命の危機 | ゴリィ【オルゴールアーティスト・カラーセラピスト・防災士】

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総合エンタメ発信サイト「ゴリィの轟RADIO」の主宰をする「ポンコツ人間」ゴリィのブログです。思ったことを色々とつづっていきます。

あ、僕じゃないですよ(笑)。



実際は笑えない話です。




相棒のお父様が重い病気のようで、

先週末から元気がなく、

本当は盛岡出張も彼に行かせて、

実家に行かせようと本気で考えたくらいです。



今日、

「係長のお父さんが亡くなったときって、どうでしたか?」

と飯を食べながら聞いてきました。

縁起でもない話ですが…。

「正直、ショックやったけど、

元々家にいなかった人だし、

一年も入院してたから。

で、大学受験もあったから、

それで気が紛れてたかも。」



これが素直な答えでした。



実は、父親の肺癌が見つかったとき、

すでに末期だったそうです。

母親と兄貴は相談の上、本人には勿論、

高校生だった自分にも本当のことは隠していました。



正直、一番動転したのは、

一度退院してたのが、目の前で急に様子がおかしくなり、

母親が自分の運転で病院につれていき、

そのまま入院になったときでしょうか。

それが亡くなる2ヶ月前。

もしかしたら、という気はしましたが、

その日がこんなに早く訪れてしまうとは、

想像していませんでした。



正直、父親のことは尊敬はしてませんでした。

休みの日も農作業か仕事か、

あまり相手にしてもらえず、

そんな延長線上で入院でしたから、

葬儀のあとの母親との2人の日常生活も、

案外違和感がありませんでした。



ただ、父親は自分が酒を飲めるようになったくらいに、

その頃には定年を迎えてたでしょうから

そのときに毎晩の晩酌は楽しみにしていただろうな、と

想像しています。

兄貴は大学は東京でしたが、

帰省したときの兄貴との晩酌は楽しそうでした。

*そのころ自分は高校受験(笑)。

もし、そこまで父親が生きていれば、

今は間違いなく岩手で固い仕事に就いて、

毎晩の晩酌をしていたでしょうね…。

そうなると、また父親に対する気持ちも

違ったものになったでしょう。



まぁ、今でも盆と正月は欠かさず実家に帰り、

お線香をあげるようにはしています。



母親の癌のときもかなり心配しました。

丁度はじめてのコンピューターシステム導入の時期で、

盆の帰省から「年末は帰れないよ」といっていたので、

母親が気を遣ったのか、

入院前日まで連絡はありませんでした。

前日にやっと連絡があり、

急遽すっ飛んで実家に帰りました。



初期の乳癌だったのですが、父親のこともあり、

母親自身も家族もかなり心配しました。





父親の17回忌が済み、

母親の入院からも8年経ちました。



その間、今度は

自分が鬱病になったり

心不全を起こし、

兄貴の結婚式の前に逆に母親がすっ飛んできたり、

そのあとは躁鬱病になったりと、

最近は自分が心配をかけてばかりです
(^_^;)





ただ、鬱病で自殺しなかったり、

心不全を起こしたときも

呼吸困難で話せなくなる直前に自分で救急車を呼んで一命を取り止めたり、と

こんなときは父親に守られているような気がします。



やはり、逝くのは順番を守らないと。

父親は残念ながらその順番を守れず、

母親(=自分の祖母)より先に他界してしまいました。



なんとなくですが、自分は母親より先にこっちには来るな、と

父親から言われているように思うことがあります。



聞けば、相棒のお父様もまだご両親が健在だとのこと。

きっと、ご先祖様が順番を守るよう、

見守ってくれていることを信じたいと思います。



そんな話をして相棒を慰めました。



早く良くなってくださることをお祈りします。