映画鑑賞  【アバター】             2010.2.27

映画「アバター」を観た。
特殊な眼鏡をかけて見る迫力ある3D映像は、まるで幼い頃に心躍らせながら開いて見た、
飛び出す絵本のようだった。

物語は、西暦2154年の未来。
舞台はアルファ・ケンタウリ系の密林に深く覆われた美しい未開の星、パンドラ。
そこは、熱帯雨林のジャングルのようで、ナヴィという人間のような生物が暮らしている。
しかしながら、パンドラの星の大気で人間が生きていくことはできない。
パンドラで生きていくためには、ナヴィのようなアバターの肉体になる必要がある。

アバターは、人間とナヴィの遺伝子を組み変えて作られたナヴィの姿をした人造人間だ。
アバターは、DNAの持ち主と意識でつながり、あたかも自分の体であるかのようにパンドラ
で振舞うことができる。でも、所詮は人造人間のマリオネットなのだから、元のDNA
の持ち主の意識がおかしくなれば突然、自分の生命エネルギーまでおかしくなってしまう。

地球のエネルギーとなる希少鉱物アンオブタニウムがパンドラに存在する。それを狙って
人間界の欲望が渦を巻いている。
地球の人間は、アンオブタニウムの採掘のためには、容赦なくパンドラの自然も破壊し尽く
してしまう。
人間の横暴さに疑問を持ち始めた主人公は、ついに真のナヴィとなって地球人と戦うことに
なる。パンドラでは、生物的な交感能力が高くないと生き残れない。それは、野生的、
本能的な感覚や感知能力であって、本来、かつて人類が持っていたはずの基本的な能力だ。
人類がそれを縦横無尽に働かせて、環境を認知していたであろう能力でもある。
もはや、野生的、本能的な感覚能力は、特に何も感知することもなく鈍って錆びてしまった。

イメージ 1 [アバター]

さて、現世が、アルファ・ケンタウリのパンドラのような世界であったら、アバターの肉体
として、この世のパンドラで生きていくことにどのような意味を見出していくだろう。
私は私のアバターの肉体を操り、自分の力を信じて勇猛果敢にこの世の怪物と戦っている
だろうか。それとも、失いかけた命を質草にして、怖いもの知らずの振る舞いをしているの
だろうか。

映画を観て、もう現実に戻りたくないという人も多くいるらしい。
地球上の息苦しい現実の中で生きていると、そこから一時でも逃れていたいという想いが
あるのではないか。
いっそこのまま、ナヴィになってパンドラで暮らしたい、そう思うのだろう。
これからの未来においても、人類は、宇宙の中の何処へいっても性懲りもなく闘いと破壊を
繰り返していくだろう。戦うべき相手も、その意味もよくわからないまま、命がけの戦(いくさ)
をはじめているのだろうか。
将来このようなパンドラの世界が現実となって訪れた時に、仮令、私がナヴィになったと
しても、やはり、現実の中の矛盾に苛まれているのではないか。
野生的、本能的な感覚もなくなって、心が通じ合うことのないサイボーグのような感情のない
人造人間として存在しているかもしれない。

映画は、架空の虚(そらごと)の世界。現実は、窒息しそうなうつつの世界。
そのうち、きっと、私と私のアバターの肉体との意識のつながりが怪しくなり、いつしか
自分が自分の体ではないような錯覚を覚え始めることだろう。そして、意識が離れていき、
現実の世界に戻れなくなる。
それなら、宇宙の大自然のパンドラの世界で、ナヴィのように宇宙生命として暮らして生き
ていけばいいのかもしれない。
それにしても、宇宙生命として生きていくための生物的な交感能力は、どうしやって研ぎ
澄ましていったらいいのだろう。

パンドラの世界から戻りたくないという人には、宇宙生命として暮らして生きていく覚悟は
あるのだろうか。宇宙の大自然は驚嘆するほど美しく、魅力的だ。
宇宙の大自然の中で暮らしていく以上、他のナヴィと隔絶した世界で生きていくことは叶わ
ない。
隔絶した世界で生きていくことを望むならば、私がここに存在する意味もないように思える。
しばらくして、アルファ・ケンタウリの美しいパンドラの光景だけが頭の片隅を過っていった。
ひょっとすると、私は、未来のパンドラの大気でも生きていけないのかもしれない。

