熊の巣穴から  その16  -察しながら生きる-  

<察しながら生きている”私”>

生物は、お互いに無意識のうちにも、相手の”気持ち”を察しながら生きている。
出会い対峙した人の仕草や態度、物腰から瞬時にその人の情報を読み取っている。
誰かの動いている手が、何かをつかもうとする時、私の視線はすでに対象を捉えている。
私の網膜が捉えた情報は、神経細胞のシナプスのニューロンに伝わり、一歩先の他人の
行動を予測しているのだ。

熊は、いきなり襲って来る。熊と人間のお互いの”気持ち”が理解できていないからだ。
知らない人が微笑みながら近づいてきても、いきなり攻撃はしてこないだろうと思っている。
すれ違う人や初対面の人とも相手の人相や風体を瞬時に判断して対処行動しているらしい。
恐らく、ミラーニューロンなるものによる作用のお陰で、一日、恙無く暮らしていくことができる
のだろう。

察しながら生きてみると、ある時、思わぬプレゼントを貰うことがある。
自己を閉ざしているといつまでも他人にはわかってもらえない。自己を開示してみせた分、
今度は、相手も少しずつ心地よい関係が発展するように、自己を開き示してくる。
予期せぬ出来事が思いがけない関係を切り開くプレゼントとなる。

”気持ち”を察して伝えるためには、「自己開示の返報性」という法則に期待して、そのチャンス
を逃さず捕まえることなのだとわかる。
人と人は、すぐにはわかり合えない。恐る恐る近づき、少しずつ相手を理解していくのだ。
だから人と人の間に”気持ち”が伝わるためには、時間がかかるものなのだ。

イメージ 1 [大海原を漂流するような”伝わらない気持ち”]
           Gustave Doré's画

「気持ちは伝えるものではなくて、相手に汲んでもらうものであり、また、相手の気持ちを
汲んであげるものです。」池田晶子さんは、そう言っていた。私も、そう思う。
気持ちは伝えるものではなく、汲んでもらうもの。
”気持ちを汲む”という所作は、人が人にするいちばん高度な脳の働きによるものだろうと
思う。私は、きっと、”気持ちを汲む”ことができない。まして、”汲んでもらう”にはいったい
どうすればいいのだろう。

「気持ちを伝えようとするからいろいろ悩むわけで、伝わる人には伝わると開き直ればよい
のです。」
其の通り。だから、理解してもらおう、とか、分かり合える、とか気のきいたことを考えなくても
よいのだと思う。

「人間はそれぞれ自分の世界で生きていると自覚するのが本当の意味で大人になることで
あって、仲良くしなければいけないと思う必要は必ずしもありません。それはだいたい不可能
ですから。」
意思疎通して気持ちが伝わったと思っているだけで、それでも幸せなのかもしれない。
それくらいで満足することでよしとすればよいのだろう。

<言葉の魔法記号を使う>

伝えたい物事は、伝わらないよりは伝わった方がよいし、正確によりよく伝わってほしい。
正しく伝えることの基本は、中学生の頃に5W1Hというものを習った。。”5W1H”という
暗号記号のようなものだった。
先生の顔も科目も思い出せないが、黒板に”5W1H”と書いて、いつ(When) どこで(Where)
誰が(Who) 何を(What) なぜ(Why) どうやって(How) という意味を呪文のように教えてもらった。
その時の授業の様子は記憶の片隅に残っている。
眠たい憂鬱な授業の中では、そのことに多少興味をもって聴いていたのだろうか。

たぶん、このとき以来、知っているはずの”言葉の魔法記号”は、現在までほとんど意識して
使ってこなかったから、肝心な時に想いのほどを伝えることがとても苦手になってしまった
ように思う。確かに、この”言葉の魔法記号”を使えば、伝えたいことはよく伝えられる。
新聞記事は、このように書き、正しく記事内容を伝えることが鉄則だ。

