ゾウの砂時計   <その3>

 
<浦島太郎は、君の好きな音楽を理解できない>
 
最近の音楽はなかなか好きになれない。テンポが合わない、メロディーが感性に
寄り添わない。
曲の良し悪しや好き嫌いではなく、人の時間感覚の感じ取り方によっては、十人
十色の音色が奏でられているのかもしれない。
楽曲のテンポはイタリア語[tempo ]で、「時間」を意味する言葉だ。音符の拍の
単位を人間の鼓動としているため、テンポは音符そのもの、「時間」そのものだ。
もしかすると、私の60兆の細胞の感覚は、アダージョをラルゴと思って時間の速さ
を感じ取っているのかもしれない。だから、テンポが合わず、感性も震えない。
 
日本人と外国人でも、音に対する脳の感じ方が違うらしい。
「日本人は言葉の音を鳥の声や雨の音などといっしょに左の脳で聞き、右脳では、
洋楽器の音、機械の音や雑音などを聞くだけである。これに対してほとんどすべて
の外国人は、左の脳で聞くのは言語の音ぐらいで、その他の自然音や楽器の音は
すべて右脳で聞く」 角田 忠信「日本人の脳」より。 

日本人の独特な脳の感じ方は、ボルネオの山岳民族にも同じ様な脳の感じ方の
傾向をもっているようだ。遠い昔、日本人の祖先は、きっと、自然の音に満ち
溢れた南方のポリネシアから船に乗って日本列島に辿り着いた民族なのではないか。
外国人にとって蝉や蛙の鳴き声は、騒々しい雑音でしかないらしい。ならば、
外国人には、芭蕉の蝉の声を理解することはできないのか。

 

とすると、人の中を流れ去る時間の速さが、音楽を感じ取ろうとする人の感覚に
影響を与えているのではないかと思えてくる。人の感覚がどのように時間の速さを
感じ取るかは、その時の気分の持ちようや、年齢によっても違うようだ。確かに、
子供と老人とでは、今まで暮らしてきた時間の積み重ねと経験事象を踏まえると、
一年の長さは違って感じられるかもしれない。
もしかすると、人それぞれが異なった時間の流れとスピードで生きていているのかもしれない。

同じ曲を聴いていても、静かに横になっている時には、早いリズムに聴こえ、運動
した後では遅い拍子に聴こえることがあるというが、どうだろう。
君が好きだといった音楽も、アーティストの名前も僕は知らなかった。
その曲を聴いたことがなかったのだろうが、早いリズムに乗って拍子を取ることが
でず、記憶に残らなかったのかもしれない。
もしかすると、君と僕の音を感じ取る感覚の違いも、時間の速さを感じ取ることも、お互いの体の中を流れる時間のスピードさえ異なって、リズムが流れていたのかも
しれないのだから。

 

イメージ 1 [帰ってきた浦島太郎]

 

<浦島太郎は、悲しみを覚えていますか>

 

地球上で重力の影響を受けて生活している以上、重力場から逃れることはできない。
その強い力が働く重力場では、時間の流れ方が違う。地上の重力が空間を歪ませ、
時間さえ、無重力の宇宙空間に比べ、地球上で1秒当たり100億分の7秒という時間
がゆっくり進むことになる。いっとき、アルベルト・アインシュタインになって、「一般相対性理論」を心の中で呟いてみたものの、理解の及ばない難解な疑問の
坩堝の中に嵌り込んでいった。
 
僕がロケットに乗って宇宙空間に行って、ロケットのスピードを光速に近づけて
いけば、時間の遅れが生じてくるというのか。そうすると、光速に近い速さで飛ん
でいくロケットは、ほとんど時を刻まないことになる。
宇宙船が光速に近い速度で、慣性の法則に則り飛行を続けていたら、君が1年暮ら
している間、宇宙船の中にいる僕の時計は、まだ1年にも満たず0.44年しか経って
いないことになる。

僕が宇宙船に乗り、宇宙の光の道を駆け巡って、再び地上に戻ってきたら、君は
たいそう歳を取り、宇宙船にいた僕はほとんど歳を取ることもなく、浦島太郎の
ようになっているということでしょうか。
僕が宇宙の旅から帰って、浦島太郎のようになっていたら、君は悲しむだろうか。
そして、僕は、君がわかるのだろうか。
 
