房州  石尊山    (325m)           2010.8.27

七里川温泉 ---- 祠  ----  石尊山山頂 ----  清澄山分岐 ----  祠 ---- 七里川温泉
8:45      9:15          9:20           9:30       9:45      10:20

石尊山は、調べただけでも、全国に10はある。群馬県利根郡みなかみ町、群馬県安中市、
千葉県君津市 山梨県甲州市、栃木県鹿沼市、茨城県日立市、長野県北佐久郡軽井沢町、
栃木県足利市、栃木県塩谷郡塩谷町 茨城県久慈郡大子町。
これだけ同一の山名の山はないかもしれない。石尊とは、石尊権現のことらしい。
大山参(おおやままいり)は、神奈川県の大山(おおやま)寺にある石尊権現に参詣することを
石尊詣という。大山は、その頂に雲がかかると、雨が降ると言い伝えられ、雨乞いの神として
大山の阿夫利(あふり)神社に拝め奉られている。
石尊権現に参詣する大山参が、各地に広まり、千葉県君津市の房州石尊山にまで及んでいる
と考えられる。真に、信仰の力は想像を超えるものがある。

石尊山へは、七里川温泉、清澄からの縦走路、465号線黄和田畑のトンネル付近からのものと
筒森もみじ谷からの道がある。雨乞いでもしたい猛暑続きの日、私は黄和田畑の七里川温泉
から登った。
今回の山歩きで特に注意すべきところは、蛭(ヒル)だ。登山口にもヒルに注意の看板が
かかっており、登山の注意事項とヒルに吸血された場合の対処方法が書かれていた。
音もなく忍び寄ってくるので、注意の仕様も無い。予防としては、首周りや足首からヒルが
入り込まないように厳重に裾、袖口、襟を防護すること。吸血されたら、ただならぬかゆみ
と惨たらしい痕が残る。

イメージ 1 [鬱蒼とした森の中に入っていく]

最後の畑の脇から山の中に入っていくが、終始薄暗く展望はない。狸のような動物が私が近
づいていくのに気づいて逃げていった。
人がほとんど通っていないようで、登山道は荒れ気味で至る所に蜘の巣がかかっていた。
山仕事の道、生活の山道、登山道、獣道が混在していて、道は一つではなく、いくつもある
ということだ。低山の道は迷い道だ。
地図を見ても、現在地の確認が難しい。展望がないため、目印となる山や川も谷間の地形が
わからない。どこもかしこも低山地帯ともいうべき風景の特徴がない。歩みを進め、山奥に
入っていけば行くほど不安は増幅する。コンパスの方向感覚と山道の高低で見当を付ける。
たいした時間も、距離もないのに、道迷いの恐怖が強くのしかかっていた。
実際、平成15年にこの先の清澄への縦走路で道に迷い、30人のパーティーが遭難している。
清澄山の遭難事故(石尊山行方不明)として、300人近い捜索隊とヘリコプターが出動し
ニュースになった。

イメージ 2 [古の石の祠]

登山道の木々に付けられた樹木の名札が気休めになるほど、道迷いの恐怖感は続いていた。
裏参道の道を分け、山頂へのいかにも滑りそうな苔むした階段を上がる。
急坂を登り切ると杉や檜の樹木の生い茂った石尊山の山頂に着く。風格のある石の祠が三つ
祀られている。石尊権現様だ。阿夫利(あふり)神社の文字も見えるので関連は深い。

二等三角点は、北峰に向かう数十メートル先にあった。杉や檜にスダジイ、ウラジロガシ、
アカガシ、タブノキの木々に覆われ、晴れていても展望はまったくなく、この山の人気の出
ない一因かもしれない。
山頂から一段下がるようにして尾根筋がついているのが確認できる程度のもので、縦走路は、
鉄塔の脇から回り込むように山道が麻綿原へついているが実にわかりずらい。
展望の開けるところまでしばらく歩いて行って、清澄山への縦走路を確認して戻ってきた。

イメージ 3[ようやく見えた山並み]

