最新のニュースをチェツクします。

 

 

★今の日本に半鐘が鳴らないように

 

今日、8日は太平洋戦争開戦から82年です。

今も世界のどこかで戦争が続いていますね。

そこで今日は、少し怖いお話をしたいと思います。

 

今は世界で戦乱が絶えません。

日本も防衛力の大幅増強に走っています。

岸田もあの安倍晋三も首相の時代、日本をまた戦争のできる国に

しようとしていました。

岸田はそのために防衛力の大幅増強を図っているのです。

 

人間は時が経つとなんでも忘れようとするのでしょうか???

歴史に何も学ばずまた、国民を悲惨な状況に追いやるのでしょうか。

 

あの太平洋戦争が終わって、憲法九条に書かれてある通り

二度と戦争をしないと誓ったのに、それは大ウソでした。

日本は世界一のプルトニウム保有国です。

45トン、核爆弾5000発分であり、核兵器開発国です。

 

ただし45トンのうち35トンは、イギリスとフランスに保管し

残りの10トンを日本国内で保管しています。

さらに1・2トンの濃縮ウランも日本は保有しています。

 

反原発と大騒ぎするが、日本から原発がすべて撤去されたら

プルトニウムを所有する口実がなくなってしまう。

核兵器開発をしなければならないのに、それでは非常に困る。

だから原発を撤去出来ない。

 

2011年3月のあの大震災で、津波が襲来した時、福島の原子力発電所で

放射能がまき散らされましたね。

そして原発の20km圏内に住むことができなくなりましたね。

つまりここは国家の犠牲となった地区です。

 

日本の原子力計画の二重性、表向きは無限のエネルギーを開発し

供給するというもの、、、、

しかし裏を返せば、日本が十分な核物質と核技術を蓄え

短期間で核兵器大国を可能にするということ。

 

あの安倍晋三は、日本を戦争のできる国にしようとして、憲法改正を

断行しようとしましたが、国民からの強い反発を受けてやむなく

憲法解釈を捻じ曲げるにとどめました。

しかし憲法改正も、憲法解釈を捻じ曲げるのも結局は同じこと。


国民はその時、デモをしたり署名活動をして、怒りをぶちまけたが

自公がグルになって、結局は閣議決定されてしまいました。

安倍晋三の兄弟、安倍寛信は三菱商事の取締役です。

 

その三菱商事のグループ会社、三菱重工業は日本屈指の武器製造メーカーです。

その日本にはたくさんの武器製造メーカーがあります。

三菱重工業、川崎重工業、三菱電機、東芝、富士通、日立製作所、コスモ石油

いすゞ自動車,住友商事、などなど、、、、

 

これらはみんな武器、そのものを作っているわけではありません。

戦闘機なら戦闘機の部品、軍艦なら軍艦の部品を作っています。

戦闘機も飛行機の部品、軍艦も船の部品、、、、働いている人は

ただ飛行機、船の部品を作っていると思っている。

まさか武器を作っているとは、思っていないでしょう,上の連中以外は

 

そして安倍晋三はこれらの会社のつくった部品をロシア、ミャンマー

アフリカなどに売りつけてきたのです。

また三菱重工業は、日本屈指の原発製造メーカーでもあります。

この原発も世界で売りさばきましたね。

 

岸田もこの安倍の後を継いで、戦争に向けて必死で頑張っています。

歴史の反省も何もなく、いつしか会津城下に鳴り渡った

半鐘の音が日本に聞こえてこないように、しっかりと政治を

見守っていかなければなりません。

 

 

 

★離脱、裏切りが相次ぎ孤立する会津藩

 

列藩同盟を仕掛けたのは、会津藩である。

その面子にかけて、何が何でも白河を奪回しなければならない。

容保は白河口総督、西郷頼母を罷免した。

そした新たに内藤介右衛門を任じる。

 

しかし薩長軍は兵力を増強しており、どうしても白河城をぬくことができない。

以来、1か月白河城の攻防戦が続いたが、ついに取り戻すことができなかった。

そして、白河に出陣中の仙台藩、伊達将監の軍が戦線を離脱

角田領主、石川大和の隊も引き上げを始めた。

同盟軍は須賀川へ退却を余儀なくされる。

 