賢人、キケロは言う。「悲しみをやわらげてくれないような時間はひとつもない。」
悲しみさえも、やがては時間が解決してくれる。どんなに厭なことでも、時間が
経てば、記憶は薄れ、そのうち何もかも忘れてしまう。
そう、物事は、時間が解決してくれることもある。
きっと、そのことの方が多いのだ。

やわらかな脳細胞の化学反応は、そのように純粋に作用するようにできている。
悲しみをやわらげてくれる時間の速さは、人それぞれ違う。悲しみのその時、
そこを流れている時間は、やがて消えてゆくにしても、生命の特別な時を刻んで
いたのではないだろうか。
僕たちに流れる時間のうつろいが、毎日オブラートを一枚ずつ重ねていくようにして、突然訪れた悲しみの記憶を徐々にやわらげて消してくれる。
 
僕が宇宙を駆け巡って、再び地上に戻って来る頃には、悲しみの事などすっかり
消え去り、何もかも忘れ去っていて、浦島太郎のようになった僕のことすら何処の
誰かもわからなくなっていることでしょう。

それから、僕は、とてもゆっくりとしたラルゴを聴き、君は、歌うようにゆる
やかに、アンダンテ・カンタービレを奏でる。
叶うことならば、このときばかりは、どうか、時間の流れ方が君と違わないことを
祈ります。

ゾウの砂時計   <その2>

 

<”ゾウの砂時計”>
 
私は、ふと、『ゾウのように生きていけばいいのに。』・・・と思いながら、忙しなく働く鼠の
ような君の姿を想像していた。

あれからどのくらいの月日がながれたことでしょう。
今も私は、つい昨日のことのような気がしています。ということは、私の中の時間は、
時間が流れていないか、止まっている、ということでしょうか。
そのことを君はどう思っているでしょう。そんなことは何も思うこともなく、何も考えずに
暮らしていることでしょうけれど。

 

いつのことだか、「なんと時間の経つのがはやいのか」と呟き、
「もう、こんな歳になってしまった」と嘆いていたのは、ついこの間のような気がします。
時間が無い君は、鼠のように生き急いでいるようにも見えるし、恐らくは、すぐに過ぎて
しまう時間感覚に惑いながら、やっぱり、”今”を生きているのでしょうね。
この地球上に存在していて、鼠のように忙しなく働いていると、時間の経つのが速く、
どんどん歳をとっていくのでしょうか。

 

イメージ 1 [ゾウに流れる時間]
 
生物種によって、時間感覚や体感時間を感じ取る感覚に違いがあるのだろうか。
本川達雄氏の『ゾウの時間、ネズミの時間』では、時間感覚の違いをこう話している。
「ヒトの心臓が1回ドキンと打つ時間場合はおよそ1秒です。ところが、ハツカネズミなどは、
ものすごく速くて1分間に600回から700回です。1回のドキンに0.1秒しかかかりません。
ちなみに普通のネズミは0.2秒、ネコで0.3秒、ウマで2秒、そしてゾウだと3秒かかるんです。
どれも体重が重くなるにつれ、だいたいその4分の1(0.25)乗に比例して時間が長くなる
ということが分かっています。」

哺乳類ではどの動物でも、一生の間に心臓は20億回打つ。
体が大きい動物ほど、心臓の鼓動もゆるやかになり、呼吸も筋肉の動きもゆっくりに
なっていく。
生物個体の生理学的反応速度が異なれば、主観的な時間の速さは異なるという。
君とは違う私の鼓動や呼吸の速度が違うならば、もしかすると、私の中の時間は、
時間が流れていないか、止まっている、と感じられるかもしれない。
きっと、君の心臓の鼓動は、早鐘を打つごとく動いているのだろう。
ネズミは数年、ゾウは100年生きる。ネズミもゾウも寿命を全うして、一生を生きた感覚
というものは、どちらも変わらないのではないか、という。
 
静かにゆっくりと、のんびりと時間がうつろうのは、君にとっては居た堪れないことでしょう
けれど、せめて体感時間くらい、”ゾウの時間”を感じてみるのはどうですか。
”ゾウの砂時計”をもって暮らしてみるのもいいものですよ。
体はゾウのように大きくはないけれど、たまには目線を上げて少し高いところから眺めて
みることも必要でしょう。
いつもよりもう少しゆっくり歩けば、気づかずに通り過ぎていたものも見えてくることが
あるでしょう。

 

