暗殺者たちのその後 | 気になるニュースチェックします。

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日本はまともな国ではありません。

未曽有の大事故を起こし、その安全性や経済性が破たんしているにもかかわらず

なおも原発再稼働に固執する日本という国、、、、

 

失言、暴言、虚言を吐き出す政治家たち、、、、

日本の中枢は腐った者たちで占められている、日本という国、、、、

 

戦争に備えるためと言いながら、戦争への道を開きそれに突き進む政府

その大いなる反省から生まれたのが憲法九条、、、、

いつか来た道を二度と突き進まないために生まれた憲法九条、、、、

それが瓦解されようとしています。

 

原発再稼働に固執し、失言、暴言、虚言を吐き出す腐った政治家たちが

反省などなく、戦争への道をまたも開こうとしています。

その証拠に今、自衛隊は戦力化しつつあります。

 

 

★★★暗殺者たちのその後

 

●リットン調査団

 

 リットン調査団とは、国際連盟によって、満州事変や満州国の調査を命じられた

 リットン卿を団長とする5カ国からなる調査団です。

 満州事変が起きると中国は、直ちに国際連盟に提訴しました。

 そしてリットン調査団は、1932年2月29日に来日し、日本、満州、中国の各地で調査にあたった。

 

 国際連盟の5代表による調査団は、英国人リットン卿に率いられていました。

 その時、リットンは56歳で、腎臓病のため不機嫌で短気な人物でした。

 そのリットンに率いられたリットン調査団は、満州事変についての報告書を作るため

 仏、独、伊、米、英からなる調査団が2月29日横浜港に着いた。

 

 そしてリットン調査団は、1932年10月2日に報告書を世界に発表しました。

 満州事変は日本の侵略行為であり、自衛のためとは認定できないというものだった。

 そして報告書はこう結論づけていた。

 「宣戦布告もなく、紛争の余地もない中国領土の広大な部分が、日本の武力をもって

  強制的に奪取され、占領され、その作戦行動の結果、、、、、

  中国の残された部分から切り離され、その独立が宣言された」

 

 リットン卿は持病の腎臓が思わしくなく、北京の病院に入院しベッドの中で

 国際連盟に提出する報告書を書いた。

 その報告書は完全に機密とされました。

 

 その報告書の中でリットン卿は

 「実施された警察の措置の結果、目撃者は遠ざけられ、多くの中国人は私たちと面会すら

  怖がり、したがって聞き取りは、通常極めて困難かつ秘密の中で設置され、そうした困難にも

  かかわらず我々は、事業家、銀行家、教師、医師、警官、商人その他の人々との

  個別の聞き取りを行うことができた。

  我々はまた1500通以上の書面のやり取りを行った」

 

 2月17日ジュネーブでは、連盟19カ国委員会が、リットン報告を連盟総会に取り上げることを

 推奨し日本に反対する立場の15000語の要約を発行しました。

 その要約は世界中に向け、モールス信号による10時間の短波放送を通じて大々的に流された。

 

 ニューヨークタイムズはその放送を翻訳し、翌朝、その全文を掲載しました。

 そして24日、連盟総会はジュネーブ湖畔のパレデナシオンで開催され、日本に対する

 リットン卿の判定を受け入れ、19カ国委員会が承認するかどうかを議論し

 その結果、日本は42対0で非難されました。

 

 ●壮大な準備の下で

 

  調査団は日本だけでなく、満州や中国にも行って調査を行っています。

  その調査団が中国に行っている間に、裕仁は元ソ連大使、渡久雄大佐を

  調査団に対して、何事が起ころうともそれに対処でき工作する任を渡に与えた。

  渡は11人の選良のなかで、アメリカ問題の専門家でした。

 

  そしてその任を与えられた渡は、調査団に対して壮大な準備をするのです。

  調査団が何を、いかなる時に見たいと望もうとそれに即座に対応しなければならない。

  調査団の求めに即座に応じなければならない、、、、

  そのために次のような壮大な準備をして、調査団を待ったのです。

 

 満州国の刑務所に入れられている政治犯や、満州国病院の英語やフランス語を話す

 患者はその独房や病院から移動させた。

 そして調査団がいる間は、地方の収容所に送られた。

 

 数千人、ハルビンだけで1361人の者たちが拘束された。

 リットン調査団に告発状を渡そうとした者の逮捕に結びつく情報を提供した者には

 立派な賞状が与えられた。

 

 すべての満州の住人は、リットン調査団が滞在している間だけ、玄関先に満州の国旗と

 窓に貼る溥儀の安っぽい写真を一組一円で買わされた。

 その利益が10万ドルにもなって、軍に入ったという。

 

 調査団に聞き取られることが予想される南満州の職員は、何を言うべきか、、、、

 慎重なリハーサルが実行された。

 あらゆるアヘン窟は掃除され、文化会館、または社交クラブと表示された

 看板が掲げられた。

 

 すべての日本の制服は一掃され、新調の満州国のものを着ることになった。

 調査団が宿泊するすべてのホテルでは、彼らの部屋に隣接する部屋は日本人や

 白系ロシア人の諜報員に割り当てられた。

 

