日本の政治はいったいどうなっているのか、、、、
今、加計学園問題で、世間から厳しく批判されている安倍政権
この政権の行く先は暗い、、、、、
それにも関わらず、安倍政権を支持する人たちは一体何を考えているんでしょうか。
当たり前の判断ができない人たちが、安倍政権を支えている、、、
政治家がおかしなことをしたら、怪しげなことをしたら支持率を失う、、、、
そんな当たり前のことも判断できない人たちが、安倍政権を支えている、、、、
そういうおかしな人間的たちに支えられて、安倍政権は持っている、、、、
非常識な人間たちが、非常識な政権を支持している。
この国は6割のバカと4割の常識ある人間がいるという。
だからどんな非常識な政権でも続いている、、、、、
★★★暗殺者に選ばれた人たち
どこの国でもその政府にとって、不要な人物、危険な人物、邪魔な人物、生きていては
困る人物、、、、は暗殺の対象にされます。
日本でもそれは例外ではありません。
この国の歴史において、主要な人物は暗殺の標的にされ、実際に暗殺されました。
血盟団に暗殺された人は、大蔵大臣井上準之助と団伊久磨です。
☆前大蔵大臣 井上準之助
彼は暗殺の対象とされるいくつかの理由がありました。
井上はドル買いの準備として、三井財閥との間でそれに先立つ工作を行っていた。
また、そのドル買いの構想が、宮廷から出たものであることを知っている
日本で数少ない者のうちのひとりでした。
さらに井上はその後、その利益を国に払い戻すよう、財閥たちに強いる要請に
協力しなかった。
その結果、財閥界に見せしめとして、犠牲者に選ばれたのです。
その井上準之助の暗殺者は、小沼 正という青年です。
2月6日の朝、教導師、井上日召は、その空き家に霞ケ浦の下司官、伊藤清美少尉の
訪問を受けます。
その時、伊藤は一丁のブロウニング自動拳銃を持参していました。
この銃は伊藤の中隊長で、その前日、チャペイ偵察の際、撃ち落されて死んだ
藤井斉少佐のものでした。
藤井は教導師、井上日召の兄である飛行教官の愛弟子です。
そして伊藤はその一週間前、その空き家の近所に設置された飛行士による
クーデター本部の司令官です。
伊藤はそのブロウニング銃は
「自らその聖なるクーデターを導けず、悔いをもって戦死した藤井少佐の
魂で輝いている」
と言ったという。
そしてその夜、ある儀式と奉納後、そのブロウニング拳銃と銃弾46発は
井上日召の最も優秀なる暗殺者、小沼 正に引き渡されたのです。
小沼はブロウニングの使い方を二週間にわたって訓練します。
2月9日、午後4時、小沼は教導師井上からの伝言をもった使者を迎える。
その伝言にはこう書いてあった。
「計画通り実行せよ」
午後7時、路面電車から降りた小沼は、井上準之助が選挙演説をする予定の
駒込小学校の門前でぶらぶらと見張りながら、過ごしていた。
午後8時2分、井上蔵相の車が歩道わきに停車した。
その時小沼は聴衆の列から飛び出し、井上蔵相の背に3発発射した。
井上蔵相はほとんど即死状態だったという。
小沼は警察に連行された。
数カ月後、小沼は法廷に健康そのものの姿で現れ、異例の手厚い
扱いをうけたという。
日本の大蔵大臣を殺した殺人犯が、異例の手厚い扱いを受けるとは、、、、
その指令がどこから出ていたか、わかろうというものです。
井上蔵相が暗殺された日、教導師井上は、活動拠点をその空き家から
黒龍会、頭山の自宅の隣にある、天行会道場へと移す。
ここは同会の学生の宿泊所でした。
その宿泊所は、頭山の息子、秀三と頭山の秘書で元中国スパイの本間憲一郎が
営んでいました。
1930年代まで本間は、教導師井上とその仲間たちとでスパイの初級学校
柴山塾を運営していました。
この天行道場と近くの霞ケ浦飛行士のクーデター本部との間は
毎日、使いが行き来していました。
また、血盟団の誓いあった暗殺者たちは、近くの民家に下宿し連絡を取り合っていた。
警察と憲兵は、血盟団と霞ケ浦飛行士についての調査書類は、警察首脳や
憲兵司令官にあげられ、宮廷で慎重な吟味がなされた後、ファイルされたという。
☆団伊久磨
団伊久磨は三井財閥の総師です。
また、彼は国際連盟の調査委員会の一員でもあります。
1932年3月2日、すべての三井系の会社役員たちは、三井銀行の年次報告を聞いた。
そこで「本行は約400万ドルの損失を被った」という報告を聞く。