二匹のヒルに取り付かれたのは、頂上付近だったと思われる。一匹は帽子に、もう一匹は、
裾にはり付いていた。尺取虫のように動いて、叩いても、振りはたくぐらいでは落ちない。
帰路は、そのまま往路を辿り、七里川温泉へ下りた。七里川温泉で夏の陽射しにあたりながら
露天風呂に浸かり、東京湾から流れ込む気流で夏雲が湧く山並みを眺めつつ、たっぷりと時間
を潰した。

鎌倉アルプスを歩く         2010.8.22

最高気温31.3(℃) 最低 26.6(℃) 風向・南

鎌倉駅 === 天神前 ----鎌倉宮 ----瑞泉寺----天園登山口----天園峠茶屋----
大平山 ----十王岩----半増坊----建長寺===鎌倉駅++++和田塚 ++++長谷駅++++鎌倉駅

イメージ 1

以前、鎌倉を訪ねたのは、もう25年以上前のことになる。再び訪れた鎌倉は、連日のように
気温30度以上の日が続いていた。
同行者の夏休みは、鎌倉の寺院めぐりをしてみたいという希望を叶えて、天園ハイキング
コースの丘陵歩きを計画してみた。瑞泉寺から長谷寺までまだ行ったことのない鎌倉の道
を結びつけてみた。
鎌倉アルプスの最高峰は、標高159mの大平山である。折りしも、カンカン照りの真夏に、
低山歩きは過酷かもしれない。鎌倉の市街地を取り巻く丘陵地帯に天園ハイキングコース
が続いていた。

鎌倉からバスで鎌倉市街を抜け、閑静な鎌倉宮近くまで行く。
早速、歩き出す方向がわからない。地図とコンパスで見当をつけつつ瑞泉寺に向かった。
道々は、木々が生い茂り、思いのほか、猛暑の陽射しをさえぎり、暑さを幾分か和らげて
くれた。
真夏の瑞泉寺は、ふよう、百日紅、桔梗が咲き、時期外れの人もいない静かな境内を散策
できた。花の寺、瑞泉寺の紫陽花の頃は、いかばかりか。
庭園は夢窓疎石による禅宗の庭園で、岩盤が削られた様は、書院造りの庭園の起源となっ
ただけに当時の息吹が感じられる。

境内に「どこもく地蔵」と呼ばれるお地蔵様の謂われが書かれているのを目にした。
『昔、地蔵堂の堂守が貧乏な暮らしに苦しんでいた。ろくに参拝者もいないこんな堂守を
いっそのこと投げ出して、どこか他国へ移り住もうか、その方が生活も楽になるかも知れ
ない、と日々考えていた。ある日、夢枕に地蔵が現れ「どこもく、どこもく・・・」と
言って消えてしまった。夢から覚めた堂守は言葉の意味を考えたが、どうにもわからない。
そこで近在の八幡宮の供僧に尋ねてみると、”どこもく”とは、”何処も苦”のことである。
今の境遇が辛いからといって逃げ出しても、苦労は必ずついて回るものである。
堂守は浅はかさを悟り、以前にも増して地蔵堂を一生懸命守りつづけたという。』

イメージ 2 [いきなり険しそうな山道]

民家の入り口のようなハイキングコースの登山口から、瑞泉寺の裏庭の裏山といった感じ
の山道が続いていた。夏の炎天下を歩くことで心配だったが、ハイキングコースは鬱蒼と
した樹木で陽射しを遮り、暑さを凌ぐことができた。その分、眺望はない。
ちょっとした鎖場まで出てきたので、鎌倉の寺院めぐりとはいえ、同行者はなんとも訝し
そうな目つきだった。

竹林の中を抜けていくと、天園休憩所の茶屋がある。茶屋でアイスクリームを食べ一息入
れる。程なくして要塞のような天園峠の茶屋に着く。このあたりがハイキングコースの頂上
付近であろう。茶屋の近くには「横浜市内最高地点」の標識がある。
(標高159m。もう、これ以上登ることはない。)
なだらかな起伏を繰り返す丘陵地は、現在地の確認がおぼつかない。ここは別名、「六国峠」
ともいい、ここからは、安房・上総・下総・武蔵・相模・伊豆の六つの国が見渡せるようだ。
富士山でも見えれば、少しはご機嫌も麗しくなったのに、残念ながら見ることはできなかった。