 受付、ベルボーイ、給仕、客室係、ボーイ、メイド、まで特別に訓練された満州国政治警察の

 工作員に置き換えられた。

 主要な商店、売り場、レストランにはスパイたちが配置された。

 

 ハルビン諜報機関の支所長は、500人分の満州国陸軍の制服を、その機関が雇った地元の

 盗賊に支給した。

 渡はリットン調査団を迎えるにあたって、こうした壮大な準備を手配し終えたのです。

 それにもかかわらずリットン卿の眼は、事態を正しく見抜いてその報告書を作成したのです。

 

 ●暗殺者たちのその後

 

  ヒトラーの名は一夜にして世界中で、悪魔の代名詞となった。

  ヒトラーが権力を握ったとき、51人の政敵が暗殺されて、帝国議事堂が焼かれました。

  裕仁の場合は、犬養首相、団男爵、井上蔵相が死んで3つの小さな叛乱の後でも

  なんら裕仁は注目されなかった。

  注目されずに置かれただけでなく、未だタブーに覆われている。

 

  裕仁の特務集団の中で、そうした叛乱の詳細は知らされていない。

  戦後の日本は、こうした謀略の話を話すことはほとんどない。

  ほとんどないどころか、タブーでさえある。

 

  裕仁はこの後、自分の無垢を大衆に信じ込ませることに専念していく。

  そして日本の社会では、その叛乱をただ漠然と五一五事件と呼ぶ。

  犬養暗殺の日、関東軍司令官の本庄繁はその日記に

  「統治者の監視下の下で、行動中の軍人たちが、今日むこうみずな

   禁ぜられた行為をもって、その権威に挑んだ」

 

  そして陰謀が成功するとそれに貢献した脅迫者や暗殺者たちを皇位は

  すべて手厚く面倒を見た。

  スパイ機関の蜘蛛こと、田中光顕89歳に生涯仕えた者は内務大臣となり

  警察を管轄しました。

 

  その田中の下、警察は法律に従わない者を続々と逮捕し目覚ましい活躍をした。

  裕仁の大兄の半分は、東京帝国大学法学科を出ており、その人脈を通じ彼らは

  裕仁の体制下の司法と警察の両組織を固めることができた。

 

  陰謀に資金を提供しようとした徳川男爵は、丁重に尋問された。

  愛郷塾の指導者、橘は本を執筆するため満州へと逃亡した。

  その後、関東軍の憲兵隊に自首し、特別扱いされた上、一連の儀式を演じた。

 

 黒龍会の頭山の秘書は、自分が逮捕されるよう交渉して自ら逮捕された。

 同じく黒龍会の頭山の息子、秀三は自分から警察の保護観察に下った。

 血盟団の老いた従犯は、在宅拘禁中に妻の腕の中で死亡した。

  彼は国の組織葬が催され、大兄の近衛を含む数百人の右翼が参列した。

 

 遅々とした逮捕が続き、温情なる尋問の後、五一五事件の殺人犯は、法廷で長々と

 とりとめのない証言をし、重要なことは何もしゃべらず一年を送った。

 その殺人犯の誰一人として、不思議なことに重罰は科されなかった。

 

 収監された54人の殺人犯とその共犯者のうち、1935年までに6人を除いて

 その全員が自由の身となった。

 暗殺集団を率いた6人も1939年と1940年には釈放された。

 

 霞ケ浦の飛行士たちを扇動してきた空飛ぶ皇族の山階はその後、神経衰弱を起し引退した。

 蜘蛛の田中は、常陽明治記念館を博物館として公開した。

 蜘蛛の田中はそこで祝賀会を催し、それに東久邇が皇室を代表して参列した。

 

 大川は1932年に逮捕されたが、1935年に出獄した。

 すると裕仁は、即座に大川を南満州鉄道の東亜経済調査局局長と、法政大学学部長の

 職に就かせた。

 

 血盟団の教導師井上は、刑務所でよい扱いを受けながら8年間を過ごした。

 出所すると横浜の近衛の屋敷に、木戸の情報収集役として住み込んだ。

 その時代は、物資の乏しい時代だったが、近衛の制限のない配給票によって太った

 浪費家となり享楽な日々を過ごした。

 

 犬養のこめかみから鼻まで撃ちぬいた三上も1940年に釈放された。

 その後、三上は無職で21年間も過ごしたが、生活は快適そのものだった。

 21年間の快適な生活費は、どこから出でいたのか想像がつきます。

 その三上が作った歌が軍隊でさかんに歌われた青年日本の歌です。

 

 青年日本の歌   三上卓

 

 泪羅の淵に浪騒ぎ

 巫山の雲は乱れ飛ぶ

 混濁の世に我立てば

 義憤に燃えて血潮わく

 

 三上が60歳後半になったとき、裕仁が後援する愛国的クラブで講演生活を送った。

 

 東洋の宝石の彼女は、親族の溥儀を傀儡皇帝に仕立てることに献身し、ある日本の財閥の

 支店長や特務機関の護衛らとベッドをともにする常軌を逸脱した行動を繰り返し

 1932年に愛人の田中は彼女を満州に移した。

 二次大戦中、容貌の衰えを見せ始めた彼女は、北京の中国人社会の税関となった。

 1948年蒋介石の戦争犯罪裁判の命令で、斬首された。