●白河の庄屋 川瀬才一はその後の戦闘について

 

「6月25日より、7月15日卯の上刻まで、砲戦の絶えることはなく

 撃剣天に響き,砲発地を震わし死人は山野、通路に横たわりて

 足の踏む地なきがごとし、人々肝を冷やし魂を飛ばし生きた心地なし」

 と激戦の模様を記しています。

 

白河口とは対照的に越後口は善戦していました。

河井継之助率いる長岡藩は、薩長にひけをとらぬ近代装備を誇っていた。

越後口総督、一瀬 要や佐川官兵衛の会津藩兵も強者ぞろい。

これに立見鑑三郎の桑名藩兵も加わり、人材では薩長を上回っていた。

 

佐川官兵衛や立見鑑三郎は、鳥羽伏見で何度も敵を破っていた。

これらの強者たちが、薩長と互角に戦えたのも、新潟港から最新式の

小銃や弾薬が前線に急送されたからでした。

 

5月12日、朝日山の戦闘では、薩長軍の参謀、時山直八を打ち取り

薩長軍陣地を占領

 

 

しかし越後にも薩長の軍艦が新潟港に迫っていた。

25日の早朝、新発田領の太夫沖合に、薩長軍海上部隊が姿を現した。

軍艦2隻、輸送船4隻その後ろに30隻近い軍需品を積んだ漁船が続いた。

これを誘導したのは新発田藩です。

 

新発田藩は,白河の大敗に同盟軍を離脱し、裏切りも進行していた。

それがこの軍艦や漁船の誘導でした。

信濃川を渡河し、薩長軍は27日新潟に攻め入り、庄内、米沢、会津藩の

家老、参謀を撃ち斃した。

 

この日,河井は長岡城を奪回していたが、新潟港を奪われた以上

武器、弾薬の補給は断たれ,早暁長岡を失うことは目に見えていた。

そしてここでもまた、不運が襲います。

この戦闘で河井継之助は、左ひざに銃弾を受け指揮が取れなくなってしまう。

 

これは北越の同盟軍にとって筆舌に尽くしがたい痛手となります。

悲劇はこれだけではなく、29日二本松が落城、同盟軍の仙台藩が

これを横目に見ながら退却していってしまうのです。

 

会津藩は孤立する、、、

 

★関門、母成峠破られる

 

圧倒的兵力をもって、会津国境突破を目論む薩長軍

同盟軍は、これを阻止せんと天険、母成峠に拠って迎え撃つ

閏8月21日早朝、薩長軍は参謀、板垣退助、伊地知正治以下3000の兵が

母成峠へ向けて進発を開始した。

 

母成峠を守備する同盟軍は、大鳥圭介率いる伝習隊(旧幕兵)400を

中心にわずか800余名、、、、3000対800の戦いです。

同盟軍は第一台場、第二台場、第三台場に陣を設けた。

母成峠は第三台場です。

 

薩長軍は第二台場を攻めると流布しておいて、手薄の第三台場を攻めた。

土方はこの第三台場、母成峠にいた。

会津藩軍事局は、母成峠は最重要の基地ではないと判断していた。

8月20日、母成に敵主力部隊が侵攻してきた。

 

●島田日記

 

 「敵兵二千余押し来る。

 味方散乱、土方公は猪苗代城で評定の上、十六橋に向かう」

 

土方は様々な情報を集め、戦略を立てていたのです。

土方は会津の入口である猪苗代で敵をくい止めないと一気に敵が

城下へ侵入し、落城の危険があると判断し、この日の夕刻、内藤と小原に

援軍を求める手紙を送っている。

 

 ●土方の手紙

 

「明朝には必ず猪苗代まで押しきたり申すべく候間

 諸口兵隊残らずお回し、あいなり候よういたしたく候

 さもござなく候わば、明日中にも若松まで押しきたり申すべく候間

 この段、申し上げ奉り候以上

 二十一日夜五ツ    土方歳三

 内藤君  小原君    (新選組日誌所収)

 

