血盟団 その空き家 | 気になるニュースチェックします。

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GWも終わりましたね。

昨日は希望の党と民進党が合流して旗揚げする新党「国民民主党」の設立大会が開かれました。

高揚感も何もなく、新党ができても期待薄ですね。

この国民民主党結成は、なぜおきたのでしょう、、、、

 

民主党から希望の党または民進党、そして国民民主党、、、、、

くるくる変わっても、人の心は簡単には変わらない、、、、、

党の名を変えても、人も信念も変わらなければまた過去の轍を踏む。

その証拠に両党合わせて100人以上いる議員がこの国民民主党に参加したのはわずか60人台

 

この国民民主党が、明確な展望の下に用意周到に準備されたものではないということを

ここで言っているような、頼りない新党結成です。

党の名さえ変えて人を集めれば、それで人身が一掃するわけではない。

党というより、選挙で自分の身が当選すれさえすればそれでいい、、、、

そういう人間の寄せ集めが、今また党の名を国民民主党と改めて新党結成に至った。

 

 

 

★★★血盟団  その空き家

 

 

 

 4億人の人口を持つ中国、そのうち2億人の中国人はそのほとんどが、西洋の貿易商によって

 持ち込まれるアヘン、ヘロイン、モルヒネの中毒患者となった。

 1911年腐敗し破産した満州政権に対する農民一揆が勃発する。

 

 それはほとんど全土にひろがった。

 反乱者たちは孫文を首長とする国民党に忠誠をゆだねた。

 孫文、蒋介石を含むその門弟のすべては、裕仁の大兄のひとりである近衛宮の東亜同文会と

 頭山の黒龍会の一味だった。

 

 当時の満州皇帝は、5歳のヘンリー溥儀がついていた。

 このころ、満州帝国の実権は袁世凱が握っていた。

 1912年2月、5歳の満州皇帝溥儀は、その座から下ろされここに中国共和国が誕生する。

 

 

 ●傀儡 ヘンリー溥儀

 

  1931年9月30日、奉天攻落から12日目、板垣征四郎の命令で、一人の陸軍通訳が中国のヘンリー溥儀の

  屋敷を訪れた。

  そこは天津の日本租界のはずれにある、簡素な館だった。

 

  溥儀は1908年3歳で即位し、1912年7歳で廃位するまで、みだらな官官と妾の中で育った。

  溥儀が17歳になるまで、中国共和制政府は溥儀とその側近を北京の旧宮廷の一角に保護し続けた。

  溥儀は、弱弱しく虚栄心の強い、めがねをかけた倒錯者として成人した。

  溥儀は日本の甘言にそそのかされて、天津の日本租界へと居を移したのだった。

 

  陸軍通訳のその使者は、こう溥儀に告げた。

  「日本の天皇が溥儀を元首として、好意的に見ている」

  その使者は溥儀に伝言を直接伝えるため、天皇の軍より送られて来たものだと述べた。

 

  そして溥儀は、天津の日本条約軍の司令官事務所に案内された。

  使者はこう告げた

  

 「もし陛下が、満州に来られるなら日本は満州皇帝の就任を準備しており、陛下は再びその

  皇帝となられるでしょう」

 

 スパイ機関のその使者は、板垣に、溥儀が日本傀儡の役を受け入れることは説得可能と

 電報を打った。

 

 かつての中国皇帝、ヘンリー溥儀は代々の満州の皇位を譲り受けて、日本の傀儡となって

 満州を統治しようとしていた。

 哀れなほど無力な若者、溥儀を据えるとの考えは関東軍の手になる近代的警察国家への

 首長にはうってつけであった。

 

 

●東洋の宝石  川島芳子

 

  上海の特務機関の所長は、田中隆吉だった。

  その愛人が東洋の宝石だった、、、、

  東洋の宝石は、1616年満州王朝を打ち立てたヌルハチの直系の子孫だった。

  その父親はむこうみずで、極端な古典的満州皇子で、裕仁の妻、良子の伯父の閑院とは親しい友人の

  関係にあった。

 

