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★蝦夷地続々平定し蝦夷島政権の成功なるか

 

10月20日に蝦夷鷲の木浜に上陸した脱走軍は、22日には早速

箱舘への進攻を開始します、蝦夷地を平定するために、、、

26日には五稜郭への入城も果たします、ここが脱走軍の本拠地となります。

そして28日には、土方歳三は500の兵とともに、松前城攻略に向かいます。

城を陥とし江差を攻め、松前藩に勝利して脱走軍の本営、五稜郭に戻ったのは

11月25日でした。

 

ここからは脱走軍は箱舘軍と呼ぶことになります。

この間にイギリスとフランスの軍艦が来航し、蝦夷地での事実上の政府として

承認しています。

そして12月25日には、それを祝って祝賀パーティーを開いています。

このとき蝦夷共和国閣僚を選出しています。

総裁   榎本武揚

副総裁  松平太郎

陸軍奉行 大鳥圭介

そして土方歳三は、陸軍奉行並箱舘市中取締りという役職です。

 

土方は榎本の期待に応え、獅子奮迅の活躍をします。

松前城攻撃と二股口の戦いで、天才的な活躍を見せるのです。

そして来年の宮古湾海戦まで、しばらく休戦状態が続きます。

ほっと一息です、、、しかしそれもつかの間

 

薩長主体の新政府軍は、春になると早速行動を開始し、蝦夷地にいる

箱舘軍を一掃しようと、明治2年の春青森に兵を集結させ艦隊を北へと向かわせる。

蝦夷地に向かって出航した敵の甲鉄艦は、強力なアームストロング砲を備えており

この軍艦が箱舘に入港すれば、五稜郭も砲撃にさらされ苦戦を強いられるのは必至

 

蝦夷島政権は、こうした土方の天才的な活躍と榎本の海軍のおかげで

はじめ成功するかに見えた、、、、、のですが、、、、

ここでもまたいくつかの不運が襲います。

 

 

★宮古湾海戦

 

そこで計画されたのが甲鉄艦奪取作戦です。

これが有名な宮古湾海戦です。

明治2年3月21日午前0時、箱舘を出航した箱舘軍の3艦、回転、播竜,高雄は

甲鉄艦が停泊する宮古湾を目指して南下

 

目指すは宮古の南、山田湾、、、、

ここで第一の不運が襲う、悪天候のため予定通り山田湾に到着したのは回天だけ

あとの2艦の船影は消えた。

その後、遅れて高雄も到着したが、播竜の影はない。

しかたなく2艦での決行が決まった。

 

そして25日山田湾を出航するが、ここでまた第二の不運が襲う

今度は高雄が機関に故障をおこしたのです。

修理している暇はない。

回天1艦だけの奪取作戦が開始される。

 

回天はマストにアメリカの星条旗を掲げて敵の甲鉄艦に近づき

間近に迫ってから急に日の丸に取りかえたという。

敵にアメリカの軍艦とばかり油断させるために、、、

 

3月25日、箱舘軍の旗艦回天は、新政府軍の主力、甲鉄艦を奪いとるため

停泊地の南部宮古湾を襲った。

回天の総指揮をとる海軍奉行、荒井郁之助は甲鉄艦に斬りこむ陸軍部隊を

指揮するため土方が、相馬主計、大島寅雄、野村利三郎の3人を従えて

乗り込んでいた。

 

甲鉄艦につきかけた回天の船首から、野村は白刃をふるって飛び移った。

●島田魁日記

 

 「数人を斬 我艦に入らんと欲す。

   敵、槍をもってその背を傷き海中に没す」

 とあるが甲鉄艦に飛び移る際に、海中に落ちたともいわれる。

 野村利三郎義時 享年26歳

 

 相馬は甲鉄艦甲板上の敵と戦い、相馬と大島は敵の槍に

 膝を突かれて負傷した。

 艦長の甲賀源吾が頭を打ち抜かれて即死

 土方は撤退を決断する。

 

 箱舘軍は50名くらいの死傷者を出し、甲鉄艦奪取は失敗に終わった。

 この間わずか30分くらいの戦いであったというが、その壮烈な戦いは

 後々まで語り草となった。

 

 ★二股口の戦い

 