     麻痺する都会                   

 

朝は、通勤電車のラッシュアワーのひと時から始まる。
周りの人々は、息せき切って走るように動いていく。私の歩くスピードよりも二倍は早い。
そんなに急いで何処へ行くのか。その様は、ビデオやカセットテープの記録媒体にでも記録
されているかのように、殺気立ち、一触即発の状況が毎日繰り返し再生されている。

朝、ラッシュアワーのplayボタンが押され、目の前を画像が再生されていくように画面が流れ
去ってゆく。流れ飛ぶような流星群の人の流れに乗らなければ、返って危険と言わんばかりに、葉を交わすこともなく、行き交う人にぶつかる寸前で通り過ぎてゆく。こうした流れを瞬時
に掴まえなければ都会では生き難い。

 

 

流星群のように通り過ぎてゆく人々は、表情に生気がなく、目は”うつろ”に死んでいる。
”うつつ”の ラッシュアワーは、虚脱状態である。私は、”うつろ” と ”うつつ”の狭間で
目が回りそうになっている。都会では、どうも人と人との距離が近すぎるのかもしれない。
毎日の不快な満員電車の密室で、完全に乾ききった砂漠のコンクリートの上で望まざる出会いがある。
新聞の投稿記事に書かれていた事だが、女性専用車両でも女性同士で小突かれたり、お尻で押されたりするらしい。

 

 

渋谷昌三著 『人と人との快適距離』によれば、空間が狭くなると男性は攻撃的になり、
女性は協力的、友好的になる傾向があるというがそうでもないのか。既に、現代人は、時と
場合による人的機能の使い分けと身のこなしの変化を身につけたということか。

 

 

イメージ 1 [居場所のない都会の風景]

 

 

文化人類学者であるエドワート・ホールは、『かくれた次元』で自分に赤の他人が近づくと
不快に感じる距離を示している。
密接距離(親しい人に許される空間)では、(0~15センチ) 抱きしめられる距離。
頭や腰、腿が簡単に触れ合うことはないが、手で相手に触れるくらいの距離(15~45センチ)
親しい者どうしがささやきあえる距離。
個体距離として、相手の表情が読み取れる空間(45~75センチ)
相手を捕まえられる距離(妻以外の女性がこの空間に入ると、違和感を感じる)
両方が手を伸ばせば指先が触れあうことができる距離(75~120センチ)

 

 

どうして、人とのかかわりがこんな殺伐としたものになってしまったのかとも思う。
周りの人達の足取りの速さに気をとられ、目の動きが人を追ってしまう。
何故、こんなみみっちい、せせこましいことに拘泥してしまうのだろう。
要は、限られた空間に人が多すぎて、人と人との密度が濃すぎるからだろう。
パーソナルスペースは、男性の方が女性より大きそうだ。男同士は、お互いに接近して生活
するのを嫌うと思うが、女性も、お互いに接近して生活することを好むとも思えない。

 

 

どっちにしても、自分の居場所がないのだろう。
運よく座席に座れても、居心地が悪い。そういう人は、何処にいても不満で自分の居場所探しをしているものだ。金を出して多少なりとも居心地のよい座席を買うしかない。
うんざりする痛勤電車の光景だが、やがて、こんな電車地獄ともオサラバする時がくる。
自分の居場所を確保するために、無意識的にも利己的に振る舞い、他者を排除しようとする。他者を排除しようとするその様は、動物達によくある縄張り争いとどこか似ている。
人類は、動物的性能が削がれた分、こんなところで動物的本能を発揮しようとしているの
かもしれない。こうした人と人との神経質なせめぎ合いは、わが国の狭い居住空間と、劣悪な育児環境で長年育まれてきたせいなのか。現代人の殺伐としたせめぎ合いの関係の訳は、そんな無難なところにこじつけておくのがいいのかもしれない。

 

 

