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毎日気になる最新のニュースをチェツクします。

こんにちわ

辰年の今年は、元旦から能登地震、羽田事故など

痛ましいことが続きました。

辰年はロッキード事件やリクルート事件など大きな事件が過去に

起こっています。

 

誰もが穏やかで平和な一年でありますように願わずにはいられません。

 

 

★維新の三傑

 

維新の三傑というのは、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允を指します。

この3人は、御一新後、維新の三傑と呼ばれるようになります。

西郷と大久保は薩摩藩士、木戸は山口県萩市の長州藩士です。

 

木戸孝允は幕末期には、桂小五郎と名乗っていました。

御一新後、木戸孝允と名乗るようになります。

なぜ名前を変えたかというと、幕府からの指名手配を受けていたからです。

別人になりすました、、、というわけ。

 

この桂小五郎と名乗っていた男は、木戸孝允という変名の他にも

数々の名前をもっていました。

この男ほど名前を変えた人物はいません。

 

御一新とは、お上の命令によって、世の中が新しくなるという意味です。

徳川の江戸時代から、薩長政府の明治時代に世の中がすべて変わりました。

そしてあの3人を維新の三傑と、呼ぶように学校教育で教えこまれました。

 

それでは、この3人が維新の三傑に価する人物なのか見ていきます。

三傑とは、ある時代の優れた人物を3人選んで言う言葉です。

 

★木戸孝允が御一新後まず一番にやったこと

 

薩長の明治新政府になってから、木戸孝允という男がまず一番に

やったことは、長州閥子分たちの犯罪のもみ消しです。

明治政府の首脳は、こんなことをやっていたんだね。

 

その子分救済に木戸が一生懸命になった事件があります。

●小野組転籍事件

 

江藤新平の司法卿時代における最大の業績が、司法権の確立です。

これは各府県に裁判所を設置して、司法省の下に法権の統一を

図ることを意味した。

しかしこうした改革は、封権派と穏健派の間に激しい対立を惹起した。

 

この小野組転籍事件は、京都府と裁判所の対立に発展し、最終的に

大蔵省と司法省の対立という政治問題にまで、発展しました。

主役は長州閥の大物の一人、京都府参事、槙村正直

被害者は江戸末期の豪商、小野組

そのほかにも井上薫、木戸自身も絡んでいます。

 

江藤新平の創った裁判所は、一般市民にとっては人権の最後の

砦でしたが、長州閥の支配する新政府官員にとっては、ただの邪魔者

以外のなにものでもなかった。

 

そこで木戸は、裁判所など廃止した方が天下のためであり

人民のためである、、、と息巻いたのです。

犯罪ばかり犯している自分の子分を救うためには、裁判所など

邪魔者でしかなかった。

正当な裁判を受ければ、子分は必ず負ける、、、、

だって犯罪を犯しているわけだから、裁判に勝つことはない。

 

だから木戸は、裁判所など廃止した方がいいと息巻いた。

不正を容赦しない司法省、つまり江藤に対する憎悪で

木戸は頭がいっぱいだったのです。

 

不正を容赦しない裁判所を廃止する、、、こういう男が

維新の三傑の一人でした。

木戸にしてこの有様、、、、

また木戸の子分には、伊藤博文、井上薫、山縣有朋などがいます。

 

★木戸の子分たちの犯罪

 

●井上薫、伊藤博文

 

新政府きっての女癖の悪い男が、井上薫と伊藤博文です。

また、井上という男は金銭欲の激しかったことでも有名です。

この二人は新政府以前、幕末のころは高杉晋作の子分でした。

 

子分になるのがよほど好きなんだね。

動乱の時代、この井上と伊藤は、高杉晋作の子分として

女と金を求めて、疾駆していました。

 

こんな伊藤が我が国最初の総理大臣になった、、、

また、井上は大蔵大輔に任命された。

異常な酷い人事です、

 

だいたい井上を大蔵大輔に任命するなど、盗人に財布を預けて

いるようなものです。

井上という男は、権力によって財を成すことに人一倍執着していた。

 

●尾去沢銅山事件

 

