【難題】「いじめ」と「いじり」の境界線、そもそも線を引いていいのか | ゴリィ【オルゴールアーティスト・カラーセラピスト・防災士】

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仙台育英高校のサッカー部が話題になってますが。

今回は「いじめ」と「いじり」についての違いについて考えていきます。



「いじる」側が「いじる」という言葉を使ってはダメ

本質的には「いじめ」と同じこと

よく、問題になるのが「いじり」と「いじめ」の違い。よく言われるのは「いじられる側」がどう思うか。それはある意味では正しいと思います。受けている側が嫌な思いをしていないのであれば、特に問題がないからです。
ただ、Aさんが「いじり」と思って許容しているから、Bさんにもいいだろう、という安易な考えを助長する危険背をはらんでいます。

「いじっている」側が「いじり」という言葉を使ってはならない理由

「いじめ」と「いじり」はやっていることは一緒です。本人の受け止め方の問題であれば、「私はいじられています」といういじられる側の意思表明があって成り立つことです。なので、いじっている側が「いじっている」という言葉を使ってはならないのです。
では、「やってることが一緒」であれば、本人の受け止め方の問題と片づけることは、本当にそれでいいのでしょうか?

人間関係の距離感

人間の「距離感」を3つに分けて考える

簡単に、人間関係の距離感を3つに分類しましょう。なお、ここでは「いじり」も含めて「いじめ行為」とまとめて表現します。

①他人

一番距離の遠い関係です。ここでは、いじめ行為が頻繁に発生します。相手を尊重するという考え方がない関係なので、問題が起きやすくなります。

②友人

一般的には親友レベルの関係です。親友レベルの関係では、「いじめ行為」は発生しません。相手を尊重し合って成り立つ関係であり、相手の嫌がることはしないからです。相手の機微に触れる場合は、真面目に課題解決に取り組む場合であり、真面目に取り組みます。「いじめ行為」というノリにはならないからです。

③恋人など

さらに親密な関係になると、一見「いじめ行為」に見えることが許される関係になります。その部分も含め、相手を許しているからです。それでも、本当に触れてはならない機微については、やはり真面目に課題解決に取り組む場合を除き、振れることはないでしょう。

友人や恋人の場合でも、機微の部分に誤った触れ方をしてしまえば、容易に関係は離れていってしまいます。

人間関係の距離感をバグらせるもの

ただし、例外的にはこの距離感によらないケースもあります。

M気質

いわゆるSとMのMのほうです。これは「いじめ行為」を受けると性的興奮を感じるケースで、これは「いじめ行為」を受けている者がどう感じるかという点で本質的な意味で例外ケースになります。

苦痛感の麻痺

「いじめ行為」を受けている人は、友人関係を構築したくて「いじめ行為」を「いじめ」と捉えない反応を取るようになる場合があります。これも、本能的なものではありますが、快楽を感じているのではなく「苦痛を苦痛と感じない」ようにする意味では本質的に違う物と言えます。苦痛を感じないようにしているだけで苦痛は感じているわけです。

本人にもわからない

注意すべきは、この2つのどちらかなのかは「本人ですら気づいていない」パターンもあり得るということです。どちらも本能的なものであり、いじめが多発する未成年期では「快楽」とは何かを知らない場合が多いと考えられるからです。

まとめ―虚構の友人関係

友人関係≠交友関係

「いじめ行為」を受け入れることによって、友人関係が広がるような錯覚に陥る場合があります。しかし、そこには「互いを尊重する」関係は永遠に生まれません。一時的には交友関係は広まるかもしれませんが、それは友情とは違い、状況によっていとも簡単に関係は切れてしまいます。
自分にウソをついてまで、そのような関係をつくることに意味はあるのでしょうか?

マイナスの意味での処世術

このように、「本人の受け止め方の問題」という考え方は、得てして「いじめ行為」を受ける側が自分の認知を歪ませてそれを受け入れさせる、ということを是とする危険性をはらんでいると考えることもできます。この認知を自分で歪ませる行為は、マイナスの意味での「処世術」のようなものです。暗にそれを強いてしまう状況は、決して好ましくないと言えます。

ダメなものはダメ

以上のことから、「いじめ行為」を「いじめられる側の捉え方の問題」とするのは認知の歪ませを生む原因となる考え方で、「いじめ行為」を受ける側の人間関係の作り方に大きな影響を及ぼすと考えられます。
よって、「いじめ行為」は「いじめ」だろうが「いじり」だろうが本質的には同じ行為で、その行為自体を許さないとする考えかたができると思います。

余談ですが、私は同級生どうしの関係以前に、教師という指導者の立場が先陣を切って虐待している状況で育ちましたので、友人とは何なのかよく分かっていないところもあります。よって、この考えが理にかなっているかは分かりません。
それと、全体の「出場辞退」については関係のない生徒も巻き添えにしているようにも思います。しかし、結果的に部活動というコミュニティ内の「いじめ行為」に対して「黙認」したことになりますので、やむを得ないことなのかもしれないと思います。「狭いコミュニティである以上、仲間に気を配ることは義務事項である」これくらい厳格な考え方でいかないと、いじめ行為はなくならないように思います。