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蝋梅や 一息ほどの 春を嗅ぐ           2011.2.27

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         いい匂いのする梅に似た黄色の花が咲いている、と聞き
         その辺りまで出かけていった。
         蝋梅だった。
         そっと近づけた鼻先に、水仙に似た上品な香りが漂った。
         春は近い。   

  蓑虫の哀れ

蓑虫という昆虫を最後に見たのはいつのことだっただろう。
木の枝にぶら下がっていて、細かな枯れ枝のようなものが巻きつき、生き物なのかどうかも
不明でなんとも不思議なものだった。それは初冬の頃だった。
小枝を器用に円筒形に細工した蓑の中に、何が入っているのか、たまたま見つけた蓑虫を
興味津々、蓑を指で押してみたことがある。指には、細い枝の硬さと空洞の殻の筒を潰した
感触が残った。

蓑虫は、ミノガという蛾の幼虫でミノガの仲間は数多く生息している。
今頃は、枯れ枝の蓑の中でじっと春を待って冬越しのまっ最中で、春になったら蛹になり、
蓑の殻を破って初夏の日差しの中で羽化してくる。
ミノガの雄は羽を持った蛾になるが、口がない。口がないということは、蛾になっても何も
食べられずに生きていくことを運命付けられているということか。

イメージ 1 [越冬する蓑虫]

生命の営みには、人間の意志を超越したところの、人に幸、不幸を与える力というものが存在
するものなのだろうか。その力によってめぐってくる幸、不幸によって、人々は一喜一憂し、
運命のめぐりあわせを感じ取る。
蓑虫も自分の運命をたどっているということなのだろうか。まさか、前世における善悪・苦楽
の結果として、今日の状態が宿命(しゅくみょう)として現れ出でてくるものなのかどうか。
蓑虫は、常に飢えと渇きに苦しむ前世の因果を背負い、餓鬼の世界からやって来たのか。
自分のことだけを考えていると、相手に深い嫉妬をしたり、他人のことを考えることもなくなる。
「ものおしみ」の慳 (けん)と「妬み」の嫉 (しつ)の煩悩を抱えた化身として現世に現れたのか。

蓑虫の雄の運命は、生まれ出で、ただ只管に雌を探し続けることなのだ。
夕日が沈む頃、雄は結婚飛行に出かける。運よく雌をみつけ、交尾をすると雄は死んでしまう。
蓑虫の雌には、空を飛ぶ羽はない。何処へでも自由に動ける足もなく、目もついていないの
だから、きっと、つぶらな瞳をコミュニケーション機能として働かせる必要もないのだろう。
眼を捨て去ってしまったので、個体間のアイコンタクトによる情報交換も、まなざしを感じて、
目と目を合わせ感情を表現することもない。外の世界からの何らかの刺激を受け取ったり、
それを情報とすることも、如何様に変換する仕組みも必要としない。
雌は芋虫のように蓑の中に籠もり、只管、フェロモンの匂いを出して雄を待ち続けるのだ。
ただ卵を産むためだけに、本当に”生む機械”となって、一生涯、外に出る事はなく蛹の殻に
入ったままで暮らす。

目の見えない雌は、自分の出したフェロモンの匂いに導かれてやってきた雄のミノガを信じて
いる。自分の出したフェロモンの匂いを頼りに辿り着いた雄のミノガならばそれでよい。
それはもう信じて疑わない、既に、選ばれし者だからだ。結びつけるものは、遠い祖先の遺伝子
の匂いであり、どんな信仰心よりも強い。
蓑虫は哀れでもなんでもなく、蓑虫を哀れと思う人間の方が余程哀れなものだろう。
眼を捨て去り、何の手練手管もない営み、蓑虫の人生が教えてくれるものは潔く気高い。