この事件は、井上薫が大蔵大輔の官権を悪用して、民間人から銅山を

強奪するという犯罪です。

この事件が表ざたになった時の大蔵卿は、大久保利通でした。

しかしこの時、大久保は岩倉使節団として外遊中で日本にいませんでした。

留守の大蔵省は、井上が私物化していました。

 

こうしてまた子分の井上の事件もみ消しに走る木戸孝允

木戸は自分の仕事などやっているひまなんか、なかったんじゃないか。

もみ消しばかりやっているんだから、、、

 

この木戸は井上の自宅を訪問し、渋沢栄一を交えて事件のもみ消し工作で

談合しています。

千円札の顔の渋沢も、やはり権力側に身を置いて犯罪もみ消しの

談合に加わった男です。

日本の千円札はこういう男の顔でした。

 

●毛利敏彦氏   日本近代史の研究家

 

藩への貸し付けを、逆に藩から借金したことにされてしまった村井

南部藩は御用商人、村井茂兵衛から多額の借金をしていた。

当時は習慣で証文に「奉内借」と書かれていた。

奉内借  内借し奉る

これは藩への貸付金の一部でも、返却されたときに提出することを

想定した文言であり、武家や大名家と町民である商人との間の

儀礼的慣例です。

 

ところが井上は、これを村井が藩から借りているとして、即時

新政府への返却を命じた。

そして大蔵省も村井の釈明を一切聞かず、強引に返済を迫った。

藩への貸し付けを逆に藩からの借金にされてしまった村井は

年賦返済を願い出るが、井上はこれも拒否

尾去沢銅山を没収してしまった。

 

旧幕府時代にも例をみないほどの圧政といえよう。

ここに村井は破産同然となった。

大蔵省の強引なやり方を見ると、藩債返却云々は口実で、当初から

尾去沢銅山没収を狙っていた疑いが濃い。

 

井上は尾去沢銅山を入手するにつれて、すべて公金と官権を

私的に悪用した。

出入り商人、成り上がり政商、岡田平蔵を隠れ蓑に使って

銅山の私物化を図った極めて悪質な権力犯罪である。

 

 

 

井上薫も岡田平蔵も、山尾庸三もみな長州人です。

明治長州閥というものが、いかに醜悪な集団であったか、、、

これが明治新政府というんだから、その後の日本がいかに

極悪政府だったかわかろうというものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

戊辰戦争が終結して、薩長主導の明治新政府が樹立しました。

特に長州が絶対的優位なポジションを占め、その後の日本は

長州が政治的に支配する形で、今日までの歴史を刻んできたのです。

 

明治、大正、昭和、平成、そして令和と、、、、

日本はずっと長州が支配する政治の下で、日本国民を支配してきました。

我が国の公教育の幕末以降の歴史は、長州が主導する官軍教育です。

この官軍教育は、明治時代以降を「近代」と呼ぶように教育されています。

 

近代、、、なんていうと先進的というようなことを思い浮かべますね。

すると近代より前の時代は、古臭い後進的という否定すべきもの、、、、という

教育が令和の今でも、学校で子供たちに教えこまれているのです。

 

それでは、明治維新以降の薩長が創った明治新政府になってからの時代は

本当に近代的な先進的な素晴らしい時代がやってきたのでしょうか。

 

 

★生まれたばかりの明治新政府の実態

 

明治新政府のメンバーはどんな人たちがいたのか。

西郷隆盛、大久保利通、木戸孝充、小松帯刀、大村益次郎、前原一誠

広沢真臣、江藤新平、横井小楠、岩倉具視、、、などがいます。

 

あの福沢諭吉は、権力は必ず腐敗する、、、と断言しました。

その通り討幕という殺し合いを伴う政争に勝利した薩長はこの後

明治新政府を成立させ、福沢諭吉の断言した通りに絵にかいた餅のように

腐敗していきます。

 

明治新政府は確かに腐敗していたし、汚職にまみれていました。

官が特定の民に便宜を図り、双方が利益を得る。

この長州型政治が、今日の日本で生き続けているのです。

 