 政府軍の蝦夷地攻撃は、4月に入ると本格的に開始された。

 箱舘軍は大鳥圭介を松前方面に、土方を江差方面に送って防備を固める。

 土方が布陣したのは、江差と函館を結ぶ主要街道上の二股口でした。

 

 明治2年4月9日政府軍は、乙部に上陸して、江差に集結し土方のいる

 五稜郭を目指して3つのルートから進軍を開始

 その最短ルートが二股口という山道を通るルートです。

 この二股口のルートに土方は布陣した。

 

 13日政府軍は、夕刻からここに押し寄せ、激戦となった。

 しかし土方が布陣した二股口は、この日も16日、17日と攻め込んでも

 政府軍は土方の陣を突破できない、、、何度攻めても突破できない。

 

 そこで23日政府軍はついに千余の兵をもって押し寄せ、丸2日間の激戦となった。

 それでも突破できない、、、、

 土方は素晴らしい指揮官であり、戦略家ですね。

 

 ところが松前の箱舘軍が敗退したため、土方軍の退路が断たれそうになり

 榎本は土方に退却を促す。

 やむなく土方は五稜郭へ引き上げる。

 

 これで箱舘軍は袋のネズミとなった。

 政府軍は5月11日から総攻撃を開始します。

会津も降伏し仙台も恭順の声が高まる中、薩長を主体とする新政府軍は

猛烈な勢いで日本本土にいる旧幕府軍の一掃を図ります。

会津にも仙台にも居場所をなくした旧幕府軍は、まだ見ぬ北海の地蝦夷を目指して

榎本艦隊に合流し新たな政府を作り、そこに自分たちの生きる道を

見出そうとしたのです。

 

★北へ蝦夷へ

 

会津の地を去り、仙台に向かった土方は仙台城で軍議に加わる。

ここに大鳥圭介も来ていた。

そして総裁、榎本武揚、副総裁、松平太郎、陸軍奉行、大鳥圭介

土方は陸軍奉行並兼箱館市中取締りという役職につく。

8月27日榎本武揚の艦隊が、仙台湾寒風沢に入港した。

 

10月榎本率いる艦隊は、仙台湾に集結した陸軍の諸隊を収容し北へ向かう。

彼らは最期の拠点を蝦夷に求めた。

 

榎本艦隊が仙台を離れ、蝦夷地に向かったのは10月12日

仙台の松島湾で土方歳三、大鳥圭介らを収容した榎本艦隊は

蝦夷地に渡り、10月20日蝦夷鷲の木に上陸した。

総員2300余名

 

この時の人員は、総師 榎本武揚、副師 松平太郎他

大鳥圭介、土方歳三、新選組の相馬主計、野村利三郎、安富才介、島田魁

横倉勘五郎,蟻通勘吾,山野八十八、中島登、立川主税、市村鉄之助、

田村銀之助、沢忠助、松沢乙造、ら、、、旧幕府軍の兵士たち

他に伊庭八郎ら、ほかに外国人も乗っていました。

そしてもう一つ、この艦にはまだ15 ~16歳以下の少年兵士が

70~80人ほども乗っていました。

彼らが鷲の木に上陸した日のことが書かれた資料があります。

とても興味深いので読んでみてください。

 

★鷲の木上陸  小島常世、小林露竹

 

 慶喜が大政奉還後、奥羽に変乱起こりいくほどもなくこれが

 鎮定を見るに至ったのであるが、余燼なお止まず、、、

 ついに戦雲をはらんで、榎本等艦隊を率いて、慶応4年8月20日

 品川湾を発した、いわゆる脱走軍とはこれである。

 

 そして北上し続けついに鷲の木浜、今の森町字鷲の木に投錨

 10月20日鷲の木に上陸した。

 当時をしのぶに旧10月も末に近いころのこと、積雪すでに一尺余もあり

 さらに蝦夷地の寒郷なので人家とてなく、土人の六居があるばかりで 

 宿る所も無かるべく、また箱舘までは食糧も乏しいであろうと

 予想していたという。

 

 ところが

 

 「鷲の木宿は、開けたる地に非ざれども,人家150軒もあり

  本陣に着すれば、主人袴を着けて迎え、家も巨大にして間数7・8もあり

  上段の間もあり」

 と想像していたのとは、雲泥の相違があったという。

 

 また、この艦に乗り込んでいた幕軍士官の小杉直道は

 鷲の木上陸の状況を記しています。

 

