



お一人お一人お顔が違うように魂も違います。
そのあなただけの魂のメージを絵に描いてお渡しします。
また、あなただけの似顔絵が誕生した由来の
ちょっとしたメッセージも付けてお渡しします
先日逝った父の似顔絵です♪
詳しくは ↓ こちらを・・・
http://ameblo.jp/midoriecoban/entry-11355110438.html 体罰(暴力)について思うことを・・・
体罰(暴力)って・・・・!
意味が分からない・・・!
暴力(言葉も含む)は人を「恐怖で押さえつける」ただそれだけのことだ。
恐怖で人を思い通りに操ったところで
なんの充足感があるのか・・・・!
意味がわからない。。。。
だいたい人を思い通りに操ることってファシズムだ。
では、なぜそういう構造になるのか
それは暴力(言葉含む)振るう側に「恐怖」があるからだ。
「恐怖」・・・。
その人たちの立ち位置によって細かい「恐怖の設定」はあると思うけど
要するに自分の立場や威厳・役割・尊厳などが脅かされることの恐怖を
暴力(言葉含む)という手段で埋めようとしているだけのことだ。
なぜ暴力でしか脅かされることを埋めることができないのか・・・。
威圧を相手にかけて思う通りに操る・・・。
なんとみじめな事か・・・。
おそらく自分もそうやって暴力で言いたいことややりたいこと、
存在までもがねじ伏せられてきて、
それが人生なんだ、苦難や我慢が人生というものであって
決して楽しさや喜びを求めてはいけないのだ、
もし求めてしまったときには
即 苦しみがやってくる罰がやってくる・・・と、
思い込まされてきたのだ。
だから、人が自由で楽しそうだと感じると
暴力(言葉含む)でそれをねじ伏せようと躍起になる。
もしくは自分のそうやって苦労して苦労して手に入れてきた今の場所を
脅かされそうになった時にもねじ伏せようと躍起になる。
または、自分のフラストレーションのはけ口として、
大人としての立ち位置を利用して子供を利用するのだ。
なんとおそろしい
もしもその暴力(言葉含む)人が
愛にあふれ充実していて魂から幸せを感じて過ごしていたら
決して暴力な(言葉含む)どは振るわないし、
自分の立ち位置を脅かされることもないし、
道を迷いそうな人を見たら決して暴力で導くことはないだろう・・・・。
暴力(言葉含む)・競争(争い)・戦い・比較(差別)・etc・・・・
それはもう古い価値観だ・・・・と、心底思う。
インディアンの教えにこんな一説があることを思い出した。
「放った矢は必ず自分に返ってくる」
自分を「愛」で満たした人は、人にも「愛」でしか接しないと思います。
まず自分で自分を「愛」で満たすように・・・。
世界中が「愛」で満たされますように・・・・
・・・・まずは自分ですな!!
今日は立春
新年の始まりです
新しい年に感謝
読んでいただいてありがとうございます