この報告にも関わらず、3月3日、大蔵省は上海事変の出費をまかなうため
約800万ドルの国債を発行し、それは三井や他の財閥によって購入されることが
期待されると発表した。
全国の大手事業主たちは、、その要請には応じられないと抵抗した。
その夜、血盟団の教導師井上は、団を殺すためのブロウニング銃と16発の銃弾を
彼の学生を使って、暗殺者、菱沼五郎に届けさせた。
3月4日、その夜、団は連盟委員会の訪日を祈念して催された夕食会に参加した。
そしてリットン卿を歓迎して
「貴殿が正しいと思われる如何なる質問にも、私たちは率直に答えることを喜びとします」
そして翌日、午前11時、団は三井銀行の人目につかない入り口に車をつけた。
暗殺者菱沼五郎は、その路上で待機していました。
菱沼はその車のドアを開けようと突進したが、ロックされており窓越しに一発発射した。
団は20分ほどで息をひきとったという。
暗殺者菱沼は、警官が逮捕しに来るのを落ち着いて待っていた。
☆浜口首相
次に、暗殺の対象に選ばれた人物をみてみましょう。
それは浜口雄幸首相です。
彼は その風貌と篤実な人柄からライオン首相と呼ばれていました。
10月22日裕仁が東京を留守にしている間、浜口首相は国家予算案を内閣に提示した。
それは海軍大臣にとって、とても満足するものではなかった。
海軍が要求したのは、5億円、政府が用意したのは3億円、、、、
その後、数週間交渉が重ねられた。
予算確保に努めるという浜口首相の言葉を信じ、1930年10月2日海軍軍縮条約に
裕仁は署名した。
海軍増強計画は、そのほとんどが山本五十六の手によって書き上げられたもの。
ロンドン軍縮会議以後、山本は熱心に4隻の航空母艦からなる日本の機動艦隊の
飛行甲板で海軍操縦士に全天候作戦の訓練を行っていました。
それで20人を超える操縦士が着陸に失敗して、死亡しています。
10月には瀬戸内海で、裕仁もその訓練を視察しています。
そして11月9日、浜口首相はついに海軍大臣を3億7千4百万の予算で妥協させます。
そこで浜口は日本の政府の機構を根本的に改めることを、勇敢に語り始めるのです。
1930年1月13日夕方、西園寺公望の秘書、原田は浜口邸で過ごした後、主将邸を去るとき
「どうぞお体に気をつけて」
と告げた。
そしていつもつけている日記に
「 何事も不幸なことが起こりませんように」
と書き込んだという。
浜口首相の暗殺者は、佐郷屋留雄という男で黒龍会に設立されたある地方愛国団体に
属していました。
佐郷屋は浜口首相暗殺のため、東京にやってきた。
佐郷屋その車中で、一人の親王に遭遇し、彼からその行動を延期するよう説得されたという。
その親王とは、東久邇宮で、海軍演習から同じ汽車で東京に帰るところだった。
警察を管轄する内務大臣、安達謙蔵は、黒龍会の会員です。
1890年代、朝鮮の閔妃殺害にかかることで、皇位に取り入っていたのです。
安達の配下の警察官は、誰かが首相の後を付け回しているという噂を知っていたが
逮捕することもなくしようともしなかった。
佐郷屋はその夜、東京の女郎屋で過ごしていた。
翌日、1030年11月14日、午前9時原田と近衛が密談を交わしていたとき、電話が鳴った。
侍従のひとりが5分前、浜口首相が陸軍の大演習に出かけるため、東京駅で列車に乗ろうと
していたところを撃たれたと告げた。
暗殺者、佐郷屋は東京駅のプラットホームの人ごみのなかから、モーゼル8型拳銃を発射した。
その場にいた2人の医師が駅長室に運ばれた浜口に付き添った。
浜口の苦痛は甚大で、脈拍は90に達し、腹部は大きく膨れ上がって危険を表していた。
浜口首相は、その後9カ月間生きたが、ついに1931年8月26日他界しました。
警察はその犯人、佐郷屋が海軍制限の条約に腹を立てたということ意外、重要な詳細は
何も明かさなかった。
佐郷屋は収獄されないまま、その後3年間を過ごし1933年11月6日ようやく死刑の判決をうけるが
その死刑執行の前夜、裕仁によって恩赦され自由の身となっています。
☆犬養首相
霞ケ浦の飛行学校から数キロの駐屯部隊の町、土浦、、、、、
そこに小さな田舎旅館があります。
その旅館は、閑院や親王たちが長年にわたり定宿とし、芸者遊びや地下世界との極秘の
接触の場でした。