それにしても、伝えたい言葉が新聞記事のようであったら、伝える気持ちは、味も素っ気もなく
響き、生きていくことは、なんと面白味もないことだろう。

《熊の巣穴から》その15 -伝わることと伝わらないこと- 

 

熊の巣穴で”伝わらない気持ち”を考えているというのもおかしなものだ。
高層ビルの窓から覗くと、人は蟻んこのように、一見、整然と動き回っている
ように見える。ビルの谷間を蠢いている蟻んこのような人々は、お互いに分かり
合えているのだろうか。
人と人は繋がっているようで、本当はお互い何もわかり合えてはいないのでは
ないかと思う。隣に座っている人さえ、その人に何も関心を抱かなければ、何も
会話することもなく一日が過ぎてゆく。

 

考えてみたまえ。
そうでなくても、普段の生活でさえ肝心の”気持ち”は伝わらないまま暮らしている
のではないか。
人間しかいない空間にいると、人は一緒にいることでなんとなく仲間意識が芽生え
てきて、なんとなく繋がっているような安心感の中で思い違いをしてしまうのでは
ないか。
本当は、人と人の間には常に隙間風が吹いていて、他人の心の中に入っていくには、貝殻の蓋をこじあけるようにして入り込まない限り”伝わらない気持ち”の理解は
得られない。

 

人は人に恐る恐る近づき、他人の何かを一つひとつ確かめながら、宙吊りの梯子を
登ってゆくようでもある。その有様は、体の中にバリアのように纏わりついた防護
服を払い除け、押し黙ったように硬い岩盤の中から青金石(ラピスラズリ)を探し
出すことにも似ている。

好むと好まざるにかかわらず、人の世の中を生きている以上、人と人の関係を無視
し続けることは難しい。
当たり前のように思っていたことが、ある日突然、誤解の海原に投げ出されている
ことがわかったり、肝心な相手には何も伝わっていないことに気づいて愕然として
しまう。

そもそも、熊の巣穴にいれば、他の人間のことなど何を考えているのか知る由も
ないだろう。尤も、熊の巣穴にいれば面倒なことは何も考える必要もなく、人と
人との関係性を否定しても、どう思われようとも思い悩むこともないのだが。

 

イメージ 1 [果てしもない宇宙空間にいるような気がする]
                Gustave Doré's画

 

闇夜に、しばらく混濁した意識の淵を彷徨ってみると、なにやら見えてくるものが
あった。意識のもつ”気持ち”には、その捌け口としていくつかの排水溝があるのだ
ということ。
たえず溢れて出してくる”気持ち”の湧き水は、その流れをうまく切り分けながら
排水溝に流れていくようにしてあげる必要があるのだということも。
そして、気に入らない人の立居振る舞いを治すことは不可能なのだということも。

 

暗い熊の巣穴にいたら、喩え、伝えたい”気持ち”があったとしても、誰にも伝わら
ない。伝えたくても伝わらない、伝えられない”伝わらない気持ち”があるときは、
切なく遣る瀬無い。
”伝えたい気持ち”と”伝わらない気持ち”の境界には、深く暗い埋めようもない、
魑魅魍魎の徘徊する地獄絵の魔界があって、無限地獄の煮えたぎる怨念が渦巻いて
いる。

 

きょうも、切なく苦しい”伝わらない気持ち”は、そんな地獄を伝って、遠くまで
どこまでも旅してゆくのである。
 
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         虫もいぬ 名のみの春の 雪景色
                                   2011.2.18


イメージ 1

        節分も過ぎ、毎日、寒い日が続く。
        2月18日、とうとう雪になった。
        未明からの雪は解けずに、再び凍りついた。
        神社に行くと、竹林に積もった雪がはらはらと
        光の中を舞い降りてきた。
        虫もいない、静かな白く寒い一日だった。

   夢の徒然  -パンドラの甕-               

ある日の夜、川の流れのように夢が流れていった。
夢の舞台は、何処かで見覚えのある事務室だった。
いつか何処かで見たことのある女性の事務員に案内されて、この部屋の中へ
入ってきた。
伽藍とした室内に、知らない男性が一人ソファーに座っていた。相変わらず、
冷たい目つきの人間だった。私を案内してきた女性の事務員は、その部屋の中で
いつの間にか消え去っていた。
 