政治家は自分にとって何らかの得がなければ、動かない。

例えば裏金がたんまり入ってくるとか、選挙に都合がいいとか、、、

自分に何の得もない人間からの要求には応じない。

つまり相手も得し自分も得する、、、双方が利益を得る駆け引き。

それが長州型政治、、、ということです。

 

だから大企業は、政治家に裏金を渡し自分たちに都合のいいように

物事を頼み込む、、、、政治家も金が入ってくるならとその企業のいいように

便宜を図ってやる、、、、

しかし金のない中小企業では、そんなことはできない。

だから日本は何でも大企業優先です。

 

長州型政治は、金のない中小企業や個人など相手にしません。

自分に何の得もないから、、、、

これが今の自民党政治です。

ほとんどの政治家はこの型です、この型が大好きな連中ばかりです。

 

★国民を戦争に追いやった明治新政府

 

あの太平洋戦争に日本国民を追いやったのは、明治政府です。

昭和10年前後から天皇原理主義の暴走で、

万世一系の~~~~~とか

天皇の赤子~~~~~とかという気違いじみたキャッチフレーズとともに

神聖天皇を崇める大運動を展開し、国民を戦争に追いやったのです。

 

その国民を戦争に追いやった戦犯が軍部と文部省です。

その我が国最初の文部大臣が、森有礼です。

この森有礼という男は、薩摩藩出身の急進的というか狂信的というか

それくらいの西欧模倣主義者です。

 

日本人じゃなくて、西欧人に生まれてくればよかったんじゃないかと

思うくらい少しイカレている男です。

こういう男が、我が国最初の文部大臣になった、、、、

明治政府も人材不足だったんだね、、、、

 

この男は、なんと日本語を廃止して英語を国語にしようとした男です。

(国語外国語化論)

そしてその時、イェール大学のウイリアム ホイットニーに意見を求めた。

そのホイットニーは、日本語の廃止に強く反対したのです。

ほんとに薩摩人は、この西欧人の反対がなければ、日本語を廃止していたという。

この薩摩人は何を考えていたんだか、、、、

アメリカに媚を売るつもりだったんだか、、、

 

★ろくでもなし明治新政府の人材

 

また、桂小五郎と名乗った男は、御一新後は木戸孝允と名を変えました。

動乱の時代は、逃げの小五郎とまで言われた男でした。

この木戸孝允は後に西郷隆盛や大久保利通に並ぶ大物になります。

 

山縣有朋、伊藤博文、井上薫などはみな木戸の子分です。

親分の木戸は、子分が犯した犯罪についてはすぐもみ消しに走るのです。

山縣有朋も伊藤博文も井上薫もそれぞれみな、犯罪を犯しています。

その犯罪の理非を問わず、ただ子分というだけで犯罪をもみ消すのです。

子分としてみればこんないい親分はいない。

 

木戸孝允という男はそういう人物でした。

また裁判所廃止も強く希望した男です。

子分の犯罪をもみ消すには、裁判所は邪魔だということです。

 

維新の三傑、、、なんてうそばっかりですね。

この明治新政府の腐敗についても、詳しく次回以降見ていきます。

 

 

 

 

 

 

 

★死ぬためにやって来た蝦夷

 

5月11日袋のネズミとなった箱館軍に新政府軍は、総攻撃を開始します。

榎本ら箱舘軍の閣僚は、生きるために蝦夷までやってきた。

しかし土方だけは死ぬために、蝦夷までやってきたのです。

 

 

北海道へ上陸した後に、榎本が新政府に嘆願書を上皇した時、土方は

「自分が近藤と死をともにしなかったのは、ひとえに君(慶喜)の

  無実を雪ごうとしたためであった。

  今はもう死ぬばかりである。

  あのような嘆願書で、もし罪が許されるならば自分は

  何の面目あって、近藤と地下でま見えることができよう」

 と語っていたという。

 

そして総攻撃の5日前、5月5日、京都以来の従者であった16歳の

市村鉄之助に自分の写真と毛髪、和歌を託して、日野の佐藤彦五郎に

届けるよう命じています。

 

鉄之助は、美濃大垣藩士の子、風雲に乗じて一旗揚げようと

兄の辰之助とともに脱藩し、辰之助の友人である野村利三郎の縁で

新選組に入った、まだ16歳の隊士であった。

 