この手紙が二人の下に届いたかどうか確証はないが、土方の指示どおりに

していれば、会津城下への敵の侵攻は1日か2日は遅れたはず。

この後、会津城下で繰り広げられる数々の悲劇も、いくらかはくい止められた。

会津には敵が国境を越えた場合のマニュアルがなかった。

そこで土方の指示通りの対応もできなかった。

つまり危機管理のひどい欠如である。
 

8月21日早朝、会津国境の関門、母成峠が破られた。

敵は怒涛の勢いで会津城下に侵入した。

このため会津城下は、阿鼻叫喚のるつぼと化していくのです。

大鳥圭介は米沢国境に近い山岳地帯へ逃れ、土方はもはや

会津に回復は望めぬと判断し、庄内を目指し会津を離れた。

 

磐梯山麓をさまよい歩いた大鳥は、米沢に、食糧、弾薬を求めたが

弾薬はないというにべもない返事が返って来た。

米沢藩は変心していたのだ。

盟約からすれば、米沢藩は即、会津に援軍を送らねばならなかった。

敵軍の背後から米沢軍が攻めれば、薩長軍は挟み撃ちになるはずだった。

 

 

★半鐘が鳴る会津城下の人々

 

8月23日早朝、四境から会津に攻め入った薩長土以下、30数藩の官軍は

ついに会津城下に雪崩れ込んだ。

会津落城によって、奥羽越列藩同盟は崩壊した。

そして半鐘が鳴らされた、、、

会津城下は阿鼻叫喚のるつぼと化した、、、

この日の城下は悲惨の一語に尽きる、、、

 

容保以下5000の士族男女は、城に籠った。

しかし城下に残った武士の家族50家230人は自殺をしている。

ここから1万数千の包囲軍と約1か月にわたる激戦が続きます。

 

家老、田中土佐は郭門にあり藩士の邸宅から、畳を運ばせ白虎隊がこれを

胸壁とし銃で応戦した。

滝沢峠から退いた容保は、ここで容保の馬に弾が命中し駆け足で甲賀通りを通って

入城するというきわどい状況であった。

 

家老、神保内蔵助は、六日町で防戦していたが、味方は雪崩をうって潰走し

止めることができない、、、

もはやこれまでと医師、土屋一庵の邸に入るとそこには田中土佐も来ており

二人は互いに刺し違えた。

 

 

●西郷頼母の家族も自決した。

 

祖母77歳、母58歳、妻34歳、妹26歳と23歳、娘16歳、13歳、9歳、4歳、2歳

以上10人の婦女子、ほかに江戸から寄食していた親戚の家族12人

合わせて21人が邸内で全員自決しました。

会津戦争悲劇の象徴です。

 

頼母は戦争が終わって30余年の後、当時薩摩藩士であった野津中将に

送った歌があります。

「旅に寝し 昔の夢の後問えば 恨みを知るや白河の関」

 

奥羽同盟軍の敗北は、白河の戦いに敗れたことによる。

そのきっかけは西軍を道案内した男のせいだと報復を企て白河までやって来て

宿怨を晴らし自決した藩士がいる、明治3年夏のことでした。

 

 

その藩士の名は田辺軍治当時15歳

彼は白河口副総督、横山主税の家臣でした。

彼は主人とともに稲荷山に戦い,主人は弾に撃たれて壮絶な死を遂げた。

その白河口総督が、西郷頼母

 

西郷頼母の指揮により白河口は破れ、主人横山主税は死んだ。

奥羽列藩同盟も崩壊した。

普通なら敵を恨むものだが、田辺は敵より同じ東軍を恨んだ。

この時、作戦の都合上、母成周辺の集落を東軍が焼いたことにより

家を焼かれた人々は、田辺同様、東軍を恨んだという。

田辺軍治にとっては、敵討ちだったのでしょう。

 

激戦地、稲荷山の麓の公園に会津藩の鞘魂碑が戦死墓とともに祀られています。

その片隅に田辺軍治の墓と碑文があります。

 

 