心の中に”ゾウの砂時計”をもって、ゾウの3秒の心周期を刻んでみましょうか。
静脈から心臓に帰ってきた血液は、心房に入り、房室弁を通って、心室へ流れていきます。
そこから動脈弁を潜り抜けて再び動脈へ押し出されていきます。体をめぐる赤い血の
流れ方も変わってきそうですよ。

 

もう、砂時計をひっくり返しながら、落ちてゆく砂の流れを見詰めて退屈な時間を過ごす
こともありません。
私の昔の砂時計は、存在すら忘れられてその辺に転がったまま、中に入っている砂は
流れ落ちることもなく、時が止まっています。
 
    -つづく-

ゾウの砂時計   <その1>


<退屈な時間は、なかなか過ぎてはくれない>

小学生の頃、砂時計で遊んでいた記憶が蘇る。
遊び友達のいない時に、砂時計は一緒に退屈な時間を刻んでくれていた。
真ん中がすぼまったガラス製の容器にサラサラの砂が入っていて、砂が流れ落ちると、
すぐにひっくり返して飽きずに砂の流れを見詰めていたものだ。
砂が流れ落ちる時の経過時間を計り、「時間」を目に見える形にしているのだが、たぶん
そんなことは露知らず、砂の落ちていく様子に興味があったのだろう。砂が沈み込むと、
砂時計をすぐさまひっくり返して再び砂の時を刻む。
私の時間も、砂時計のように細切れに退屈な時間を刻んでいったのだろうが、それ以来、
砂時計に触れることはなかった。

それから幾月年月が流れ、世の中の時間の中に埋もれ、浸かりきって生きているのを知った。
砂時計は、現在という時が、過ぎ去った過去の時間と、まだ来ぬ未来の時間の狭間にあって
時間というものが、砂の流れとしてあからさまにリアリティをもって目の前に示されることが
厭になった。目に見える形の「時間」は、とても恐怖だった。
やがて、砂時計の砂は、ガラス容器の底に沈殿して沈み込んだまま、目に見える時間は
止まり、砂時計は何処かに忘れ去られていた。
砂時計の底に沈殿して止まった時間は、永遠に其処にあって動かない。

イメージ 1 [砂時計の底に沈殿してゆく時間]

ある日の朝、誰かがいつもの口癖でこう言っていた。
「まだ、水曜日か。一週間が長い。時間が経つのが遅い。週末まであと3日もある。」
嘆きまじりの冗談ではあるが、確かに同情するところはある。
週末に楽しみにしていることがあって、早く時間が過ぎて欲しいと思っているのに、
いろいろと用事が重なっていて、拘束された時間で頭がいっぱいなんだ。だから一週間が
長く感じられ、なかなか時間が過ぎてくれないということだろう。
つまらない気のすすまないことをやっていると、時間はなかなか過ぎてはくれない。
まぁ、真面目に仕事に取り組んでいるようには見えるのですが、どういうことでしょうか。

こうした時間の感覚は、本人特有の感じ方によるものなのか、実際の彼と、私が感じる彼の
見え方が違うということなのかもしれない。時間が経つのが遅い、そういっている割には、
平然と暢気に仕事に着いているところをみると、普段何気なく心の内に溜まっていることを、
ストレス発散の捌け口にして呟いてしまったのだなと思う。
気を落ち着けて、彼の時間と私の時間を比べて考えてみると、同じ時間を過ごしているように
見えていても、それぞれが持っている時間に対する時間感覚の微妙な違いに気づくのだった。

同じ会社の同じ職場の人々であるのだけれど、たまたま偶然のようにして、此処の時空間に
居合わせて同じ勤務時間という時間の帯の中で何気なく仕事をしている、その等しく同じ
時間であるべき時間の長さに、その時間の進み具合に気づくと、たちまち脳細胞が翻弄されて
しまった。
そして、ついに、『あなたは、宇宙空間にでも行ったらいいのではないか。』と内心思いながら、
彼がふわふわと浮かんで、宇宙遊泳している姿を想い描いているのだった。

    -つづく-

エンドウ豆の行方


往くあてもなく、流れる雲のように生きていきたい。
そう思っていたのはいつのことだったか。
自分の力ではどうしようもないような無力感が充満していた。
時の流れは、空虚な空気をつくり出し、もう、やり直すことも叶わない。
手を差しのべることもなく、終わりの予感を感ずることもある。

ふっと、手から離れてゆく、失われゆくもの。
広げた手には何かが弾ける感覚が残った。
読んでいた本のページが、ふとした拍子に手から離れていく感覚。
そんな些細な出来事の微妙な感覚が脳裏を掠めていった。
確かに、この感覚は何かに似ている。
剥いていたエンドウ豆が思いがけず弾け跳んだような感じだった。