たとえ身は 蝦夷の島根に朽ちるとも

          魂は東の君や守らん

 

 

★甲鉄艦

 

総攻撃の日、土方の胸には今日までの様々な思いが去来する。

あの甲鉄艦さえ奪っていれば、開陽丸さえ失わなければ、、、、

昨年12月15日、箱館の新政府発足を記念して盛大な祝典を開いた。

昨年の各国要人を招いての盛大なパーティーの日、

 

招かれた各国要人も新政府の樹立を寿いでくれた、、、

英仏軍艦に託して、徳川遺臣による蝦夷地の守備と開拓の信任を朝廷に

求める奉願書を提出した。

 

しかし朝廷はこれを拒否することを箱館政府発足の前日英仏両公使に伝えた。

それが12月下旬になって、箱館政府の前途は難しいという報告が伝えられた。

 

そのころは箱館政府は祝賀パーティーで浮かれていたが

土方だけは諸外国の箱館政府を見る目が、冷えていることに気づいていた。

祝杯などあげている場合ではないと、、、、

 

しかし榎本は、冬将軍という強い味方が守ってくれている間に

我が独立国の基礎を固めてしまえばいいと思っていた。

しかし開陽丸を失って今また、甲鉄艦も失った、、、、

 

この甲鉄艦は、もともと旧幕府が米国から購入した戦艦です。

米国名をストーンウォールジャクソンと言います。

火力において開陽丸を上回る、当時最強の戦艦です。

これは幕府が米国から購入したもので、本来幕府のものです。

 

それがなぜ朝廷軍にわたってしまったのかというと、、、

薩長軍の朝廷軍は、これを手にいれようとずっと交渉していました。

だが米国は、局外中立を盾に引き渡しをずっと拒絶していたのです。

 

ところが12月下旬になって、箱館政府の前途は難しいという報告が

伝えられ米国は甲鉄艦を、朝廷軍に引き渡してしまったのです。

イギリス主導の下、いままで局外中立の立場をとってきた

諸外国は朝廷政府(薩長軍)を日本政府として、認めるようになってきたのです。

甲鉄艦の朝廷政府への引き渡しも、その表われであった。

 

10月13日明治天皇は、徳川の居城であった江戸城へ入った。

英仏蘭の三公使が信任状を提出し、明治天皇政府を承認した。

朝廷政府は、榎本の嘆願を拒否し、11月19日脱走旧幕府家臣団の

追討令を発しした。

 

さらに11月30日英仏公使による箱館政府の交戦団体権否認の

覚書が送られてきた。

箱館政府が交戦団体として、認められなければ諸外国はもはや

国際法上の中立の立場を守る義務がなくなる。

榎本が心を砕いてきた対外工作は、早くも挫折してしまったのです。

 

敵は甲鉄艦ストンウォール号を旗艦に蝦夷地へ向かってくる。

 

そこでこの甲鉄艦を奪う宮古湾海戦を実行したが、失敗に終わってしまった。

この新政府軍の中には、若き日の東郷平八郎がいます。

朝廷軍つまり薩長軍にとって、開陽丸を失った榎本政権の箱館政府は

もはや恐るるに足らない北辺の反徒に過ぎない。

 

日本に二つの政府を認めることなど、絶対にできない。

春とともに息の根を止めなければならない、旧幕府の残党である。

朝廷軍がこのように強気になったのは、箱館政府が開陽丸を失ったのと

入れ替わるように強力な戦艦甲鉄艦を手にいれたからです。

 

明治2年の年明け

開陽丸なきあと、榎本艦隊の旗艦は回天ただ一艦

4月6日、朝廷軍は約2000の兵を満載して青森を出航

4月9日、乙部沖合に到着上陸した。

そして五稜郭本営を狙って進撃を開始、、、

 

土方のいくところ、血煙が噴き上り敵の屍が横たわった。

この土方の奮戦にもかかわらず、戦勢は榎本軍に不利に傾いていく。

そして遂に運命の5月11日を迎えます。

 

★一本木戦死

 