  東洋の宝石は、その父親のたくさんの娘の一人にすぎず(第14王女)、1914年彼女が8歳のとき

  父親の日本人兄弟でスパイ機関員の川島浪速に養女として与えられた。

  この養父は彼女に川嶋芳子という名を与え、14世紀のパオ(モンゴル民族のテント住居)から

  東京へと住居を移し、日本人として養育した。

 

  芳子は1920年代の半ば、モンゴル皇子の息子と結婚させられたが、すぐその夫を捨て、東京の中国人街に戻り

  そこで楊貴妃との名で知られていたという。

  そして上海での新年のパーティーで、上海特務機関の田中と出会った。

  田中は彼女を将来、日本のスパイとして役立てようと、英語を学ばせ彼女は自分の役割を充分、会得し

  ヒロヒトの特務集団の陸軍将校との間に、広範囲にその関係は花開いた。

  そしてそれは中国人によって、彼女が馘首されるまで続いた。

 

  板垣から田中へ

 

  「政府は国際連盟に気を使い過ぎている。

   そのため我々の計画に狂いが生じている。

   次の段階として、我々はハルピンを獲得し、満州を独立国にしたい。

   われわれは土肥原大佐に詳細を述べ、溥儀を得た。

  もしわれわれがその計画に成功すれば、国際連盟は大騒ぎし東京の政府はさらに

  困惑するだろう。

  ゆえに私は君に列強の関心をそらすべく、上海でことを開始するようよろしくお願いしたい。

  貴殿がことをおこしている間に、われわれは満州をものにする」

 

 

  1931年10月1日、板垣からの電報に応じて、東洋の宝石の愛人、田中は奉天にむけて汽車に乗った。

 

 ●溥儀 誘拐

 

  日本のスパイ機関の集合的指揮系統は、少年皇帝、ヘンリー溥儀を満州の傀儡統治者に据える

  計画を発動させた。

  その朝、今や奉天市長であり、満州の特務機関長である土肥原大佐は、天津の静寂苑に

  溥儀を訪ねた。

 

  溥儀は自分の宮廷を奉天に移すことは、日本が満州征服を完了し、国際連盟との悶着に決着をつける

  以前では、いかにも順序が逆であると言い含められていた。

  土肥原が甘言で誘い、議論をふっかけても溥儀は岩のように動かなかった。

 

  そこで東洋の宝石に動いてもらうことにした。

  翌日、東洋の宝石の彼女は静寂苑を訪ねた。

  溥儀の妻のエリザベスはアヘンに狂う女だったが、東洋の宝石との交友もよみがえらせた。

  夕食をともにし、溥儀も天津にいる限り自分の家だと思って滞在してくださいと歓待した。 

 

  それから4日間が過ぎた。

  溥儀はなおも躊躇し続けていた。

  東洋の宝石は、2匹の蛇を溥儀のベッドに忍び込ませた。

  

  11月8日、たまらなくなった土肥原は、天津の中国人地区で、一連の夜間暴動の最初の騒ぎを起こさせた。

  そしてこの騒動を口実に、11月10日、日本の駐屯軍司令官は、、日本租界に戒厳令を布き

  静寂苑を護衛部隊と武装車輛で取り巻いた。

  恐れをなした溥儀は、ようやく満州に避難することに同意する。

 

  溥儀は土肥原の車のトランクに押し込まれ静寂苑から誘拐された。

  車はやがて暗闇のなか、日本租界の外のレストランにつけられた。

  溥儀はトランクから引き出され、日本軍の外套と帽子をつけさせられ、その変装で日本軍将校車に

  乗せられて脱出し、英国租界にある桟橋へと運ばれた。

 

 そこには一隻のランチが待っていた。

 そのランチの船底に押し込まれ、シナ海へと向かった。

 その河口で一隻の商船、淡路丸が投錨していた。

 

 溥儀は甲板長の椅子にくくられて乗り移り、淡路丸は関東軍租界地にむけ、航行を始めた。

 翌日、日本の南満州鉄道が所有する営口波止場で、溥儀は甘粕正彦率いる一団によって

 迎えられた。

 