 「この日の午後は風があり、波が高くなお隣艦弁ぜざるほど

  雪が盛んに降って寒気も強かったが、上陸の趣旨を清水谷府知事に

  訴えかつ朝廷にも嘆願書を提出せしむとして、人見勝太郎

  本多幸七郎に護衛30人を附し、風波を冒して上陸した」

 とある。

 

 ともかくも品川沖脱走以来、いろいろの障害にあって傷つきながらも

 ついに蝦夷地上陸の第一歩を、この鷲の木に印し明治維新の完成に

 一つの風雲を巻き起こして、箱舘戦争の序幕が森町で切って落とされた。

 

 脱走軍が鷲の木に上陸した10月20日は、恵比寿講とて漁師の豊魚を

 祈り寿ぐ日であった。

 村人は祝いの酒を酌んで夜も更けるころ、家々の戸がけたたましく叩かれて

 「黒船が来た、起きろ、おきろ」

 と叫ぶ声が村中に響き渡った。

 

 村の中ほどにある者の家の浜辺に、ボートで上陸した脱走兵が納屋に来て

 会所に案内するよう命じたという。

 会所とは村の役所で、当時主たる村々に置かれたものである。

 

 鷲の木村の会所は、村の端にある浄土宗の寺、霊鷲院の下で

 かなり広いものであった。

 上陸後、会所は脱走軍用に供せられた。

 

 脱走軍は、兵を分宿させるため民家の明け渡しを命じ

 人々は混雑難渋したという。
 半年間、脱走軍士官の宿をした松尾孫元老が、父の話を幼時から

 聞き知っての物語の大要を少しだけ、お話します。

 

 ★古老の話

 

 故老の話によると、上陸の時の炊事や給仕に、若い娘を微発したが

 長途の軍旅に髪はぼうぼうと生えのびた荒武者どもに、怖れをなし

 娘たちは逃げ隠れて出る者もなかったという。

 

 脱走軍が鷲の木にいたのは半年余り、、、

 従って民家で村民と起居をともにしていた。

 この間、脱走軍の将兵は公私ともに、いろいろと村人と

 密接な関係を生じていた。

 

 ●松平太郎が森に来ていたときのこと

  筆者の父に残された一つの挿話がある。

  父はそのころ7歳の幼児であった。

  松平が与えた鉄砲をもって、遊ぶのを常としていた。

  ある日、松平に伴われて鷲の木に至り、鉄砲をもって一人で

  砂浜に遊んだ。

  鉄砲掃除器を砂中に押し込んで、遊びにふけっているうち

  いつしかその所在がわからなくなってしまった。

  父は松平に叱責されるものと思い、家に逃げ帰ったという。

 

 

 ●天野新八郎は色の白い美丈夫であった。

  漆黒の豊かな髪を、馬上にうたせて行くたくましい姿に

  村の娘は胸を焦がしたものであった。

  当時、脱走軍に関しこの地方でうたわれた童謡に

  女迷いはすしんび丸というのがある。

  天野新八郎はこのしんび丸に乗っていたのである。

 

 ●毛利金次郎

  鷲の木にあって脱走徒追補の際、逃げおおせたひとりである。

  裏の山の大木のうつろの中に隠れていたが、家人これを憐れみ

  密かに食を運んで助けた。

  後に金次郎はこの家の娘婿となり、村総代も務めたという。

 

 

 脱走軍と村人との微笑ましい様子が伝わってきますね。

 無事鷲の木に上陸した脱走軍は、さっそく行動を開始します。

 10月22日、箱舘への侵攻を開始

 10月26日、五稜郭ヘの入城を果たす。

 10月28日、土方は500の兵とともに松前城攻略に向かう。

 11月25日、城を盾とし江差を攻め、松前藩に勝利して五稜郭に戻った。

 この間にイギリスとフランスの軍艦が来航し、蝦夷地での事実上の

 政府として承認しているのです。

 

 12月25日、蝦夷平定を祝し、各国領事を招いて祝賀パーティーを開く。

 この時、蝦夷共和国閣僚を選出している。

 このまま新政府軍が黙って見逃していれば、日本は二つの政府ができたことになる。

 しかし、明治新政府軍がこのような、独立を認めるわけがない。

 

 

 ●明治2年、新政府軍は蝦夷追討の準備を開始

 日本本土すべてを手中に収めた新政府軍は、北に逃げた脱走軍を追って

 蝦夷地に渡ります。

 

