麻疹にかかった総司 | 気になるニュースチェックします。

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新選組が活躍した幕末とは徳川幕府の末期を指す。

この幕末は剣術の黄金期でした。

 

 ★剣術の黄金期

 

 

 当時、江戸の三大道場と言われたのが

 🌸北辰一刀流 玄武館

    千葉周作、清川八郎、伊東甲子太郎,山南敬助、藤堂平助、坂本竜馬

 

 🌸神道無念流 練兵館

   斎藤弥九郎、藤田東湖、武田耕雲斎、渡辺崋山、永倉新八、芹沢鴨、野口健司

   平山五郎、平間重助、渡辺昇、桂小五郎、谷干城、高杉晋作、黒川弥次郎

 

 🌸鏡心明智流 志学館

   桃井春蔵、岡田以蔵、武市瑞山

 

 以上が当時、江戸の三大道場と言われました。

 有名人がたくさんいますね。

 この三大道場のなかから、新選組に入った者もたくさんいますね。

 これに比べると新選組となった近藤勇や土方歳三、沖田総司などがいた

 天然理心流などという流派は、数段格が下がります。

 

 🌸天然理心流 試衛館

   近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎

 

 近藤、土方、沖田たちが学んだ天然理心流

 この流派の免許の「極位必勝」には和歌が添えられている。

 

 荒海の 水につれ添う 浮島の

      沖の嵐に こころ動かず

 

 

 自然に逆らわず、天に象り 地にのっとり 剣理を極めるから

 天然理心流という。

 

 

 ★4人のさむらい百姓たち

 

 新選組の中核になったのが、武蔵国多摩郡のさむらい百姓たちです。

 多摩地方は幕府の直轄地、だから百姓の間で武術が盛んでした。

 

 近藤勇    多摩郡上石原の農業、宮川久次郎の三男として生まれた。

 土方歳三   多摩郡石田村の農業、土方隼人の四男として生まれた。

 井上源三郎  多摩郡日野在の農業、井上藤左衛門の三男として生まれた。

 沖田総司   白川藩の江戸詰めだった父は、浪人して貧しく総司は多摩郡の日野で

                     生まれたからやはりさむらい百姓だった。

        浪人というのは、職を失った者をいう

 

 

 土方、井上、沖田の3人は三代目、近藤周助の時に天然理心流に入門

 そして四代目、近藤勇に従い京へ行って、新選組の中核となった。

 

 ★試衛館一門浪士隊に参加

 

 試衛館一門が浪士隊に参加するということで、小野路村の名主、小島鹿之助は

 近藤勇と土方歳三に刀を餞別として贈ったという。

 総司には金子を贈ったという。

 

 この京上がりには、総司の義兄、林太郎も参加している。

 日野の佐藤彦五郎もよほど加わりたかったが、日野本郷三千石の名主という

 立場上、断念している。

 彦五郎も天然理心流免許皆伝の剣士です。

 

 林太郎には、この時、11歳と9歳の子供がいた。

 そのせいか、浪士隊に加わって京までは行ったが、その後、試衛館一門とは

 分かれてまた浪士隊とともに江戸に帰ってきた。

 近藤が返したと言われる。

 

 ●佐藤彦五郎は土方の姉が嫁いだ相手で、日野の名主で広大な敷地に

  道場を作り、ここで勇や周斎に稽古をつけてもらったという。

  

 ★麻疹にかかった総司

 

  文久2年(1862)年の7月ころより、江戸では麻疹が大流行

  浪士隊が江戸を出立する1年前、、、、

 

  小島鹿之助日記

  「文久2年7月 15日、近藤勇門人、沖田惣次郎殿

   当13日より道助方へ大稽古にまかり出られ、候所

   これまた麻疹躰につき、門人佐十郎布田宿まで馬にて送りゆく。

   病の軽重相変わらず、この人剣術は晩年、必ず名人に至るべき人なり。

   故にわれら深く心配いたす」

 

 総司は7月12日に武州多摩郡小野路村の名主、橋本道助家に逗留して

 小野路村の門人、再造。幸輔、倉之助、金之助、佐十郎の5人を相手に

 3日間剣術を教えた。

 

 この時、総司は謝礼として一人、276文ずつ受け取った。

 そして15日に総司が麻疹にかかったので、門人の佐十郎が総司を馬に乗せて

 甲州街道の布田宿まで送って行ったという。

 そのとき、小島鹿之助は総司の症状が、よくわからなかったので大変心配して

 小島日記に書きとめたという。

 

 文久2年は総司19歳のときです。

 この年の2月、長崎に流行った麻疹が京、大阪に広がり5月に

 江戸に入って来た。

 

 そして7月になるとますます激しくなった。

 ●増訂武江年表によれば

 

 「7月より盛にして、命を失う者、幾千なりや量るべからず

  三味の寺院、去る午年コレラ流行のときに倍して公験をもって日を約し

  荼毘の煙とはなしぬ

  故に寺院は、葬式を行うにいとまなく、日本橋上には

  一日棺の渡ること200に至る日もありしぞと」

 

 現在は大人の麻疹はまれですが、

 江戸時代は20年の間隔をおいて流行し、大人も子供も命を落とす者が多かった。

 

 

 

 総司は浪士隊として京に来る一年前に、麻疹にかかった。

 またこの文久2年の麻疹は、榎本武揚もかかっています。

 当時、榎本は27歳、幕府の命令でオランダ軍艦を注文に行きついでに

 外国の海軍技術を習得するため、留学生として6月18日咸臨丸で江戸を出発

 長崎まで行き、そこから外国船に乗り換えオランダに渡航することに

 なっていたが、なんと長崎についたのは8月23日、65日もかかっている。

 

 そのわけを留学生の一人、沢太郎左衛門が口述しています。

 「そのわけは、6月18日に品川を出発し浦賀によって、すぐ出航しようと

  いうとき波が荒くて出られません。

  そこで滞溜いたしまして、伊豆の下田につきますと、麻疹が大変流行し

  第一に麻疹にかかったのが榎本君、それから私、咸臨丸の乗組員は

  大半麻疹にかかって三分の二以上病気になりましたから、ついに

  下田を出発することができませぬ。

  とうとう8月2日まで下田におりました」

 

 

 総司は京に行ってから労がいにかかります。

 それはこの麻疹が発病の遠因となったという。

 

 結核は結核菌の感染による疾病で、体が強健で抵抗力があれば

 感染しても発病はしない。

 総司は麻疹にかかる前に、結核に感染し肺に小さな初感染巣ができ

 これが自然治癒しないうちに、麻疹にかかったので体の抵抗力が減退し

 肺病巣が暫時拡大し、ついに発病に至ったものと思われる。(森満喜子)

 

 

  大路和子氏は、この時、罹患した麻疹で躰を弱らせ、さらに浪士隊となって

 京に向かう途中の木曽路の旅の、荒くれ男たちでさえ音を上げる寒さに

 総司は労がいの引き金となる重い風邪をひいたのではないかと言う。

 

 古い医学書に

 一家をつくして死するの病なり、兄弟一門すべて死に絶える

 と書いている。

 伝屍病ともいわれる恐ろしい病気であった。

 

 近代医学では、遺伝説は否定されたが、同一家庭内で濃厚感染するのは事実。

 それにしても総司はどこで濃厚感染したのでしょう。

 

 父母の死因は何だったのでしょう

 労がいではなかったのでしょうか