もう、何も始まることのない、空っぽの物事から得る感触がそれだった。
何もない終わりの予感が漂い、知らぬ間に消えてゆく記憶のページ。
何もない未来に感じてみても意味はない。
正(まさ)しく、たった今は何も起こってはいない。

イメージ 1 [弾け跳んだエンドウ豆]

幽霊のようになって無意識の世界から呼び覚まされる幻影のように
正体不明の腸(はらわた)は、永遠に旅を続けながら振り向くことすらしない。
自分で「無意識」の中に閉じこめたがっている腸の正体をつかむまで、
恐れるのはまだ早い。
終わりの予感の幻想が、手から弾け飛んで零れ落ちてしまったに過ぎないのか。
幻想の影は、二度と正体を現すことなく、虚ろな姿のまま弾け跳んだ。
寄せては返す白波のごとく月日は流れ、百代の過客として永遠に旅を続けていく。

うつりゆく人生の道すがら、人は何を記憶に留めていくのか。
いつかあった記憶の面影も薄れて、サヨナラの言葉もなく消えてゆくものたち。
エンドウ豆が弾け跳んだ先を、こだわりのしるしを訪ねて歩いていこうか。
たぶん、弾け跳んだエンドウ豆は何処にも見つかることはないだろう。
いつまでも、はらりと手から離れていく感覚だけが残っているだけだ。

どんな姿になったにせよ、いつか無意識の世界から
イメージが湧き出して意識の世界に表れて出てくるのを待つしかない。
あまりにも無意味な物事に頭が占有されることがないようにしながら、
弾け飛んだエンドウ豆の感覚も、終には力尽き、無意識の中に混濁してゆく。
ふっと、手から離れてゆく失われゆくもの。
往くあてもなく、流れる雲のように生きていきたい。

      僕と白雪姫の秘密   


 「世界で一番美しいのは誰?」
白雪姫の継母である王妃が魔法の鏡に向かって訊ねる。「世界で一番美しいのは誰?」
魔法の鏡は答える。「白雪姫」と。
初めてこの物語に接したとき、白雪姫よりも、継母の王妃に関心を持ったように思う。
関心事は、王妃が魔法の鏡を持っていること、魔女になって物売りのお婆さんに化けられ
ること。何故、毒りんごを食べさせてまで白雪姫を殺そうとしたのか、その動機まで知る
由はなかった。

心の叫びか、囁きかわからない。自分の価値を感じとれなくなってしまった王妃は、常に、
誰かに、認めてもらわなければ心の平安は訪れない。
王妃は、自己認知欲求を魔法の鏡に映し出していたのだろう。自分自身を投影し映しだす
魔法の鏡。魔法の鏡は王妃自身。
もはや、認知欲が満たされなくなってしまった心の痛みは、けして癒されることはない。
だから、自分のことを否定された王妃は、自己の「無価値観」に対する恐怖心の裏返しで、
妬みや嫉妬の鬼と化してしまう。その矛先は永遠の美の象徴としての白雪姫に向かう。
殺害を企てられた白雪姫は三度死んでしまう。

魔女の最初の殺害計画は、猟師に白雪姫の殺害を依頼するが未遂に終わり、猟師が持ち
帰ったイノシシの肝臓を塩茹にして食べてしまうほど、王妃は鬼と化す。
物売りに化けた王妃に、腰紐で首を絞められ息絶えた。七人の小人に助けられ復活する。
再び、魔女に毒を塗られた櫛が頭に刺さり、絶命するも、七人の小人が櫛を引き抜くと
不思議に息を吹き返す。ついには、毒りんごを食べてしまう。
ガラスの棺に入れられた白雪姫を王子が連れ帰るが、荷馬車が石に躓き、その弾みで喉に
詰まっていた毒りんごが口から飛び出して生き返る。
生き返った白雪姫は、王子と幸せに暮らすという有名なグリム童話である。

イメージ 1 [Marianne Stokes Schneewittchen.jpg]