私は、入ってきた入口の方を向いて座り、視線をそちらの方に向けたまま、
ドアを見詰めているだけだった。心理的な距離はそれ以上縮まることはなく、
何年でもそうしていられるように思われた。
社員と思われる人たちが次々と事務室に入ってきた。何のための会議なのか、
集まって来た人たちは何の関係者なのかもわからない。部屋の中は話し声も、
物音すらしない無音の世界だった。

人々は、私を白い目で見詰め、聞こえない声でなじり、貶すだけで通り過ぎて
いった。続々と部屋に入ってくるその人たちに混じって、綺麗に着飾った和服
姿の人が入ってきた。
化粧が少し違っていて、あの人とは別人のようにも思われた。そのように見えて、
肖像はその場で、すうっと消えてしまった。こちらを向いて微笑んでいるように
見えたが、その人と目線は合っていたのだろうか。
その人は、そのまま、私の後ろに回っていったようだったが、私は、振り向いて
あの人を見ることもなかった。

 

誰も、何処にもいない。たくさんの人が入れるはずもない狭い事務室で、
一体全体、皆は何処へ行ってしまったのだろうか。
川の流れのように流れていった夢にどんな筋書きがあったのか、夢の場面は
そこで終わってしまった。
それから続いていった夢の中では、終ぞあの人を見ることはなかった。

 

イメージ 1 [甕 別当地遺跡出土遺物]

 

夢の場面は変わっていた。
事の経緯(いきさつ)がわからないまま、誰かと一緒に巨大な遊園地に行く
ことになった。
切り替わった場面は、遊園地の乗り物に乗るために急いで駆け出していた。
遊園地に向かう途中の道は、細かな砂利に足をとられ、滑るほど曲がりくねって
いた。曲がり角には、ガードレールもなく、道路の淵はそのまま断崖絶壁の谷底
に落ち込んでいた。曲がりくねった道を遊園地に向かって行ったが、あの人は
ついて来るはずもなく、私も後ろを振り向くことはなかった。

 

遠くで、ミハエル・エンデの「モモ」は囁いている。
《人生でいちばん危険なことは、かなえられることのない夢が、かなえられて
しまうことだよ。》

 

私は、開けてはならない扉を開けてしまったのだろうか。
禍いをもたらすような触れてはいけないものに触れてしまったような罪悪感が
漂っていた。
夢がかなえられる前に、パンドラの甕の蓋を開けてしまうと、甕の中からさま
ざまな災禍が飛び出してくるのだ。だから、人は、かなえられることのない夢に
よって、いつまでも魘(うな)され続けることになる。

 

あの部屋は、パンドラの甕だったのか。
事務室は、いつまでも終わることのない、果てしなく続く仕事の塊。
あの人は、べったりと腫瘍のように脳にこびりついた残像。
事務室に入ってきた関係者のふりをした人たちは、パンドラの甕に隠れていた
数多くの”災厄”。甕の底に残っているはずの(エルピス)は何だったのか。
パンドラの甕の世界に案内してくれた女性の意味するものは何か、伽藍とした
室内にいた知らない男性の存在は何なのか、それもわからない。
遊園地は、危うい”希望”?
わからない、わからないだらけの中で辻褄の合わない夢が紡がれていった。

 

甕の底に残っていた(エルピス)は、何処へ行ってしまったのか。
現実の幸福は瞬く間に逃げ去ってしまうけれど、譬え夢の中であっても希望さえ
残っていればいつかは本当の幸福が手に入るのだよ、ということなのか。
それとも、希望というものは、人間誰もが持つことのできるものではあるが、
それは、”災いの種”であって、所詮、叶わぬ希望を追い求めているだけなのだろうか。