イメージ 3 [峠kの茶屋]

尾根道を下るようにして行くと、突然、ゴルフ場の管理施設かクラブハウスが目の前に現れた
のには、ハイキングモードが高まってきただけにちょっと驚きだった。立ち入り禁止の柵で
囲われた異様な光景としか言いようがない。こうした、ゴルフ場がいつの日にか一般に公開
され、自由に闊歩できることがあったなら、日本の国は、満ち足りた穏やかな心を慈しみ
養えるようになっていけるように思うのだが。どこかの誰かの愉しみのために、誰かの営利
目的の閉じられたスペースが狭い国土の中に充満していく限り、人々の気持ちも、これ以上
豊かな心情を培っていくものにはなっていかないだろう。

大平山の広場は、もう少し陽気がよければ、お弁当を広げる格好の場所になることだろう。
真夏の陽射しはどうにも暑く、とても立ち止まってはいられなかった。この辺りだけが、
丘陵のよく陽のあたる尾根道になっていて、横浜みなとみらいのビルの町並みが見渡せる。
広場からちょっと驚きの岩場に上がると、そこが大平山の山頂だ。

イメージ 4 [大平山へ 崖のようなところを登る]

鬱蒼としてきた山腹をよく気をつけて見ていると、崖の奥の方や、崖の上に、穴ぐらや
祠があって、この辺りのいにしえの風習が伺える。これらの穴ぐらは、「やぐら」と呼ばれ、
古来、横穴墳墓や供養所であったところで、鎌倉の丘陵部にはたくさん存在している。
殆ど展望の利かない山道を歩いていくが、十王岩からはようやく、鎌倉の町並みや建長寺
の伽藍が一望できる。眺めの良い半増坊だが、ここまで階段で登って来るのはさぞ大変だろう。半増坊から烏天狗の群れに守られ、急な石段を下り、建長寺の樹齢 750年の立派な
ビャクシンを見て鎌倉アルプスの締めくくりとなった。

イメージ 5 [長谷寺から相模湾を望む]

照り返す陽射しの中、境内の前で飽きるほどバスを待ち、鎌倉駅に戻った。
鎌倉駅から冷房の壊れている江ノ電に乗り、長谷へと向かい、25年振りの大仏を拝んだ。
帰路、長谷寺にお参りして弁天洞窟の霊気にも触れ、旅の一日を終えた。

【大雪山への山旅を終えて】


<旭川のおばちゃんと”危険な遊び”>
達磨大師は、少林寺で面壁九年間、坐禅をして手足が腐ったというエピソードを思い出した。
不屈の行いの姿は、「七転八起」の起き上がり小法師となっている。
達磨大師の不屈の行いの姿には、些かも似ていないが、何日も続く雨の日のテント暮らしは、
まるで面壁にも似ていたような気がする。

下山当日は暴風雨で大変な目にあったのだが、付近の日高山系ヌカビラ岳でもやはり、
天候悪化に見舞われており、登山中だったツアーパーティーの動きがとれず、ヘリで救出
される遭難騒ぎがあった。
最近は、山岳遭難が多いからだろうか、”自己責任”という言葉が飛び交う。
勢い、”責任”という言葉が圧し掛かってくる。そして、”自己責任”というレッテルを付けられ、
ついには、登るな、行くな、という否定的な論調へと飛躍してしまう。
確かに、大自然の中に分け入り、その中を歩いてゆくということは、至る所、危険がいっぱい
なのだから、それを承知で登るなら登れということか。

イメージ 1 [ミヤマリンドウ]