山川大蔵の妻の妹、とせ19歳は戦死,末妹の捨松9歳は弾運びを手伝っていた。

市内近郊では官軍が、家を荒し略奪し佐川官兵衛は

「西軍は財貨を奪い、無辜の民を殺し、婦女を犯し残暴極まりない。

 何を以て王師という」

と切言している。

 

 

 

 

そして会津が薩長軍に取り囲まれ米沢、仙台にも恭順の声が高まり

土方の選択は蝦夷地しかなくなっていた。

この後、土方は榎本艦隊に合流し、蝦夷へ向かいます。

 

★戊辰戦役 官軍侵攻

 

 1868年1月3日~6日    鳥羽伏見の戦い     幕府軍、会津藩、新選組

    3月6日       勝沼、柏尾の戦い    甲陽鎮撫隊

    4月19日~23日   宇都宮城の戦い     旧幕府軍、大鳥圭介、土方歳三 

   閏4月20日~7月15日  白河口の戦い      会津藩、仙台藩、棚倉藩、旧幕府軍

    5月10日~13日    榎峠 朝日山の戦い   長岡藩、会津藩、立見鑑三郎

    5月15日~16日   上野戦争        彰義隊

    5月19日~7月29日  長岡城攻防戦      長岡藩

    8月24日~9月14日  若松城攻囲戦      会津藩、旧幕府軍

    8月21日       母成峠の戦い     仙台藩、二本松藩、旧幕府軍

 

 1869年3月25日      宮古湾海戦       旧幕府軍、大鳥圭介、土方歳三

     5月11日~16日   箱舘戦争        旧幕府軍、新選組、榎本武揚

                               大鳥圭介、土方歳三

★常識では考えられない2つの不運

 

戊辰戦争とは、慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いから

明治2年5月の箱館戦争で終了する内戦の総称です。

総称だから多くの戦いからなる、、、

 

鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼戦争、宇都宮戦争、上野戦争、北越戦争、朝日山戦争

二本松戦争、会津戦争、函館戦争、、、などが含まれる。 

慶応4年は1868年、その干支が戊辰、つまり、つちのえたつ

の年にあたるので戊辰戦争と呼びます。

 

戊辰戦争は、不運の連続の奇妙な負けるべくして負けた戦争であったと 

つくづく思います、、、

 

戊辰戦争は、薩長軍の近代化された装備が、幕府軍を圧倒して勝利したという

通念があるが、端緒となった鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍の装備が薩長軍より

勝っていました。

開戦時は、兵力、装備などの点で圧倒的に幕府軍の方が勝っていたのです。

 

そのため薩長軍は、勝ち目がないと、まだ幼い天皇を京都から脱出させることを

検討していたのが実態です。

天皇を奪ってしまう、、、、玉が薩長の手にある、、

それほど薩長軍は、幕府軍に勝てないと考えていたのです。

だから幕府軍が、大阪城に退いた後からでも、反攻していれば

薩長軍は壊滅していたはずなのです。

 

なぜなら幕府軍にはまだ洋式部隊も温存されており、海軍も保有していたからです。

徳川慶喜が自ら、戦場を放棄するという、無様な体たらくでは、幕府軍の装備が

どんなに勝っていたとしても、勝利は望めない。

 

薩長軍にとってこの無様な将軍のおかげで、戊辰戦争に勝利できました。

幕府軍にとってこの無様な将軍を頂いたことで、戊辰戦争で敗北してしまった。

 

但し二本松戦争以降の奥羽での戦闘では、薩長軍の装備が勝っていました。

ここから戊辰戦争での不運を挙げてみましょう。

 

もしかしたら幕府軍が、勝利したかもしれないという場面があります。

しかしこれも不運というか、なぜこういうことに、、、と思うほど不思議な場面

 

慶応4年正月2日、大目付滝川具挙が討薩表を朝廷に提出するため、大阪城を出た。

これに大多喜藩、大河内正質を総督とする1500の幕府軍が続いていた。

この日の夜、老中稲葉正邦の淀城下に宿泊し、翌3日出発

 

滝川隊の先頭には、佐々木只三郎率いる京都見回り組がいる

この行進を薩摩軍が、鳥羽街道小枝橋あたりで待ち構えていた。

滝川隊は左が鴨川、右が薩摩軍、先頭の小枝橋に薩摩郡の砲台部隊で封鎖され

ここで通せ通さないの押し問答が、2~3時間も繰り広げられた。

 

