4月29日、「昭和の日」は、昭和時代の半ばに生まれた私にとって、子どもの頃からずっと「天皇誕生日」として記憶してきました。
昭和天皇は、日清・日露戦争間の1901年(明治34年)生まれ。学習院の小学校時代、1人だけ遠足に参加させてもらえなかったのを気の毒に思った乃木希典学習院長が、ある放課後、墨田区東向島(現在)の百花園にお連れしたことがあったそうです。後年、植物学者として「雑草という名の草はない」とおっしゃったことが知られていますが、一時期、「みどりの日」という名の祝日でした。そのきっかけとなったのが百花園見学だったのかもしれません。
明治天皇から大変かわいがられ、期待され、大正時代には病弱な天皇に代わって摂政となり、活躍の場が多くありました。
1926年(大正15年)12月25日、わずか25歳で大日本帝國の天皇、同時に陸海軍を統帥する大元帥として白馬にまたがる身となりました。中国戦線の拡大や、太平洋戦争の始まりには反対の意向を持ちながら、押し通すことはできませんでしたが、ポツダム宣言受諾によるアジア・太平洋戦争の終結にあたっては、信頼する鈴木貫太郎総理(元侍従長)とともに、決断を下されました。昭和20年夏、負けているのはわかりながら、秋の米軍本土上陸までいくだろうと覚悟、予測した国民が多かった状況では、天皇でなければできない大英断だった思います。
終戦が半月早ければ、広島、長崎の悲劇も、ソ連参戦もなく、満蒙開拓団をはじめとする中国大陸や南樺太などにいた民間人が苛烈な逃避行で多くの犠牲を出すことも、またシベリア抑留もなかっただろうにと思うと、つくづく残念です。
東京・下町は1923年(大正12年)の関東大震災と1945年(昭和20年)の東京大空襲で焼け野原となり、多くの人が亡くなりましたが、昭和天皇は両方の被災地を視察されました。(視察前に、きわめて悲惨なご遺体は、ほとんど片付けられていたようですが)
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時は移り、亡くなられる前後、私は朝日新聞経済部の記者でした。1988年(昭和63年)秋以降、皇居の御濠端には報道カメラがずらりと24時間体制を敷きました。毎日、天皇の体温と下血量が公表されました。「歌舞音曲は自粛」というムードが全国に漂いました。
政治部や社会部ほど直接的な貼りつきはありませんでしたが、私のいた経済部でも、「その時」(亡くなられた瞬間)に備え、それが夜中早朝であっても築地の新聞社に駆けつけられるよう、文京区千駄木に住んでいた私は「自宅の近い者」として担当の1人になりました。携帯電話などない時代でした。
「天皇崩御(ほうぎょ)」(逝去)が発表されたのは、翌1989年1月7日(土)朝早くのことでした。88歳の生涯でした。
結果的には、経済に与える影響は非常に小さかった。平日なら「株式市場や外国為替取引をどの瞬間にストップさせるかどうか」が注目されましたが、土曜のため無関係でした。デパートなどが臨時休業を決めましたが、年末年始の売り出しが終わった後で、影響の非常に少ない時期でした。
在位は64年にわたりましたが、最初と最後、大正15年は12月下旬の数日間、昭和64年は1月初めの数日間だけです。
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あれから30年近くたって、平成の天皇陛下(今の上皇陛下)が「生前退位」を口に出され、実行されたときには本当によく理解できました。
先代は毎日、毎日、下血量を発表され、国民は種々の楽しみを自粛し、報道陣は亡くなる瞬間に備えて待機した― 息子として、それを見ていた平成の天皇が、自分は同じような体験をしたくないと思われて当然でしょう。
「昭和の日」に昭和天皇のことを個人的な思いで振り返ってみました。もっとも、私たち世代にとって天皇といえば「あっ、そう」という言葉が印象的でした。