元々、山登りは、危険な要素を含んでいる。
ひとつ間違えば、死と隣り合わせということだ。エキノコックスに毒キノコ、岩場の滑落、
落石、泥沼、沢の増水、鉄砲水、雪崩、道迷い。そればかりか、蜂、蚊、熊、狐、猿、
猪、蛇、ヒル・・・望まない動物との出会いもあるだろう。
山登りは、”危険な遊び”だということは承知している。それでも、山に登ることのわけは、
長い道のりを辿り、苦しみながら、辛さに耐え、いくつもの困難を乗り越えた後の、
登りつめた山頂の憩いにあるのかもしれない。さらに、可憐な高山植物との出会い、山小屋
でのひと時、朝な夕な、繰り広げられる飽くことのない山岳風景の眺め、振り返ってみる
縦走路の達成感もあるだろう。大自然は、そんな山歩きの楽しさや醍醐味を教えてくれる。
これと言って何の取り柄も無い私にとって、それはきっと、自分を褒めてあげられる唯一の
フィールドなのだろう。
旭川のおばちゃんは、雲南省へ旅立って行ったが、おばちゃんの旅立ちの気持ちと、私の
山登りの気持ちは寸分も違わない。そして、それは、「何でそんな大きな荷物を担いでまで
どうして登るのか。」という旭川のおばちゃんへの回答でもある。

<我(われ)は、何と問う。汝(なんじ)は何と応える>
”自己責任”という言葉自体どうも好きになれない。山に行くような人達は、敢えて言われる
までもなく、自然の中に自らを曝け出しているのだから、当たり前の事として承知している
のだと思う。
山に入ったら、自然人として生きていきたいものだ。そうは思うものの、這う這うの体で
トムラウシ山から逃げ出してきたのだけれど、”自己責任”という、何やら管理された枠組み
の中に自分を嵌めこみたくはないと思う。

よくわからなくなってきた「責任」について辞書を探ると、興味深い記述があった。
『他人に応答する責めを負うことを原義とするが、人間の本来的関係を「我(われ)と汝
(なんじ)」に置く見方からは、責任は本来、汝に対する我の応答であるとされる。』
ますますわからなくなったが、なるほど、と思う。
では、”自己責任”とは何か。それは、我が、我に対する、我の応答であろう。
我が我にどのように応答しようと、我が我に応答する責めを負うのだから、突き詰めて思えば、
それは”自由”ではないか。しかし、”自己責任”とは、一足飛びに”自由”なのではない。

我が我に対する語りかけがあって、我が我になんと応答したか、その応答した責めを自らが
負うのだ。だから、”自由”なのだ。それでは、”山で死ねれば本望”なのか。それは、
”我が我になんと応答したか、その応答した責めを自らが負うのだ。”と、私は、ふたたび
応答しておく。そこには、”他人”は、出てはこない。
好きなことをして死んだのだからそれでよいではないか、と言われるが、そうではない。
山で死んではいけない。

イメージ 2 [トカチフウロ]

<山の知恵>
”自己責任”と、”山で死ねれば本望”の狭間で、恐る恐る山々に近づいてみるけれど、
山登りは、元々、”危険な遊び”なのかもしれない。
大自然相手の危険なところに自ら出向いて行くのだから、好むと好まざるとに関わらず、
知らぬ間に危険が忍び寄っている。だから、登山という行動をそのまま放置していると、
いつの間にか”危険な遊び”になってゆく。

それを”危険な遊び”にしていかないように、常に、山の知恵を働かせ、楽しい山歩きに
してゆくための心得を怠らないよう不断の努力が必要なのだろう。
強いて言えば、我に対する我の応答を背負って山を歩いていくのである。
だからこそ、山歩きの愉しみを味わうためには、大自然のあるがままを素直に受け入れ、
逆らわず、恐れおののき、畏怖の念を持ち、厳かに近づいてゆくことを忘れず、
それができるかどうかにかかっている、と密かに思っているのだが。

【大雪山への山旅 -8】

8月1日  <覚悟の下山>

願いは、早く夜が明けてくれないか、ということだけだった。
暗闇では歩けない。とにかく今は耐えて、夜明けを待つしかない。暴風雨は、断続的に突風を
伴うようになった。テントのポールがグルグル動いて、ポールを掴んだ手からは風の強さが
伝わってくる。
暴れるテントを気遣っているばかりだった。風速20m以上はあっただろう。台風並の風だ。
ヘッドランプを点け、とりあえず、片っ端からリュックに荷物を詰めていき、テントが飛ばされたり、
潰ぶされた時の脱出の準備だけは済ませておいた。
さぁ、この危機にどう対処するか。撤収か?待機か?・・・判断は迷いに迷った。
トムラウシ遭難の原因は、強い風雨の中でツアーを続行し「小屋を出たこと」にあると考えて
いたが、今、自分が同様の事態に直面して、「テントを出たこと」が遭難の第一歩になるの
ではないか、という漠然とした不安も頭をよぎった。