そして夕刻、交渉はついに打ち切り

この時、薩摩軍の大砲が一斉に火を噴いた。

この時、薩摩軍は戦闘態勢を整えて待ち構えていたが、滝川隊は

行軍形成であったため、小銃、大砲の弾込めをしていなかった。

 

さらに京都見回り組は、警察部隊であったので小銃を装備していなかった。

薩摩の発砲開始は夕刻、本格的な戦闘は夜間に入ってからでした。

薩摩軍は焼夷弾を使用していたのです。

 

伏見方面で伏見市街が焼失したのはこのためです。

薩摩軍は焼夷弾を準備していた。

つまり日が暮れてから戦端を開くことが計画的だったのです。

 

伏見奉行所を守備していた新選組は、ここで壊滅的な損耗を出しています。

翌4日、態勢を立て直し幕府軍は佐久間信久指揮の精鋭歩兵部隊を投入

フランス伝習を受けた佐久間率いる第11連隊は元込め式ライフルである

フランス製のシャスポー銃を装備しており、薩摩軍ははるかに劣る

ミニエー銃が主力であった。

 

前日とは優劣が完全に逆転した、、、

そして幕府軍は薩摩軍を一気に壊滅させた、、、、はずだった。

ここでまた不運というか、常識では考えられないことが起こった。

 

幕府軍本営が、佐久間隊に後詰を送らなかったのです。

フランス式精鋭部隊に、敵前衛を切り抜かせたら、後詰を送って

敵全軍を後退させて、始めて勝利となるのです。

どうしてこういう、不思議なことが起こるのでしょう。

大河内正質の不思議な指揮によって、佐久間隊を見殺しにしてしまった。

そして幕府軍は大阪城へ敗走していく、

慶喜の逃走も、この大河内正質の指揮もなんか、はじめから幕府軍は

負けるようになっていた運命だったのでしょう。

 

常識では考えられないことが、2つも起きてしまいました。

でもこの戊辰戦争では、これからも不運としか言いようがないことが

次々に起こります。

それでは初めから見ていくことにしましょう。

 

★憎しみを一身に集めて

 

 京都守護職松平容保の配下、新選組が手柄をたて、その名を高めれば

 高めるほど西国諸藩の浪士たちの憎しみは募り、新選組を抱える

 会津藩への恨みも増すばかりであった。

 

 そして在京の仙台藩士、但木土佐についに会津追討令がだされました。

 

「会津容保、今度、徳川慶喜の反謀に与し、錦旗に発砲し、大逆無道

  征伐軍、発せられ候間、その藩一手を以て、本城襲撃、速やかに

  追討の功を奉すべき旨、御沙汰候事」

 

 仙台に続き、米沢、秋田、南部藩にも追討令が下りました。

 会津藩主従の衝撃は大きかった、、、、

 京都で6年間、御所の守衛にあたり、孝明天皇の信を一身に集めた

 主君容保が朝敵にされたのです。

 

 この上は会津に帰り、全兵霊鬼となって薩長に立ち向かうしかない。

 2月15日、容保は和田倉門の馬場に全藩兵を集め、午後5時あたりは

 すでに薄暗く、大提灯が灯されたなかで

 「汝らの奮戦、感激に耐えず、しかるに内府(慶喜)公、にわかに東帰され

  余、全隊に告げず、東帰したことを大いに恥じる。」

 と詫びたのです。

 嗚咽がひろがり、兵士たちは号泣したという。

 

 仙台藩に会津追討令が出された以上、戦うしか道はない。

 会津兵は容保を囲み夜遅くまで痛飲したという。

 

 そして容保が帰国の途についたのは、2月16日でした。

 これに江戸詰めの婦女子、藩兵が続き全員が会津に帰ったのは

 3月の下旬であったという。

 

 会津はこれからどうなるのか、、、、

 重臣たちの心は揺れた、、、

 