土方歳三が戦死したのは、明治2年5月11日

この日、土方は市中に攻め入ってきた敵を殲滅すべく

一本木の関門に向かいます。

 

一本木とは亀田村(現箱館市内)と箱館(現箱館市西部地区)との

境に立つ柏の大木を目印とし、脱走軍つまり箱館軍が関門を設けて

通行税を徴取した所です。

 

一本木関門を通過し、栄国橋のたもとにさしかかった時

そこに布陣していた政府軍小銃隊は、土方目掛けて狂ったように

銃火を集中し、土方は銃弾を浴び馬上から転げ落ち再び立ち上がる

ことはなかった、、、、

 

そばにいた隊士の沢忠助がかけよって、抱き起したがすでに絶命していた。

土方の死は新選組隊士たちに再起できないような衝撃を与えた。

 

●立川主税手記

 

「また一本木を襲うに鉄丸腰間を貫き、ついに戦死したもう。

 土方氏常に万民を憐れみ、戦に出るに先立ちて進みしゆえに上卒ともに

 勇み奮うて進むゆえに敗をとることなし」

 

 土方の戦死後、五稜郭から脱走兵が続出したという。

土方が戦死したこの日、新選組の最年少隊士、田村銀之助の義父が

亀田街道で負傷して運ばれてきた。

 

銀之助には義父がいた、その義父の命令に従わなくてはならない。

その義父とは,陸軍隊を率いて海を渡る春日左衛門である。

義父とはいえこのとき春日は25歳、、、

 

気が強くて腕も立つ、そのうえ美男だった。

銀之助がなぜ春日の養子になったのか、、、

子母沢寛は,幼年のころ家の事情が込み入っていることもあって

6歳で春日の養子になったとある。

 

銀之助が実際に戦闘に参加したのは、鷲の木上陸後、土方の指揮下

松前城攻略、さらに江差から熊石まで終始従軍している。

 

春日と枕を並べているのが伊庭八郎、二人とも胸部に銃弾を受け

弾が止まっているという重症です。

官軍の総攻撃で、ひっきりなしに銃弾が飛んでくる中で

銀之助は二人の看病をしていた。

 

★春日左衛門と伊庭八郎の最期

 

その春日左衛門と伊庭八郎の二人の最期の様子を後年、

史談会で語っています。

「榎本等が戦闘力尽きて、明日は割腹という覚悟を定めました時に

 榎本自身に毒を入れた薬碗を持ってきて、我々もすぐ後から逝くから

 貴公は一足先に逝ってくれと、薬を勧めました時、伊庭は毒薬ということを

 さとって莞爾と笑って飲み干して、間もなく眠るがごとく落命いたしました。

 これはモルヒネであったのです、ときに26歳でありました。

 私の養父左衛門も薬を飲んで、同時に死去いたしました。」

 

春日や伊庭が死んだころから食糧が尽き、犬猫を食べ尽くし

遂には壁土を剝がして煮て食べたと、後年晩酌の時などに

銀之助が聞かされたという。

 

義父の春日は生前、榎本に銀之助のことをたくし、榎本も大鳥圭介も再三

銀之助に脱して生きよ、、、と伝えたというが

「15の年で命が惜しければ、50でも惜しい、、、

 50で惜しければ70~80でも惜しいのです。

 私も武士の家に生まれたものであって、みなさんと一緒にここに

 立てこもった以上、死するかくごである。

 死に花を咲かせるつもりです」

と答えたという。

 

銀之助は年少であることから、早い時期に赦され黒田清隆のもとに引き取られ

黒田にかわいがられ、よく酒席にもつれていってもらったという。

そして5月18日五稜郭開城

 

明治2年正月に誕生して、わずか5か月で消え去った蝦夷共和国

五稜郭が落ち、ここに明治元年正月の鳥羽伏見の戦いに始まった

維新の内乱は終わりを告げました。

 

1年5か月にわたる戊辰の役に終止符が打たれ、日本全土は

明治政府の統制下に入りました。

 

碧血碑は明治8年、榎本武揚、大鳥圭介らが建立したものです。

土方以下800人の霊が眠るという。