夜が明けても、暴風雨はおさまらず、一層猛威を奮いだしてきた。少し明るくなってきた5時頃、
テントを開けてみると一面のガスが立ち込めていた。風が極めて強く、テントを撤収することも
躊躇われた。
テントを撤収するにしても、何もかも飛ばされてしまいそうだった。何度もテントが飛ばされた
時の光景が目に浮かんできた。雨に濡れ、風に吹かれ続けたら低体温症の恐怖が蘇った。
低体温症の条件は、湿性寒冷と雨、気温10℃以下、風速10m/sだ。
せめて、少しでも明るくなるのを待ちたかった。今動いてはならない。じっと待つことだ。
嘉門次のように。

イメージ 1 [飽くことなく眺めていたトムラウシ]

午前6時になった。もう少し様子をみたかった。
テントはなんとか潰されることも飛ばされることもなく暴風雨に耐えてくれたが、フライシート
も緩み、テントの脇の部分が弛み、リュックで押さえつけていても、押し戻される状態だった。
まだ此処にいるのなら、もう一度テントを張りなおす必要があった。
7時になっても、荒れ狂う風雨の気象状況は変化しなかった。決断と実行の判断期限を8時と
決めた。テントを撤収した後、歩き出す方角とコースを地図を何度も開いて確認した。
まともに雲の中に入っている。道を南東へストレート・ウォークで辿り、高度を下げて、なんとか
前トム平まで行ければ、道は開けてくる。そう考えていた。

<運命の天秤>

午前7時30分、一時雨は止んだ。しかし、濃いガスで、視界は足元しか確保できない。覚悟を
決め撤収を決断した。運命の天秤は、いつも安易な方向に振れるものだ。
来た道を引き返す安心感はあるものの、やはり、コースアウトが怖かった。想像はしたくないが、
雲かガスで前の見えない白濁の景色の中にいると、ガスに巻かれホワイトアウトの状態に陥っ
たら、錯覚を起こしてしまい、雪原でなくとも、方向感覚がわからなくなる。

岩場で迷い込み、ルートを見失ったら、大雪山の広大な原野を彷徨うことになる。
昨日来た道も周りの景色も、何も見えない状況で、記憶の糸を辿ることもできない。
特に、岩石の積み重なる岩場を歩いていると、何処をあるいているのか、自分の位置を見失っ
てしまう可能性が大きい。どちらを向いても岩だらけで岩の色や形など覚えているはずもない。
何処までも続いている岩場を彷徨い歩いて行く自分の映像が、目の前に映し出されているよう
だった。

大雪山の守護神として、邪気、物の怪(け)が入らぬよう、トムラウシは、怒りの暴風雨をもって
防ぎ屹立していたに違いない。邪気、物の怪(け)は、この私だ。
麓から見ても、霧に煙った層雲の中で、暴風雨とこんなに悪戦苦闘しているとは誰も気づか
ないだろう。
向かい風の風雨の中で呼んでいたのは、家族の名前だった。そして、生きて家に帰ること。
このまま、誰にも気づかれないまま、歩き続けて、行き倒れてしまうのか、いろいろな遭難
事件の事が今の自分の置かれている状況と重なり合い、何だか真実味を帯びてきて、いつ
自分の身に降りかかってきてもおかしくないことを身をもって体感していた。