 12月になると妻のエリザベスも、東洋の宝石になだめすかされて、ついに溥儀の元にやってきた。

 

 

 ●ドルで稼ぐ

 

  全満州を奪い、それを傀儡政府の下に置こうとする陸軍のそうした準備が進む中

  東京の裕仁の大兄たちは、ドル買いの責任をとらそうと、適当な政治力の結託つくりに精を出していた。

  それは戦争の資金つくりのためである。

  

  円がインフレ化した価値に維持されていたため、海外の日本の投機家たちは、最初、手持ちのドルを

  現物商品に換え、次にそれを円に換えた。

  三井の繊維部門の担当者は、アメリカの綿を大量に買い、それを日本に輸送し、日本の安い労働力を使って

  綿布に織り上げそれをインドや中東の市場に洪水のように放出した。

 

 日本の事業家はこうした通貨売買で資金を倍増し、さらに国内のインフレと資金との格差から

 膨大な利益を得た。

 日本の財閥と横浜正金銀行は、あわせて6万万ドルを生み、それを現金化することにより

 2億ドルの利益を稼ぎだしたのであった。

 

 ドル買いとは記録的な巨額を投じた投機的横領ともいわれるべきもので、日本の産業界に

 大量の賄賂資金を補給すべく計画されたものだった。

 

 ●スパイ活動

 

  1931年9月末から1932年5月末まで、日本は海外での戦争、その恐れ、、、、、、

  国内での暗殺、その恐れ 、、、、、

  さらに国内外双方にわたる賄賂、恐喝、というもつれあった脅迫の糸に縛られていた。

 

 ある情報提供者が呼ぶところの文民スパイ機関については知られていない。

 その活動を記録した数少ない文書も毎年、破棄されている。

 1945年の米軍占領までには、その最後の公的暗号名も抹消された。

 

 しかし残された手掛かりは、それが日本政府の公設機関ではなく、天皇にまつわる人々と

 彼の豊富な秘密資金の周辺で、知人関係を媒介に出来上がり、成長していった特異な組織であったという

 ことを物語っている。

 すべての証拠が示すもの、それは裕仁がその組織構造を裕仁の祖父から引き継いでいたということである。

  

 そのスパイ機関の陰の指揮者たちは、様々な半自治的諜報組織、すなわち陸海軍の諜報部

 巨大財閥の市場調査課、文化的、学術的目的を持った研究機関、、、といった

 組織をまとめる中枢機関として動いていた。

 

 

 ●常陽明治記念館

 

  そうした文化的、学術研究機関の最も重要なものが、大洗、東京から80キロ北東の旧尊皇派の拠点

  水戸の近くにある保養地、常陽明治記念館である。

  当館の幹部は、1920年代に皇典研究所と呼ばれた皇居内の非公開組織を通じ、その報告書を

  裕仁の顧問たちに送っていた。

 

 常陽明治記念館の館長は、田中光顕という日本古参のスパイである。

 蜘蛛、、、と呼ばれることもあったという。

 蜘蛛の田中は当時89歳で、完全なつんぼであった。

 しかし彼は96 歳まで健康に生きた。

 彼は1898年から1911年まで宮内 大臣として仕え、また陰謀を暗躍するテロリストたちを提出した。

 

 蜘蛛の田中は、土佐藩士として1863年に京都に上がり、明治維新、王政復古をめぐる陰謀に加担した。

 そして25歳のとき、最も重要な港、神戸の判事長に任命された。

 1871年岩倉具視がアメリカやヨーロッパに視察旅行に出かけた際には、秘書兼スパイとしてそれに随行した。

 

 1889年学習院の校長となり、明治天皇の息子の教育係になった。

 田中は13年間の宮内大臣を終えた後、明治天皇の公式伝記執筆を監督する。

 これが田中が常陽明治記念館を設立した表向きので理由であった。

 