<木偶(でく)の坊でも、幸せになれる>
誰も小屋の中に入れてはいけない、という七人の小人の忠告もきかず、三度も魔女の罠に
はまってしまう。
白雪姫は、従順過ぎるのか、七人の小人の言っていることがわからなかったのか。
勘違いや、すぐに忘れてしまう性格で、同じような過ちを繰り返してしまったのか。
人のいい思い込みから、騙されやすくまんまと罠に嵌ってしまったのか。
白雪姫と、七人の小人のコミュニケーションギャップが起きてしまったのだろうか。
愚鈍、魯鈍(ろどん)、無能、愚か者、間抜け、凡暗(ぼんくら)、木偶の坊。
美しく魅力的な白雪姫に、どんな言葉が似合うのだろう。

そのまま、賢く、ドワーフの忠告や助言を聴いていたら、物語の最後で王子と幸せに暮らす
ことはなかった。何度も過ちを繰り返してしまうことによって、あまりに人間的な素直な性格
を強調したのか、それゆえに人に騙され、譬え、辛い目にあったとしても、災い転じて福と
為すこともあるということではないか。
人目には、愚鈍な性格でも、社会的な常識にひどく欠けている愚か者でも、いつか幸せに
なれることもある。そのような喩えとして読み下してみればよいのだろうか。

<自己完結するコミュニケーションギャップ>
出来事は、君のまだ知らない無意識の世界で起きていた。
とうとう君は、誰も頼らず、一人で生きていける強い精神力を身につけてしまった。
いつも、たった一人で考え、行動し、いくつものハードルを乗り越えてきたのだろうから。

理不尽な話は、君の中で自己完結してしまい、突如、怒りを露にして襲ってきた。
悪気もないのだろうけれど、もう既に自分自身の中で自己完結していて、既に結論は出て
いるから、僕の話の真意は伝わってはいない。
僕はただ、賢く、聡明な君に災いが降りかかることを恐れていただけだった。
折れ曲がった毒針は、君の知らない無意識の世界を駆け巡り、決定的な断絶を生んで
しまった。
君は、自己完結するロボットのようだった。たぶん、未来永劫、そのコミュニケーション
ギャップは二度と埋まることはない。

君は、僕に紐で首を絞められることもなく、毒を塗られた櫛が頭に刺さることもなく、毒りんご
を口にするようなこともなかった。すぐに忘れてしまう性格でもなく、同じような過ちを繰り
返してしまうこともない。ましてや、妬み、嫉み、恨みをかうこともないし、凡暗(ぼんくら)、
木偶の坊などと言われることもなかっただろう。
だから一度も、気を失って死ぬこともなく、いつもとなんら変わらぬ日々を恙無く過ごす
ことができる。
いつも冷静に物事を考え、行動するような人であるからこそ、いつまでもそのままであって、
君がそうである限り、僕が望んでいたような新しい未来は切り開かれることはない。

<両刃の剣>
白雪姫は、魔法の鏡に訊ねることはないのだろうか。
確かに、勘違いや人のいい思い込みは、騙されやすくまんまと罠に嵌ってしまう。
そうした”隙”が取り掛かりとなって、思いがけず、その先に知らない世界が広がっている
かもしれないではないか。
”隙”は、油断ではなく、機会の扉のことだ。白雪姫は、勘違いや人のいい思い込みではなく、
騙されやすく、まんまと罠に嵌ってしまったのでも、油断したのでもない。
そこに、白雪姫自身もまだ気づいていない魅力のヒントが隠されいる。
白雪姫自身の中にある無意識の”隙”を自己表現してみせることによって、運良く、魔女の
策略に嵌る機会を与えたからこそ、思いがけずとんでもない災難に遭い、その結果、思い
がけず幸福を手にすることができたのではないのか。

”隙”は、両刃の剣で、どんな災いを被るかもしれない、どんな幸福が待ち受けているかも
しれない。どんな芝居が始まり、どのような芝居の終わりを告げるのかわからない。
”隙”が、緞帳(どんちょう)の幕をあげる。静かに幕が開き、隠された舞台が現れ、観客
を誘い込む。
わずかな”隙”もなく、緊張の糸を張る姿を、魔法の鏡はなんと言うのだろう。
機会の扉を閉じたまま、僕をシャットアウトした後に残るものはなんだろう。そして、自分
を許すことなく、手に入れるものは何か。

いつか、君は、「世界で一番美しいのは誰?」と訊ねることがあるだろうか。御伽噺の世界
では、純粋無垢、疑うことを知らない白雪姫であっても、現実の中で、白雪姫は、いつまでも
白雪姫のままではない。
僕は、たぶん、おそらく、もう、君を見ることはないだろう。
君にとって、自己完結しながら”頑張ること”は、永遠に“あなた自身になる”ことではない
と思っているのだけれど。