結局のところ、未来永劫、諦めることを知らない人間は、永遠に希望とともに
苦痛を味わなければならなくなったのかもしれない。
夢は、あっけなく単純な筋書きだったが、いつになく鮮やかな夢だった。
かなえられることのない夢が、かなえられてしまうことが人生でいちばん危険な
ことだというのだが。甕の底には、(エルピス)が残っていたのだろうか。
喩え、唯一、”希望”というものが甕の底に残っていたとしても、それによって、
絶望しないで生きてゆくことができるような代物には、どうしても思えなかった
のだけれど。

この日から鈍痛のする頭痛がなかなかとれず、締め付けられるような痛みは
三日ほど続いた。

 

   《熊の巣穴から》 その14  -伝わらない気持ち-

<狐と私>

熊の巣穴にいると、誰にも“気持ち”は伝わらない。
そもそも人は、どのくらいのところで他の生き物とわかりあえているのだろうか。
巣穴の中にいるのだから、そんなことを気にする必要すらないのだろうが、生き物
を想う“気持ち”は不思議なものだ。

巣穴の外を通りかかる兎や狸、野鼠、たまたま居合わせた狐たち。
毎日顔を突き合わせている蛙にしても、どのように気持ちを伝えあい、どのように
相手を理解して生きているのだろうか。

 

私と狐しかいなかったトムラウシの野営場でも、狐とは気持ちを伝え合うことは
なかった。食料を奪っていった狐に石ころを投げつけ、どうにか食料は取り返した。それでも、腹ペコの狐は辺りをうろつき回り、うっかりした油断の隙を狙っている。狐と私は、敵と味方、食うものと食われるものの関係でしかなかった。
本当は、もう少し仲良くなってもよかった。
お互いに絶対に理解できない気持ちを抱いて、見えない気持ちの壁の向こうで対立
していた。

 

イメージ 1 [Gustave Doré's画]

 

<フランドン農学校の豚>

ある日、フランドン農学校で飼われている豚は、どうにもやりきれない理不尽な
死亡宣告を受ける。農学校の校長が、豚に屠殺のための死亡承諾書に判を押せと
言うのだ。それは、死ぬことに承諾するのではなく、殺されることに承諾すること
だった。豚は、震えながら差し迫った自分の運命を考える。
豚は、どうして自分が死ななけぁならないのか、わからない。
人間は、死ななけぁならない、死ぬのにきまってる豚の気持ちなど思ってもいない。

 

「また人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏(にわとり)でも、
なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣(かげろう)の
ごときはあしたに生れ、夕(ゆうべ)に死する、ただ一日の命なのだ。みんな死
ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬのにきまってる。」 
宮沢賢治「フランドン農学校の豚」

 

死して何者かに生まれ変わるはずもなく、豚は、自らの運命を悟る。
 生かしあいの心など豚には必要ない。豚は食われるために生きているからだ。
人間は、豚を食って生きているとも、思っていない。まして、豚を食って生かされ
ているとは思ってもいない。
そして、処刑の日が来た。
「俄かに豚はピカッという、はげしい白光のようなものが花火のように眼の前で
ちらばるのを見た。そいつから億百千の赤い火が水のように横に流れ出した。
天上の方ではキーンという鋭い音が鳴っている。
横の方ではごうごう水が湧いている。」

 

不条理な豚の死。死んで肉となり、人間を生かす。
生かしあいの心があるならば、救いようのない豚の死によって人間が生かされて
いることを知るべきだ、とフランドン農学校の豚は考える。豚の“気持ち”は伝わら
ない。

 

「その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく
光る弦月(げんげつ)が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、
そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚は
きれいに洗われて、八きれになって埋(うず)まった。月はだまって過ぎて行く。
夜はいよいよ冴えたのだ。」

 

豚は、「たしかにクンクンと二つだけ、鼻を鳴らして」二度と動くことはなかった。
豚の”気持ち”は伝わらないまま、八きれにされて雪の底に埋まってしまった。
熊の巣穴にいると、誰にも“気持ち”は伝わらない。確かに。
でも、「クンクンと二つだけ、鼻を鳴らした」豚の”気持ち”は、わかる。