 明治後の20年間、蜘蛛の田中は、スパイ組織を監督し、1931年までにそのスパイ網はアジア全域から

 南はオーストラリア、西はイランまでおおうものとなった、

 さらに1941年までにそれは全世界へとひろがり、ヨーロッパなどの主要都市にその工作員を配置した。

 

 ●ヴェスパが書き残した記述

 

  日本と欧米との戦争が勃発したとき、ルーズベルト大統領は、第五部隊の動きを深く懸念し、アメリカ西部

  沿岸に住む日本人を両親とするアメリカ人を内陸の収容所に強制収容する許可を与えた。

  第五部隊とはスパイ行為によって、国内の情勢を敵国に通報し、また敵軍の国内への進撃を助けるような

  裏切り行為をする一段の人々のことである。

 

 

  1941年フィリピンに日本軍が侵攻したとき、アメリカ人入植者はフィリピン在住の日本人大工や石工が

  日本の占領政府組織の上位にたち、登っていくのを見て驚かされたという。

  バギオでは、日本人社会の命令系統の網が、最初の日本軍が到着する以前から在住しはじめ

  活動を開始していた。

 

  そうしたスパイ網の個々の役割を引き受ける、そうした特異な感覚はイタリアから国外追放された

  元黒シャツ党員で、本国においても警察庁長官や諜報専門家となったアムレス ヴェスパが1936年に書いた

  本の中にも描かれている。

 

  日本人はそうした彼が書いたものを直ちに打ち消そうとした。

  だがヴェスパは長年の経験を持つ、その道の専門的観察者であった。

  ヴェスパは一時、張学良に雇われていたが、奉天攻落後の5か月後、日本のスパイ機関の関心をひいた。

  そして日本のスパイ機関で4年間を過ごす。

  

  しかし、そこで失望と絶望を見出して脱出、、、、

  中国へ行ってその本を書いた、、、、

  戦後の裁判で、彼の描写や日付が正確であったことが、明らかとなった証拠が示した。

 

  彼は満州で、日本人に人質として、捕らわれている妻や子供を解放させるため、脅迫状のつもりで

  この本を用心深く執筆したという。

  その原稿の写しは家族を解放したが、給料は支払われることはなかった。

  その本を彼は本国で出版した。

 

  ヴェスパは最初、そのスパイ機関に土肥原によって紹介されたという。

 

  ★ヴェスパが書き残した記述

 

  「 この驚く人物の下で、服務のいかなる時でも、私は彼の名前も、その人物詳細も一切知り得なかった。

   また彼はどんな宴会にもパーティーにも誰の家にも、姿を見せなかった。

   彼は謎めいた旅行に出る際には、常に自分の専用車で、自由に使える飛行機を使っていた。

 

   彼の英語は日本人にしては珍しくほぼ完ぺきで、私は彼を外国に長く住んだに違いないと思った。

   私は彼が語ったほとんどすべての言葉を、思いだすことができる。

   

   ヴェスパ君もし土肥原大佐が、気味に何か不愉快なことを言っても、どうぞ気にしないでほしい。

   彼は私の下で何年も働いてきた。

   その責任は果たしているが、自分の信用を失くすたくさんの失敗も犯している。

   たとえば張作霖元帥の死が、みごとな出来栄えだったと考えられるかね?

 

   私は決して表面に姿を現さず、心底からの日本人であることを除き、ことさら特徴のないことを

   こころしておきなさい。

   君の任務は私の手足となることだ。

   私が君にこの任務を与えるのは、君を信用しているからではない。

   帰化中国人である君なら、いつでも撃ち殺すことができ、それに我々は君の家族を預かっている。」

 

 

   

  もし、この手記とヴェスパが真実を話しているなら、この人物は宮中の最高身分に属する人に違いない。

  ヴェスパは、文民組織に属す彼の上司と、特務機関とを注意深く区別している。

  二者は緊密に協力しあっていながら、軍部の上司は私服の上司に常に従っていた。

 