つまるところ、人間という生き物が生きていくためには、そんな狭苦しい空間の中で、
どうしても暮らしていかざるを得ない運命にあるからだろう。
どんな生物でも、自分の空間を持って生きている。目には見えない自分の空間を守るために
赤の他人とは距離をとって、必死で自分の占めるべき空間を確保しようとしているのだ。
だから電車の座席に座るときも歩いている時でも、できるだけ他の人とは一定の距離をとろうとする。誰でも、自分を見失わないための快適空間を持って生きている。

人間は、赤の他人に必要以上に近づかれたくない距離(パーソナル・スペース)を持っていて、この範囲を侵略して誰か他の人が入り込むと不快感を覚える。
さらに、相手との親密度によってこのパーソナル・スペースの距離は変化する。
そのような意味では、もはや都会の環境は極めて劣悪に麻痺した空間と化してしまった。

 

 

どこの国だったか、海外旅行の案内人が”旅の秘訣”をこう話していた。
「トラブルにあう人は、トラブルの待っているところへ行くからトラブルに巻き込まれる。」
なるほど、不穏な場所に近づいてしまうから、トラべルでトラブルになってしまう。
その場から立ち去る、すぐに場所を変える等、臨機応変に動くことが有効で、できるだけ
そのような人とトラブルの待っている場所に近づかないこと。
『かくれた次元』にいる時は、極力、赤の他人の距離に近づかないこと、という結論に至るが、果たしてどうだろう。

 

 

朝、高層ビルのオフィスの窓から下界を眺めていると、街行く人々は、まるで蟻んこのように
お行儀よく行列を作って歩いている。
真っ暗な宇宙空間に浮かんだ麻痺する都会の中で、人々は、いったい何処へいこうとしているのだろう。遣る瀬無さを通り越した、無力感を感じてしまうのだけれど。

きょうも、この自分の居場所のない人たちは、いくつもの不快の修羅場をくぐりぬけてきた
のだろうか。
修羅場をくぐった更にその先には、不快で不愉快な世界が待っているというのに。
麻痺する都会は、きょうもたくさんの居場所のない人たちを抱え込み、まるで無縁仏のように
なって墓場の都会の中を彷徨い歩いている。
ふと我に返ると、いつしか私の足取りは、ひとりでにスピードを増して何人も人を追い越して
いた。

 

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           目を上げて 儚き桜の 散る日まで                    2010.4.19


 イメージ 1 [三年目の桜]

            桜に寄せる想いは格別。            
            白でもない、薄紅色でもない満開になった桜を見上げながら、
            花見客で賑わいだした桜並木を歩いていった。      
            私の心に去来したものは何だったか。


  

   春が来た  -春の散歩-           2010.3.14    


春が来た。
春は確実にやってきた。
”待ち遠しい春”ではなかった。
他の人たちは、どのようして春を迎えたのだろうか。
何処其処の桜が開花しただの、○○寺の桜がみごとに咲いている等々。
そうした春の便りを見聞きするにしても、心を動かすものではなかった。
心の動きとは無関係にやってきては、通り過ぎてゆく。

イメージ 1 [小高い山の上から眺めてみた桜]

何処かでタイミングよくつかまえることが、春を実感するということだろう。
房総半島に河津桜を見に行ってきた。春の嵐で各処で土砂崩れが起きていた。
山の中に咲くこの河津桜は個人の所有で、年金から少しずつ苗木を買い求め、植え続けたものと聞く。
丹精込めた桜の下で昼食をとった。私は、どうやら花より団子だったらしい。
私の心模様とは裏腹に、ピンク色の濃い花びらの桜だった。
89            枯れ枝に 重なり咲くや 桜花                    2010.4.4

イメージ 1 [今年の桜]
 

去年眺めていた桜の木を見つけた。
去年と今年の木の枝を見比べてみると、去年の枝には
桜が咲いていないではないか。
すぐ上の枝が重なるようにしてその枯れ枝に寄り添い
満開の花を咲かせていた。

去年のその枝だけみごとに枯れ、桜の花は一輪も咲いてはいなかった。
もう、枯れ枝に桜は咲かない。
私は、花咲爺ではないので、あの枯れ枝に再び桜花を咲かせることは
ないだろう。