 容保や会津の兵士たちは、徹底抗戦して鳥羽伏見の雪辱を期することだったが

 大樹と仰ぐ幕府はもうない、、、、

 

 会津はあらゆるチャンネルを使って、戦争を回避する道を探ったのです

 国家老、西郷頼母や田中土佐などは、恭順しかないと尾張、肥前などに

 嘆願書を送り、朝廷に弓を引く考えのないことを訴えた。

 

 また、直接交渉による和平工作の道も探っていた。

 それを担当したのが、公用方の広沢富次郎です。

 広沢は勝海舟やイギリスの外交官、アーネストサトウらの協力を得て

 西郷隆盛と直接談判におよび、戦いを思いとどまらせようとしたのです。

 ところが薩摩藩参謀、海江田武治に会い、西郷との面談を申し入れると

 そのまま捕らえられ、和田倉門の獄舎に幽閉されてしまったのです。

 

★会津攻撃作戦着々と

 

 関東に戦乱が広がる頃、薩長政府の会津攻撃作戦も着々と進行していた。

 2月下旬、征伐大総督、有栖川宮熾仁親王の下に奥羽鎮撫総督府が設置された。

 総督   九条道孝

 副総督  沢 為量

 参謀   醍醐忠敬

 下参謀  大山格之介、世良修蔵

 一行は早くも3月18日仙台湾、寒風沢に上陸した。

 

 薩長の攻撃は日を追って強まり、山縣有朋、黒田清隆を参謀とする

 北陸道先鋒総督府と、軍艦,岩村精一郎率いる東山道先鋒総督府の

 部隊が越後に迫っていた。

 

 越後の小千谷に領地を持つ会津藩は、急遽出兵を迫られる。

 会津藩は旧幕府陸軍の支援を受け、国境に兵を出す。

 日光口    総督 大鳥圭介     副総督 山川大蔵 約1300人

 越後口    総督 一瀬 要              約1300人

 白河口    総督 西郷頼母     副総督 横山主税 約1300人

 大平口    総督 原田対馬              約  700人

 米沢口    青竜二番士中隊                100人

        旧幕府軍                  4700人

                               

 しかし、この人選に会津は早くも暗雲がただよう状況となっていくのです。

 4月に入り会津国境は緊迫した。

 

 ★31藩による奥羽越列藩同盟の成立

 

 薩長は仙台藩に会津を討伐せよと迫るが、仙台は会津に対して

 旧怨などない、みだりに兵士を死傷するのは忍びないと

 戦闘の意志のないことを語った。

 

 米沢藩も当初から会津に同情しており、嘆願書を総督府が受け入れない

 場合、会津とともに戦うことを示し、会津藩を感激させた。

 また、庄内藩の家老、松平権十郎は

 「会庄一致し、しかる後、米沢を説き米沢同盟せば、仙台は直ちに同盟せん

  会津、庄内、仙台、米沢同盟せば、奥羽列藩の同盟ならん。

  しかる後、兵を進めて江戸城を本営となし、機を天下に伝えば

  凶徒をはらい君奸を清め手に唾して事なるべし」

 と豪語したという。

 

 こうして31藩による奥羽越列藩同盟が成立しました。

 31藩による奥羽越列藩同盟でしたが、この中で必死の戦いを挑んだのは

 会津、庄内、長岡、二本松の4藩のみです。

 

 31藩全藩が必死の戦いはせず、三春藩などは反逆の同盟離脱第一号となり

 降伏し会津東征に従っています。

 また、新発田藩なども薩長軍に内応し、同盟諸藩侵攻の先導役を積極的に

 行っています。 

 

 ★悲報奔る 白河城攻防戦の不運

 

 奥羽の関門、白河で戦闘が始まったのは、閏4月の下旬

 列藩同盟の盟約に沿い、会津藩は家老、西郷頼母、若年寄横山主税を

 副総督とする1300の軍勢を白河に送った。

 

 仙台藩も会津と同じ規模の軍勢を送り込んだ。

 これに新選組なども加わり、同盟軍の兵力は2500以上

 この中で、小銃、大砲による近代戦を経験をしているのは会津藩だけ

 