雨も断続的に降り続き、大粒の雨粒が頭から雨具を叩きつけてきた。気づくと雨具は、上着
だけを着ていて、下の雨具を履いておらず、ズボンがびしょ濡れになっていた。気象条件が
揃えば、まちがいなく低体温症になってしまったことだろう。
雨の中の着替えの困難さ、荷を降ろすことのもどかしさ、風を避けるところも身を隠すところ
もない。誰も容赦しない、大自然の猛威をイヤというほど感じ取っていた。
このまま、ホワイトアウトに陥って、見当違いの方向に歩いていき、リングワンデリングに
なってしまうのではないか、マイナスのイメージばかりが頭を駆け巡っていた。

体力・気力・天候、そのどれかひとつでも不具合がでてくると遭難に繋がってゆく。
自分しかいない。自分に呟くしかなかった。「大丈夫、大丈夫、もうすぐ帰るからね。」
歩いて行く気力をつなぎとめていく唯一の方法は、こんな心の叫び声でしかなかった。
何度もコンパスで方角を確認し、南東へ足元を向けては足跡やペンキ跡を辿っていった。
前に進めないほどの強風が吹き荒れ、何度も足元をすくわれた。雲の中を歩いているのだが、
雲の上を歩いているような錯覚すら覚えた。猛烈な雨と風を受けながら、トムラウシ公園の
上部付近まで下りてきたところで、突然、人の気配がした。荒れ狂う白濁した雲の壁の中から、
ずぶ濡れになった髭面の初老の人が現れた。こんな悪天候の中で、人と出会うということは、
神か仏に出会ったようにも見えた。
自分は命からがら下りてきているというのに、この暴風雨の悪天候の中をまさか、これから
山頂に向かおうというのか、なんとも無謀な行為としか言いようがない。なんとも信じがたい
気持ちだった。

「何処から来たのか。山頂はまだか。」
「南沼キャンプ場です。山頂は、まだそこからさらに先です。」
髭面の人を振り向いてみる余裕などなく、その人は、そのまま吹き荒れる白く濁った雲の中に
消えていった。
また再び、白濁した雲の壁の中を足元をすくわれながら、前に進めないほどの強風に向かって
歩き続けていくと、あの髭面の人が突いていたのだろうか、ストックを引きづった跡が所々に
残っていた。それは、何よりも確実な”道しるべ”になっていた。
まさか、あの人が神様か、仙人で、私のために道しるべをつけてくれたのかもしれない、
と本気で思っていた。私はその跡を忠実に辿って進んで行った。

イメージ 2 [大雨に打たれて歩いた森]

前トム平まで下りてこられた時の安堵感は計り知れないものだった。
荒れ狂っていた雲の中を抜けると登山道もずいぶん明瞭に見えるようになった。その代わり
雨足が強くなってきた。
登って来た時の記憶も蘇ってきてた。もう大丈夫と自分に言い聞かせながら、ゆっくり丁寧に
足を踏み出して行った。登山道を振り向けば、前トム平の上を灰色のぶ厚い雲底が通っていった。
土砂降りの雨になった。カムイ天上までのどうしよもない泥んこ道で、三度転び、一度は
リュックを泥水に浸けてしまった。

コマドリ沢で、麦藁帽子の老人と青年に出会った。
「登ったんですかぁ。どうでしたか。」と青年の声がしたので、まともに歩けないような暴風雨
だったことを話してあげた。二人は頷きながら微笑んでいた。
山登りをする格好でもなく、釣竿を持っているわけでもなく、傘も差さず、荷物もなく、ただ、
沢の淵に佇み、こちらを窺うように見ていた。雨のコマドリ沢で何をしているのか。悪天候の
時に登ってくる人もあるくらいだから、こんな山奥のコマドリ沢まで遊びに来るものなのか。
不思議な人達だった。

降りしきるしきる雨の中をひたすら歩きつつ、こんな事を考えていた。
・・・あの暴風雨の中で出会った仙人が弟子を連れて、私の無事を確認しに来てくれたの
だろうか・・・。にっこり頷いた仙人のような老人の顔が印象的で忘れられなかった。
私は、いいように解釈して、まだかまだかと、ひたすら山を下りる事だけを考えて歩みを進めて
いた。温泉コースからは、今にも熊の出没しそうな薄暗い静かな森の中を大雨に打たれ、
笛を吹き吹き山道を辿りながら、麓のトムラウシ温泉に下りていった。

