「女性活躍の先陣、森山眞弓さんと赤松良子さん」の続編です。

 

  赤松良子さんの「私の履歴書」(日経)は、25日付でクライマックスを迎え、日本が女子差別撤廃条約に批准した直後の世界婦人会議(85年、ナイロビ)の場面。森山眞弓外務政務次官が政府の首席代表を務められました。

 

  森山さんが演説で、与謝野晶子の詩「山の動く日は来(きた)る・・・すべて眠りし女(おなご) 今ぞ目覚めて動くなる」を英訳して読み上げたのを知り、うれしくなりました。私は与謝野晶子の大ファンで、高校時代、現代国語の授業で2回連続、与謝野晶子について発表し、先生が「うーん、すごいね」と唸ってくれた経験があります。

 

  この会議で、「中曽根康弘総理のメッセージ」の原案を書くなど事務方として走り回っていたのが、私の親友、石井淳子(あつこ)さんでした。

 まだ20代後半の彼女は、森山さんや赤松さんのはるか後輩の労働官僚で、当時は同条約批准の担当として外務省に出向し、ケニアのこの会議に出張していました。国内で難産だった男女雇用機会均等法は女子差別撤廃条約批准のための必須条件であり、中曽根首相も条約批准を強く願っていました。そうした背景のもとでの外務省出向でした。

 

 会場で各国代表に配られた「中曽根総理のメッセージ」は彼女が起案、「元始、女性は太陽であった」「天の半分は女性が支えています」という強い思いの言葉が入っています。前者はもちろん、平塚らいてうの有名な言葉。後者は毛沢東語録の「女性は天の半分を支える」の考えが下敷きになっています。

 

  赤松さんは労使双方の反対に揉まれながら成立させた男女雇用機会均等法を「小さく産み大きく育てる」と後輩に後を託しましたが、石井さんはその後、2回にわたる同法改正に課長などの立場で取り組みました。

 そして、労働省が厚生労働省となった後、歴代の女性の先輩たちが務めた婦人少年局長の後継に当たる雇用均等・児童家庭局長(仕事の範囲は元の局より広い)や社会援護局長など、3つの局長を務め退官。

 

 今は上場企業3社の社外取締役のほか、全日本柔道連盟副会長や日本ラグビーフットボール協会理事も務めています。山下泰裕JOC会長に会った時、「石井淳子さんの友達ですか!彼女はすばらしい。古い慣習を改めていくには柔道の世界の外で生きてきた人、しかも女性が必要」と絶賛され、私まで鼻が高くなりました。19歳で出会って以来の自慢の親友です。

 彼女が36年に及ぶ役人生活を終えた退官の夜、私の地元、東京スカイツリーのレストランで労をねぎらったのもいい思い出です。