  ヴェスパは軍部の上司の名は頻繁に耳にしており、1932年から36年の間の3人の特務機関の長を知っていた。

  だがこの文民組織の上司の名は知らなかった。

  しかし文民組織の第二の人物はシベリアであったことがあった。

  日本人紳士録には、この人物は武田額三という若い華族であった。

 

  1918年から1928年の間、彼はスパイ組織の中に姿を隠し、裕仁の二人の伯父や、小松輝久らと

  密接な関係をもって軍部諜報で働いていた。

 

  ●愛郷塾

 

  超国粋的行動集団とは

  クーデターによる威嚇に熱心で、天皇に成り代わりその陰謀を計画し、その実行を

  本望としていた集団

 

  そうした集団の一つが愛郷塾と呼ばれる組織です。

  この集団は暗殺者を提供し、水戸と大洗を結ぶ支道を16kmほど下ったあたりに48000㎡の

  土地をもちトルストイに傾倒した自営農民組織を営んでいた。

  1930年近衛と東久邇は愛郷塾に寄贈を行い、その地に学校を開設し、愛郷精神を教え始めた。

 

 そしてさらにもう一つの集団を血盟団という。

 中国で訓練中の学生スパイから選抜された、つわものの中核集団です。

 彼らはみな常陽明治記念館の付属学校として、大洗に設立された二つの学校の卒業生だった。

 (護身武道と霊魂教化を教える)

 

  そしてさらにもう一つ、決死隊

 大洗の南50kmの霞ケ浦にある航空訓練基地に属する、海軍航空隊将校から選抜されていた。

 彼らはみな山本五十六の教え子たちである。

 そして日本の空軍力の開拓者、久邇宮(裕仁の妻、良子の父親)の追随者たちであった。

 

 彼らはさらに皇室直結の皇族の中での5人の飛行家のうちの筆頭、魚雷攻撃、テストパイロットである

 山階親王とは日々の訓練の同志であった。

 

 

 ●血盟団 その空き家

 

  その空き家は東京の北部にあった。

  その空き家は中国でスパイ活動の長い経験のある、あるベテラン諜報員の所有だった。

  しかしほぼ一年前、彼はそこを去った。

  彼が去って間もなく、その家で灯りがみられるようになった。

 

 近くに住む人たちが、警察を呼ぶとその時はいつも灯りは見られず、中には誰もいなかった。

 いつしか地元の警察も見逃すように指示されていた。

 見逃すよう指示されていたのは、その空き家がテロ志向グループの一つの秘密本部となって

 いたからであった。

 

 その空き家は血盟団という牧野の手下の大川が、蜘蛛の田中の支援を通じて接触をとっている

 三つのテロ志向グループの一つだった。

 その夜はある入会式の会場となっていた。

 

 その空き家で井上は、門弟たちの間で最も献身的な者たちを迎え、裕仁の使命の遂行を妨げる

 者を暗殺する準備を完了しようとしていた。

 2カ月間、井上の血盟団員は政治家たちにテロ行為を浴びせていった。

 

 この行為は日本の自由主義者たちを、国際連盟の調査団と率直に話すことを妨げた。

 血盟団のこの暗殺が完遂されるまで、不思議なことに警察の逮捕から団員は逃れられた。

 それはその後ろ盾に影響力の人物があるからこそ可能だった。

 

 井上は大兄の近衛や東久邇と懇意な間柄にあった。

 井上は大川から命令を受け、大川は牧野より宮廷に置いて直接受け取り、特別の仲介者を経て

 井上に伝えられていた。

 

 さらに井上は霞ケ浦の航空基地の海軍飛行士たちの支援も受けていた。

 飛行士たちは彼に拳銃や武器を提供した。

 空き家に近い場所にはクーデター計画の司令部も設置していた。

 こうした密接な関係は、井上の兄、井上二三雄が海軍中佐であり、飛行士たちはみな

 彼の教え子であった。

 

 井上二三雄は、霞ケ浦の主任飛行教官だった。

 皇室のテストパイロットの山階親王や山本五十六に操縦を教えたのも、彼だった。