その男、橘孝三郎は外見はただの農夫だが、近衛と東久邇が後押しする大洗のスパイ養成所の
付近にあるトルストイ主義の農業共同体、愛郷塾の指導者であった。
彼とその門下生は、日本の農民の生活をよくするため、体制の変革を目指していました。
そこに霞ケ浦の幹部候補生、飛行士の4人が訪れてきた。
この4人は犬養首相暗殺の計画の任務を与えられていました。
その理由は、犬養が陸軍の予算増強に強力に反対し続け、また蒋介石や他の中国の指導者と
売国的な交渉に関わっているという理由からであった。
その田舎旅館で橘を入れた5人の、策謀会議とは
航空基地の将校は、主要官邸を襲撃し犬養を暗殺する。
橘の農夫たちは、銃や手りゅう弾で武装して、全東京の変電所を襲い
全東京を暗闇と化す。
同時に士官学校生は、霞ケ浦飛行士に指揮されて、いくつかの政府機関を爆破する。
1932年5月15日が明けた
その日の午後5時、霞ケ浦の3人の海軍飛行士、陸軍士官学校の5人の士官候補生
そして海軍予備役大尉が靖国神社の社内に入った。
ここは戦死した12万6363の英霊が眠る殿堂。
満州に向かう将校たちは、すべてがその英霊に祈願するのです。
彼ら暗殺者たちも同じように祈願すると、きびすを返して神社を後にした。
午後5時27分、彼らは首相官邸に到着、その後その9人の暗殺者たちは首相官邸へと入った。
そのころ港地区では、第二のグループが泉岳寺の四十七士の墓参りをすませていた。
第三のグループは、新橋駅に集合していた。
第一のグループは、首相官邸を襲撃し、そこに犬養は浴衣姿ですわり、たばこをくゆらせていた。
となりには義理の娘や主治医がいて、犬養はそこで会話をしていた。
三上海軍中尉が、ピストルを取り出し引き金を引いたが、弾丸は装填されていなかった。
「よろしい、待ちなさい。
私の執務室に行こう、話せばわかる」
後に法廷で三上はこう証言しています。
「最後の遺言に彼が言わなければ、ならないことを聞くのは武士の情けだと私は決めていました。
私は彼になんの個人的恨みもありませんでした。
が、悲劇的なものを感じていました。
すでに革命の火ぶたは切られたのだと自分に言い聞かせていました。
ですから私の殺すという意思になんら変化はありませんでした」
三上と犬養は、執務室にいた。
二人は部屋の真ん中に置かれた机に向かいあい、畳の上に座した。
それに二人の暗殺者が、一人は犬養の側に、一人は反対側に銃を構えて立った。
「靴くらい脱いだらどうだ」
「そんなことはどうでもよい。
われわれがなぜここにいるか、承知のはずだ。
死ぬ前に何か言い残すことはないか」
その時犬養は何か言いたげに頭を上げようとしたが、「問答無用」とわきにいた霞ケ浦の大尉が
叫び中尉が一発を撃った。
犬飼は机の上に突っ伏した。
誰かが「行くぞ」と叫び、彼らは待たせてあったタクシーに駆け戻った。
犬養は死んではいなかった。
家族が彼を取り囲んだとき、
「彼らを呼び戻せ、彼らと話がある」
と命じた。
負傷から1時間が経ったとき、午後7時犬養は彼のわきで閣僚会議を開いた。
第一のグループはタクシーを麹町の憲兵隊本部につけて、投降した。
第二のグループは、四十七士の墓から車で出発し、牧野邸で手りゅう弾を投げ次に警視庁本部に
投げつけたが不発に終わった。
最後に彼らも憲兵隊本部で投降した。
第三のグループは、反橋駅からタクシーで出発し、政友会本部に爆弾を投げ投降した。
愛郷塾の農民たちは、東京の変電所の相当数のトランスに攻撃を仕掛けたが
さほど打撃を与えることはできなかった。
事件が深刻な被害を出していないことに安堵した犬養は、午後8時疲れ果て会議を解散した。
東京帝大からきた二人の医師は、輸血をし、犬養の長男から150gを採血し注射した。
しかし、それは他の外科医から愚かしく命取りになりかねないと批判された。
150gの血は犬養のように鼻から血を流している者にとって、砂漠に落とされた一滴のものでしかなかった。
数分のうちに犬養は、突然半無意識状態に陥り、体を痙攣させうわ言を言い始めた。
高齢ながら驚異的な生命力を見せていた犬養は、午後9時30分意識を完全に取り戻した。
50CCの輸血をうけ、「少し気分がよくなった」と言った。
これが彼の最期の言葉だった。
医師が鎮静剤を注射した。
彼は昏睡状態に陥った。
午前2時36分医師は犬養の死を宣告した。