     -おわり-

【大雪山への山旅 -7】   

 

7月31日   <魔の山>

 

4時8分起床。雨は降っていない。所々青空も見える天気になった。
テント撤収を決め、登山の仕度にとりかかった。とうとう食糧も、ぎりぎり2日分となり、本当に
最後のチャンスだった。ガスボンベで湯を沸かしながら、コンデンスミルクを溶かし飲み込んだ。食事は、パン一切れにカップスープと取って置きの牛肉の缶詰。
午前4時50分、トムラウシ温泉野営場でのテント暮らしに別れを告げた。

 

トムラウシ温泉神社にお参りをして、登山口に書き留めておいた登山届を提出した。
ただただ、歩けることに感謝しつつ、麓の静かな森の中に入って行った。ろくな物を食べて
いないせいか、案の定、いまひとつ山登りのパワーがでない。
山道の途中で帯広の親子連れと出会い、山道を同行していくことになった。幸い、穏やかな
日和に恵まれ、高山植物の解説をしていただいたり、お陰様で今までの雨降りの鬱陶しい日々を忘れて楽しく山歩きをしていくことができた。テントに籠もっている間に、鈍ってしまった体はカムイ天上までが辛かった。泥んこ道は延々と続き、何度も泥濘に足をとられた。

 

コマドリ沢は、水量が豊富で、残雪は残っていなかった。
アイゼンの出番はまったくなかった。
高山植物に元気付けられ、北海道の山を登っている実感が湧いてきた。前トム平まで上がってくると、そこからはトムラウシの姿を見ることができた。眼前に見えたトムラウシは、山頂を雲の切れ間に溶岩ドームを突き出し、なんとも厳かで神秘的だった。
これほど山の姿が神々しいものに思われたことはなかった。何日も雨降りの鬱陶しい日々を
我慢して、たどり着いた、これが私の待ちに待った”遥かなるトムラウシ”だった。

 

 

イメージ 1 [”魔の山”仁王像のようにもみえた]

 

30万年前に火山活動が始まったといわれるその姿は、何か恐ろしい”魔の山”の妖気を漂わせているかのようにもみえた。近づいていけば尚更、睨みつける仁王像か、立ちはだかる金剛力士像のようだった。
トムラウシは、双似峰の山容をしているので、仁王像の阿形・吽形の一対として見えるのかもしれない。寺の門の脇で仁王像が待ち構えているように、大雪山の守護神として、邪気、物の怪(け)が入らぬよう怒りをもって防ぎ屹立していた。

 

南沼キャンプ地にテントを張るため、南沼近くのトムラウシ分岐からテントサイトに向かった。
今日中に往復登山する親子連れは、先にトムラウシ山に向かって行った。
山頂では、親子連れが待っていてくれて、コーヒーまで頂き、記念写真を撮ってもらった。
道中、親切にしていただいた御礼を言い、トムラウシの山頂でお別れした。
日が暮れるまでに下りられればいい、と言いながら山頂を後にしていった。
トムラウシの山頂から麓まで6~7時間はかかるからあまりゆっくりはしていられないのだ。

 

山頂には誰もいなくなり、また一人ぼっちになった。
静かな山頂は、穏やかに晴れ渡っていた。遥か彼方には、旭岳から白雲岳、忠別岳、化雲岳の雄大な稜線が広がっていた。南北に繋がり広がっている山稜は、けして険しい山並みではない。むしろ、溶岩流が流れ固まった大地を思わせる。
縦走路を縦に眺めるトムラウシの山頂からは、折り畳まれるようにして見えている。
ここまで辿りつき、この山腹で力尽き、ここでいくつもの遭難が繰り返された。

 

イメージ 2 [山頂から北沼を望む]

 

私は、ずっと旅をつづけてきたように思っていた。
たかだか、数日のことだったけれど、長い長い旅路を経て、ようやく辿りついた終着駅のベンチに腰を下ろしたようだった。恵まれて、この山の頂に立ち、雲の行きかう様、連なる山々の
荘厳な趣と広大な眺めを得られた。もう、何もいらない。何も無い。空っぽの心になっていた。