 従って、戦略を立て全軍を指揮できるのは会津藩に限られた。

 ところが、なぜこのような人選になったのか、非常におかしな人選を

 したものだと頭を抱えざるを得ない人選が、行われているのです。

 

 それが総督、西郷頼母と副総督、横山主税です。

 この西郷頼母は、先日まで頑なに恭順を唱えていた人物です。

 京都事情には疎く、この数年は容保とそりが合わず蟄居していました。

 

 また、横山主税はパリ留学から帰国したばかりです。

 なぜこのような人選が行われたのか、、、、

 

 本来なら佐川官兵衛か山川大蔵を戻すか、会津に滞在中の新選組

 土方歳三を抜擢すべきであった。

 この時土方に同情的な広沢富次郎は、捕らえられて会津にいなかったのも不運

 函館戦争での土方の活躍を見るならば、このような人選は会津にとっても

 土方にとっても大変残念であり、不幸だったと言わざるを得ない。

 

 この白河の戦いくらい、軍事体制に大きな欠陥があったものはない。

 人を選ぶ、人を見るということが会津には欠けていたのかもしれない。

 西郷頼母を最も重要な、白河口の総督に選んだことが思わぬ事態を招き

 奥羽列藩同盟にも早くも亀裂を生じさせていくのです。

 

 白河の戦いで仙台藩参謀、坂本大炊が、頭に弾丸を貫いて斃れた。

 このほか軍艦、姉歯武之進もやられた。

 会津藩では、副総督、横山主税も稲荷山に登るやたちまち弾丸を受け斃れた。

 横山に続き軍事奉行、海老名衛門、軍事方、小松十太夫らが倒れた

 相次ぐ指揮官の戦死に白河の戦いは、大敗北となった。

 

 戊辰東北戦争最大の被害を出した激戦の砲声がやんだのは正午過ぎでした。

 

 たった半日の戦闘で、会津藩は300余人を失い、同盟軍は700人前後の

 死者を出している。

 会津藩の首脳は茫然自失

 続々と入る白河の悲報は、同盟の今後に暗い影を落とした。

 

 

 

 川瀬才一が見た白河の戦い

 ●白河の庄屋 川瀬才一「見聞略記」

 

 会津は一千余の多勢なれば、すこぶる気強きとの街説、四方に伝聞したれば

 諸藩の兵たちたちまち来集

 なかでも仙台兵、第一の多勢にて二千余におよべり、ここにおいて会津勢は

 大いに力を得、多勢の兵を控えたれば、官軍勢を侮り猛威を振るい

 天下を掌握したるの勢いにて油断のところ五月一日、卯の上刻官軍軍勢五百余人

 九番丁関門外まで寄せ来れり。

 この兵の過半は、前夜に来りて潜伏したという。

 この日、官軍より突然打ち出したるその砲戦の激しき

 これを聞くもの驚愕、肝を冷やさざるなし

 会津勢は手配りも案外に相違し、大いに周章狼狽して、東西に走らせ

 南北に散乱するの混雑、、、クモの子散らすがごとし。

 関東口、米沢口、原方口の三方は一度に破られ総崩れとなりたり」

 

 ★二本松少年隊

 

 白河城が西軍に占領されて以来、同盟諸国の足並みは乱れ

 どこも孤立無援の状態であった。

 そこで二本松では兵力の不足を補うため、急遽12~17歳の少年たちを

 招集した。 

 

 その数62名、少年たちの多くは西洋砲術指南の木村銃太郎の門下生でした。

 この少年たちの活躍が目覚ましかったのは、大壇口での攻防でした。

 少年たちは、古畳で胸壁を築き、銃や大砲で2時間余りも激戦を展開 

 しかしついに隊長の木村銃太郎は、腰に銃弾があたりもう助からないと

 部下に自らの首をはねさせている。

 

 

 少年たちも散り散りに退却を余儀なくされ、大壇口は破られてしまった。

 これも会津白虎隊と並ぶ悲劇の一つです。

 その後、薩長軍は二本松城を後にし、会津若松へと向かいます。

 そしてここでも白虎隊の悲劇が生まれるのです。

 

 

 明治維新の真実著原田伊織