【大雪山への山旅 -5】
7月29日 <野営場暮らし>
朝からどんよりとして、雨が降ったりやんだりしている。
今日は何日の何曜日なのか、よくわからなくなっていた。
昨夜の彼は朝のバスで帰るというので、一緒にトムラウシ温泉の東大雪荘まで行った。
野営場では携帯電話が圏外でまったく天気の情報を得ることができない。山荘の天気予報
では、天気は少しずつ回復に向かっているようだった。
野営場にドオッー、ドオッーと鳴り響く音は、すぐ近くを流れるユウトムラウシ川の川音なのか、
雨音なのか、もう判別がつかなくなっていた。
それにしても、いつまで此処にいるのだろうと思う。一日、雲ばかり見て過ごしていた。
また一人になった。此処で熊に襲われてもきっと誰も気付かないだろう。
誰もいない森の中の周りの木々を見詰めてしばらく考えていると、此処へ来てからの鮮明な
記憶がないように思えた。何もせずにじっとしていても、生命活動を維持するためには、
最低限必要とするエネルギーがいる。その基礎代謝量 1,380(kcal/日)くらいは賄われて
いるのだろうか。
空港で食べたカツ丼も、駅で食べたカツ重も、温泉で食べた夕飯も、もう何処かへ消えて
いってしまっただろう。
雨降りの憂鬱な情景ばかり目にしていると、たぶん、生き生きとした記憶として残らないの
だろう。それは、きっと、記憶が作り出す時間の流れを止めているに違いない。
記憶というものが、時間の流れを作り出すこともある。次から次へと生まれてくる生々しい
記憶の一つひとつが手がかりとなって”記憶の鎖”に繋がってゆき、それらが、時間の帯を
作り出す。
記憶の中身が、雨に霞む森の木々や、どんよりとした雨雲、ユウトムラウシ川の川音だけ
だったら、時間の流れは止まっているに違いない。
過ぎてしまう時間と過ぎてくれない時間。7時間でも、8時間でも愉しく山歩きをしていれば、
時間はすぐに過ぎ去ってしまい、一人で何もすることも無くぼんやりとしていると、時間は
なかなか過ぎてはいかない。
森の中の野営場なので、周りに見えるものは、森の木々しかない。
しばらく森を眺めていると、時折、何処からともなく香水の匂いがしてきた。香水の匂い?
あたりを見回してみても、それらしいものも、気配もない。その森の独特の香りがあることは
わかっていたが、こんないい匂いの香りのする森は初めてだった。そして、いつでも森の香り
が漂っているものではないこともわかった。
不思議なことに、しばらく目を瞑り、耳を澄ましてじっとしていないと、この森の匂いに
気づかないのだ。
一旦、雨が止むと、活動写真でも見ているように、森の木々にひつっこく纏わりついた霧が、
森の呼吸と共に徐々に消えていくのがわかった。何かが始まる序幕のようでもあった。
一瞬、陽が差し込むとどうだろう。辺りは急に慌しくなってきた。
虫もいる。蝶もいる。羽虫やゴミ虫、タテハ蝶、カラスアゲハ、モンシロ蝶、トンボ、蜂や虻。
雨が降っている間は、どこかに隠れていたのだろう。急に賑やかな昆虫たちの森の中の野外ステージになっていた。
朝、垂らしたミルクの汁にたくさんの蟻が群がっていた。実に美味そうに汁をすすっては、
誰かに知らせている。こうして、ずっと森の中にいると、虫がいつ飛ぶかもわかってくる。
また雨が降ってくると、虫たちは葉陰や森の中のどこかへ隠れてしまうだろう。
トンボは、電線に止まったまま、降ってくる雨を受け流して動かない。
雨降りの日は、鬱陶しく纏わりつ付く虫たちに悩まされる事はない。
雨が上がり陽が差してくると、すぐにトンボは飛び回り、蝶や虫たちがまた何処からかやってくる。
虫たちは、じっと何処かでいつか晴れてくる”間”を待っているのだ。虫たちのように、じっと
何処かでいつか晴れてくる”間”を待つということが、登山でも大変重要なことのように思う。
これが”登山センス”ではないかと思っている。それは、山歩きの感じ方や味わうために、
この感覚を研ぎ澄ませて、微妙な点まで悟ることができるようになること。そのための感覚を
地道に養うことではないかと。
聞こえるのはユウトムラウシ川の川音、みえるものは、雨に濡れ霞んだ森の木々。
時間が止まったような森の中で、慌しいスケジュールの時間の帯に流されることも無く、
何もすることも無いが、時間がゆったりと流れてゆく。もしかすると、私は、私の行いが山の神に試され、キムンカムイから与えられた「やわらかな生命の時間」を此処で過ごしていたの
ではないか。
雨上がりに山荘まで水を貰いに行った。
新得から入山した日、バスで一緒になった、あのご夫婦に再び山荘でお会いした。結局、
雨の降る中、トムラウシを往復してきたようだった。
「トムラウシに行って来られたのですね。」
「えぇ。ただ、道を見詰めて歩いていただけですよ。何処にでもある道だ。」と語っていた。
午前4時にタクシーを呼んで短縮登山口まで行ったようだ。
誰かが言っていたが、お金のある人は、お金を使い、お金のない人は、時間を使い、この山の魅力を味わい楽しむべきだと。お金も時間も無い人は、無茶をするのだろうか。
あのご夫婦が自分達の希望を果たされたことがなんとも羨ましかった。
無理してでも、登ればよかったのか、雨の中、テント暮らしをしていた私は、この人たち以上に、自分ながらどこか薄っぺらく、虚しい気持ちが沸々としていたのだった。
午後2時から再び雨。すっかり鉛色の空に慣れてしまっている。テントから覗き込むと、雲は
南から北に流れて、野営場の森の空を埋め尽くしている。
北の森のすぐ上の見えない所がトムラウシだ。山頂があるであろうその辺りは、一瞬、晴れ間がでたり、南西からの雲が押上げて、南からの雲とぶつかりながら流れてゆく。気流は荒れ、雲の流れは相変わらず速い。
夜半からは大雨となった。
テントの中で「いつかある日」を歌って眠りに着いた。
「いつかある日 山で死んだら 古い山の友よ 伝えてくれ 友よ山に 小さなケルンを 積んで墓にしてくれ ピッケル立て・・・」
もうすぐ、ケルンを 積みに行きますよ。
歌っているうちに、大粒の涙が頬を伝って落ちていった。
何処か、たくさん花の咲いている明るい南沼の近くに、トムラウシの見えるところに、ケルンを積んでこよう。
ほんの少しでも、冥福を祈り、弔うことができるならば。そう思った。
もしかすると、それも叶わないかもしれない。
-つづく-