「たいせつなきみ」という本がある。
とても素敵な本。
主人公はわたしのような、わたしとは全く違うような、心から移入をしてしまう物語。
わたしの身近にある言葉に 「隣人を愛し、敵をも愛しなさい」というものがある。とても心に残ることば。
わたしはその言葉の意味を分かったつもりになっていた。
でもそれは、上辺だけの言葉自体だけの捉え方だったのだ。
私は敵を愛する以前の段階で、 “敵をつくらないように”してきたし、どんな人をも嫌いにならないようにしてきた。
でもそれが、違ったのかな・・・ と、最近の日々の中で、大きな気付きと回心があった。
そして改めてその言葉を聞いたとき、好きになることはもちろん、嫌いになることだって、“わたしが相手を気にかけている”ということであるのだと感じた。
それというのは、 友人や仕事関係など、日々私たちが出会う人はたくさんいる。
そしてその中で私の内にうつる人,残る人とは、いったいどんな人なのだろうか。
好意を寄せる人たちはもちろん心に残る。でも嫌いな人でも嫌い!という思いが強いほど、心には残っている気がする。
それは何なのだろうか。
それこそがきっと、わたしは気になっているということなのだ。
それがどんなに嫌いな人であっても・・・か。
そもそも、嫌いという感情はどこからでてくるのだろうか。
その人を初めから「記憶にとどめる必要がない」と認識していれば、そんな感情すらも生まれ得ないとおもう。
だから“きらい”という感情は、私自身が意識をしている,していないに関わらず、その人を“気にかけている”ということの現れなのかもしれない。
ひとは、愛する人にさえも「きらいだな」と思うことがある。
そして、その愛する人のことを 愛していれば愛しているその感情の分だけ、 嫌いなところを見つけることも多いように感じる。
愛するということは、その人のことをたくさん見つめ続けているということなのだから、実はそれは不思議なことではないのかもしれない。
そして大抵の人は、きっとその人の嫌いな面をいくら見つけようとも、変わらず愛するとか好きという感情を持ち続けていくのだろうと思う。
好きな人の嫌いな面を好きになることが愛情だというのなら私には到底無理だ。
でも、その嫌いな面を「たとえ大嫌いであっても…」として、大嫌いの上から大好きであれば、結論は“大好き”ということになるのだろう。
だから私の思うところ、世界一大好きという感情と世界一大嫌いという感情は、対極ではなく紙一重にあるもの。 もしくは比例するもの。 もしくは究極の変わる可能性を持つもの。 といえるのかもしれない。
そして大嫌いな人でさえ、そんな思いの元で付き合っていかれたならば、それが「敵を愛する」ということ。
そして「隣人を愛する」ということ。 そうなるのかもしれない。
だから私は、私自身が大好きな人のいろんなところが嫌いでもある。