



お一人お一人お顔が違うように魂も違います。
そのあなただけの魂のメージを絵に描いてお渡しします。
また、あなただけの似顔絵が誕生した由来の
ちょっとしたメッセージも付けてお渡しします
先日逝った父の似顔絵です♪
詳しくは ↓ こちらを・・・
http://ameblo.jp/midoriecoban/entry-11355110438.html掃除中に気づいた事・・・!
ちょっと前1/21に、
またまたトイレ掃除していて気付いた事がありました
(よく掃除中に気づきます )
人・物すべてに波動があるんだよね・・。
ということは便器にも便器の波動があるんだよね・・・。
あ!!!そうか!
もし、私がここで
「トイレなんかじゃ嫌でしょう?別の使い方してあげるね」
なんて思って別の使いかたをしたとしても
きっと便器はものすごくはた迷惑で嫌なんだろうな。
だって便器には便器として生み出されてきて
その使命を全うするという目的があるのだから。
自覚があるかないかはわからないけれど。
その目的を果たそうとしているのに、
横から余計な情(エゴ)でもって「可哀相」と決めつけて
別の生き方を用意しようとするなんて
なんという傲慢な事なのか!
(たとえが便器でスミマセン・・・ )
これは人にとっても同じことが言えるのではないだろうか・・・。
他人を見て「なんてかわいそうなんだ」と思ってしまう情。
この憐みの情が悪いとか言うのではなくて
(感情を持ち、それをちゃんと感じ、そして手放す。
起きた出来事に善悪はなく、起きた出来事で起きた感情を味わったら
その感情に執着せず人を恨まず手放すことは生まれてきた目的の一つだと思う。執着したり人を恨んだり自分を卑下したりすることが恐るべしマインドの罠だと思う・・・!)
その自分の情におぼれて情に振り回されてしまうことは
その情をかけられた人にとっては
いい迷惑なのではないだろうか。
情をかけられた人は情をかけた自分から見ると
とても哀れで可哀相な状態なのかもしれないけれど
本人にしてみれば
本人自ら望んだ経験(自覚がないにしても)なのだから、
よそからああだこうだと、憐みから余計な道筋をおぜん立てしたり
おせっかいをしたり、へんな同情をすることは、
とてもその人に対して失礼なのだ。
その人はその人の人生・生きる目的を持っていて
その道を一生懸命に生きているだけのことなのだから
そばで見ている自分としては「可哀相」と思ったとしても
思っただけにとどめる。あとは流して
その人のそばで敬意をもってその人の人生を見守る・・・
困難な人生を自らが望んで
その道を歩んでいる人に対する尊敬と敬意。
それだけで良いのだ、きっと。
それは自分に対しても言えることなのだ。
人同士、お互いにお互いの人生を尊重し合える。
そうやって関わっていると
すべてが必然で自然な流れが生まれてきて
助長しあうべき時には自然にそうなっていくのではないか。
そんな風に思います・・・。
読んでいただいてありがとうございました