 

私は、< 心は旅をする >という記事の中で、”芭蕉が抱いていた虚無感”を考えたことが
あった。そこには、芭蕉を旅へと突き動かした”わけ”があった。
芭蕉の抱いた虚無感とは、「何物もなく、むなしいこと。空虚であること。何も無いこと。」
であった。この世に存在するすべてのものに価値や意味すら認めないほどに、何もいらない。何も無い。
俳諧は、そういうからっぽなところから生まれてくることを教わった。そして、私の結論は、
「心は旅をする」ということだった。

 

今、30億年前にできたトムラウシの頂にいて、同じような心境になっていたのは不思議だった。自分の存在さえもが無意味で無価値なもの。虚心であること。 
心は、無限の宇宙。虚空(こくう)を旅することができる。そして、万物の根源・本体は、はかりがたく無であって、”無”から生まれたのだ、と。
山頂に握りこぶしほどの石を積み重ねてケルンにした。これで私の願いは叶った。
何も無い。空っぽの心で弔いの手を合わせた。
山頂のトムラウシ山の標識は、まるで墓標のように天空に突き立っていた。

 

 

イメージ 3[山頂からオプタテシケ・十勝岳]
 
南沼キャンプ地に下りていくと、警察の山岳遭難救助隊の人たちがいた。どこかの山岳部の
メンバーかと思っていた。私が北海道に来た時に行方不明になった人を捜索している。
その人は、まだみつかっていないようだった。私が、麓の野営場で憂鬱にして沈んでいた頃、
トムラウシの山中の何処かで、雨の降りしきる中をさ迷い歩いていたのだろうか。
今頃、何処でどうしているのか、降り続いた雨を何処でどう凌いでいるのだろうか。

 

午後4時には夕食の準備に取り掛かり、豊富な雪解け水を使って食事だけは早々に済ませておいた。
夕焼けを待っていたが、西の空はいつまでたっても、赤くはならなかった。西側は山が迫り、
よく見渡せず、それが悪天候の予兆だったのかどうか、わからない。南沼キャンプ地は、山頂直下にあるので、晴れ渡った大きなトムラウシ山をいつまでも眺めていることができた。こんな贅沢はまたとないだろう。

 

夕方から少しずつテントを軽く叩くような風がでてきた。湿度が高いと、雲底は低くなる傾向にあるものの、南方のオプシタテや美瑛岳、十勝岳方面は、ちょうど山頂近くの2000m付近に雲底が形成されて積雲がきれいに並んでいた。特に天気を崩す雲もなく、まだ穏やかだった。午後3時で15度あり、気温も心配したほどは下がらず、安心していた。

 

ところが、徐々に風の勢いが増し、午後8時には、テントのフライシートが煽られはじめた。
風はもうすぐおさまってくるだろう、という気持ちとは裏腹に風は益々強まっていった。
支柱も揺れ、ポールに触れると張り綱がピンピンに張っていることが伝わってきた。
悪天候の兆しがつかめず、半日ほどの観天望気が外れたのには、なんとも不甲斐ない
思いだった。雨も降り出しテントを叩いた。夜半から未明にかけては暴風雨となってしまった。雨も染み出してきた。
吹き曝しの南沼のキャンプ地は、南面に開いているため、強風の南風をもろに受けている。
暴れるテントを気遣い一睡もできず、夜が明けた。みんなと一緒に下山すれば良かったと後悔していた。夜が明けても、暴風雨はおさまらず、一層猛威を奮いだしてきた。

 

このテントは、今回、防水処理をして、張り綱を替えた。メンテナンスを続けて、かれこれ
30年になる。あるときは、テントの中でじっとすさまじい雷に耐えていた。またあるときは、
暴風雨に耐えたテント暮らしを思い出し、自分を奮い立たせていた。こんな他愛無い経験でも、この経験がなかったら恐ろしくて逃げ出していただろう。
見ず知らずの北の大地、トムラウシ山の2000m付近の南沼にいて、心細さは未だかつて経験したことのないものだった。

 

 

      -つづく-