 そして戊辰戦争最後の箱舘戦争が始まります。

 

 

 

戊辰戦争とは新政府軍(薩長)VS奥羽列藩同盟の

薩長を主体とする討幕派と、幕藩体制を維持しようとする佐幕派

諸藩との欲望の対立です。

 

この戊辰戦争は、アメリカの南北戦争に匹敵するものであり、アメリカは

この戦いで人種問題の奴隷解放が実現されました。

 

日本は封建制度の総決算という課題があって、世界史から見ても

重要な事変だったと言えます。

戊辰戦争の初戦、鳥羽伏見から戦い続けて来た佐幕派諸藩も

やがて降伏の時を迎えます。

 

★西軍の発砲は止んだ 降伏の時

 

 籠城した会津の人々の悲惨な城中の模様を見てみましょう。

 

「西軍敵数万、孤城を包囲し一斉に攻撃し連討したる。

 石榴弾は桜楼殿閣に当たって破裂し、轟然天地を振動し

 ほとんど人語を弁ぜず。

 死傷算なく城中火しばしば起こり

 天守閣破壊して登ること能わざるに至る。」

 

「病室はほとんど立錐の地なきに至り、手断ち足砕ける者

 満身びらんしたる者、雑然として  吟す

 榴弾は病室または婦人室に破裂して、全身を粉砕せられ

 肉塊飛散して四壁に血痕を留むる者あり。

 その悲惨、凄愴の光景名状すべからず」

 

 こうして多い日は、一昼夜にして2700発もの弾丸が撃ち込まれた。

 郭内の一角にある藩校の日新館は戦時病院になっており

 旧幕府医学所頭取、松本良順が来て治療に当たっていました。

 

 ところがここでも、理解に苦しむことが多くあった。

 まず、食糧を運び入れることを怠っており米倉にあった大量の米を

 敵に奪われてしまった。

 敵が国境を越えた時も、どうするのかだけでなく、籠城戦になった時

 どうするのかのマニュアルもかけていたのです。

 これでは戦争に勝てるわけがない。

 

 9月に入り朝夕の寒気は厳しく、15日に越後口総督、一瀬要人も戦死し

 食糧もひっ迫していた。

 会津藩はここで降伏を決断します。

 

 ところが城外で戦う佐川官兵衛は

「列藩同盟して戦うゆえんの者は、君側の姦を除かんとするにあり。

 西軍のなすところを見よ、

 民の財貨を奪い、無辜の民を殺し、婦女を姦し残暴極まれり。

 これを姦賊にして王師にあらず」

  と拒否した。

 しかし容保の説得で最後は、帰順の命を奉じた。

 

 9月21日早朝西軍の発砲は止んだ

 

 翌22日、午前10時、降参と大書した白旗を立て、梶原、内藤、秋月らが

 麻裃の礼服を着け甲賀町通りの降伏の式場に入った。

 正午、薩長軍軍艦、中村半次郎らが式場に到着

 

 松平容保、徳川慶喜が式場に入り、降伏謝罪の書を中村に手渡した。

 容保はこの後、鶴ヶ城に戻り重臣、将校たちを召して決別の意を表し

 城中の空井戸と二の丸の墓地に、花を捧げて礼拝すると将兵たちは

 地に伏して流ていしたという。

 

 この日、降伏した会津藩の総員は、4950余人

 この中に婦女子は570余人

 もしもはないが、あの時、白河で勝っていたら、、、、

 榎本武揚がもっと早く参戦し、新潟と平潟湾に軍艦を浮かべてくれたら、、、

 

 遂に9月22日落城

 藩主は幽閉され、東京へ護送されます。

 

 薩長の一翼を担った大垣藩は会津藩を讃えて

 

 「兵食弾薬尽き、かつ寒気加わり人民一層塗炭の苦しみを受けるを憂い降参した。

  戦いは時の運である。

  今日の場合、進退を官軍に任せ多くの人民を救いしは、大勇のいたすところである。

  識者は必ず感嘆するであろう。

  ああ人傑多きかな」

 

 この後、土方は仙台を目指し会津を離れた。

 しかし米沢、仙台にも恭順の声が高まる中、土方はまだ見ぬ遠い

 北の果て蝦夷しか選択の余地がなくなっていた。