旧労働省の女性官僚として、女子差別撤廃条約批准に関わり、男女雇用機会均等法をつくった赤松良子さんが「私の履歴書」(日経新聞)をつづっていらっしゃいます。

 愛読しながら、今年10月、衆議院選挙直前に93歳で亡くなられた森山眞弓元官房長官(文部大臣、法務大臣も歴任)を思い出します。お2人とも津田塾専門学校から旧制の東大法学部に進み、女性キャリア官僚のハシリでした。

 お2人が旧労働省に入省された昭和20年代以降長らく、官庁でも労働省しか女性を採用せず、婦人少年局長が女性の最高ポストでした。お2人とも私の母よりいくつか年上、そういう年代です。

 

 森山さんは文部大臣として女性で初めて1993年の甲子園の始球式のマウンドに上がりました。しかし、官房長官時代に大相撲の内閣総理大臣杯を土俵上で授与しようと希望した際には、「相撲は女人禁制」と日本相撲協会から拒否されました。

私は2000年に初当選後、後輩として目をかけていただき、「東京裁判のときに、翻訳のアルバイトをしたのよ」と、ちょっぴり誇らしげに教えてくれました。終戦直後までの津田塾大学は「第一級の英語の職人」を育てる学校でした。

写真は、2008年1月の通常国会開会式に着物姿で臨み、一緒に撮影したものです。

 

 男女雇用機会均等法が成立したのは1985年(昭和60年)のことで、1980年に大学を卒業した私は「均等法以前の世代」。

 女子の就職といえば、短大卒で24、25歳に結婚するまでの「腰掛け」というのが相場の時代でしたから、4年制大卒の女子が「結婚しても働きます」「男子と同じ条件で雇ってください」と言っても、受け付けてくれる企業はほぼゼロでした。ちなみに、同級生の男子の元には(東大経済学部という最大ブランドのため)入社案内が高さ2mを超すほど大量に送られて来たのに対し、女子学生(経済学部370人中、女子は7人)のところには1冊も来ませんでした。

 

 メーカー勤務のゼミの先輩が、リクルートのためにホテルで食事会を開いたので出かけたら、「ご飯食べて行ってもいいけれど、女子は採らないよ」。

 日本の輸出を支える製造業に勤めたくて、片端から電話をかけましたが、「女子は理系のシステムエンジニアか研究職、文系なら中国語かスペイン語など英語以外の言語ができること」という返事ばかりで、「経済学部卒で総合職希望」の女子というのは、全く、求められない存在でした。

 

 おまけに「一浪、下宿の女子は200社回り」といわれ、私は特に厳しい状況にありました。

「退職してほしい25歳までの年数が、より短くなる」という理由で、浪人でなくても、留学で卒業が1年遅れている女子も同じでした。

 首都圏出身でない友人は、金融機関から「1人暮らしをするような不埒(ふらち)な女は、採らない」と断られました。男にカネを貢ぐために横領するかもしれない、というのが言い分のようでした。

 私はウルトラがんばって、朝日新聞社、日産自動車、三越、スポーツの美津濃(現 ミズノ)の4社から内定をもらいました。

 ミズノは会社に電話をかけたら、人事担当だった水野正人さん(創業者一族、後に社長、JOC副会長、東京オリンピック・パラリンピックの誘致で活躍)が会ってくれることになり、「女子はこれまでスポーツの一流選手しか採っていないけれど、あんた面白そうだな。朝日に行ったほうが活躍できるだろうけれど、もし落ちたら、うちに来ればいい」と大阪弁で言われ、心底、ありがたかったことを思い出します。

 

 男女雇用機会均等法ができた時、すでに記者になっていた私は「罰則のない法律を作ったくらいで、日本の企業社会は変わらない」と懐疑的でした。しかし、法律ができたことは、その後のバブル期の人手不足と相まって、企業が女子の採用に前向きになる好結果を生みました。

 さらに時は流れ、現在は省庁の採用で女子を3割以上にする政府目標が達せられ、あらゆる業種の大企業が、女子も男子と同じ条件で採用することになり、まず「入口」は、しっかりと開かれました。

 

2014年、経済産業副大臣のとき、女性の登用に熱心な企業の表彰式で挨拶しながら、昔を思い出し、感無量となりました。

今でも、法学部、経済学部の女子だけの同窓会を開くと、就職苦労話、「怒り爆発」話が尽きません。