生物の細胞は、外界の変化を刺激として受け入れ、反応をおこす性質をもっているのに、
蓑虫は、刺激に対して反応しない細胞を作り出してしまった。それを退化させてまで獲得した
ものは、究極の子孫を残す知恵。
蓑虫は、フェロモンの匂いに誘われてきたものなら誰でもいいのか。誰でもない、あなたで
なければならないから、辛く悲しいのだが。
雌は蓑の中の蛹の殻の中で、無数の卵を産卵し、卵が孵化するまでわが子を見守り寄り添って
いる。やがて、卵が孵化してくるのを見届けるように、蓑の下に空いた穴から落ちて死んで
しまう。唯一度、外に出ることがあるのは、死の瞬間だけだ。

蓑の巣で生まれた幼虫達は、蓑の下の穴から糸を垂らして、風に乗って運ばれてゆく。
吹き飛ばされた梅、桜、桃などの果樹や、サツキの葉や小枝を捕まえて、そこで蓑をつくり
はじめる。この時、ヤドリバエがミノガの幼虫のところにやって来て食草の上に産卵していき、
ヤドリバエの卵ごとミノガの幼虫が食べてしまう。そしてミノガの体内からヤドリバエが羽化
することになる。蓑虫を取り巻く生態系の掟は片時も容赦はしない。

そういえば、ずいぶん昔、いつの事だったか、葉っぱの上をゴミのような変な形の生き物が
音もなく、もぞもぞと動いていたのをじっと見つめていたことを思い出した。それは、鳥や他の
昆虫、ヤドリバエの餌食にもならずにどうにか、生き延びた蓑虫だったのだろうか。
もぞもぞと動いていた蓑虫は、そんな偶然の成り行きも知ろうはずはなかっただろう。

私には、何処からともなく漂ってくる匂い物質を蓑虫のように嗅ぎ分ける嗅覚はあるだろうか。
そのような機能は、もう十分に退化してしまって役には立たなくなっているのだろうけれど、
それでも、何かのシグナルをキャッチしてみようとして、一生懸命に辺りの空気を吸い込み、
深呼吸してみるのだけれど。


 みのむしの 音をききにこよ 草の庵   -松尾芭蕉-

「天に召されたひとへ」            

 

  いまやわたしは夢の中にのみ生きる
  わたしが夜毎に見る夢には
  あなたの暗い目が光り
  あなたの足音が響き渡る
  永遠の流れのそばで
  あなたは透明な踊りを踊っているのだ

 

                    To One in Paradise(壺齋散人訳)

 

エドガー・アラン・ポーの詩「天に召されたひとへ」の一節を詠んでみた。
ポーが二十四歳の多感な頃のもので、「天に召されたひと」とは、恋人なのか、
架空の人か、人物像も不明である。
どちらにせよ、その心が砕かれる様を詠ったものであることはわかる。
すばらしい夢は長くは続かない。命の光が失われる時、ただ、呆然とするだけ。
自分が、天に召されたその人の中で生きた分、悲嘆の度合いも、悲しみも深い。

 

「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」
葬儀があった。
その最中、一度もお題目を唱えることはなかった。
人が天に召される時、その人と一緒に過ごした時間の記憶、その人から受けた影響の
大きさが大いに関わってくるように思えた。
会うことも無くほとんど離れて暮らしていたので、悲嘆に暮れることも、打ちのめされる
ような暗闇の底に突き落とされることもなかった。
はなはだしい話、会ったことも、聞いたこともない、知らない人の死は何も悲しくはない。
これで何人の人を敵に回すことになるのだろう。

 

本来、阿弥陀仏の願いは、往生極楽であること。安らかに死に、極楽に生まれ変わる
ことにあるという。つまり、ありがたいお題目を唱えることにより、安心を与えられ安心の中
に生きることにより真のよろこびを得て、その救いにひたすら感謝するものなのだろうが、
何の信心もない者にとっては、往生極楽も何も無いということだろう。

 

祭壇に掲げられた遺影は、私の知っている顔と何処か違っていたけれど、覗き見た死者
の顔は綺麗だった。
おくりびとによって死後に作られた顔だったのかもしれない。自分の顔も、死んでしまえば、どの様な顔なのかもわからない。どうでもよいことではないのかとも思ってしまう。
幼い頃、散歩に連れて行かれたことが記憶の底に見え隠れしていた。
遺影の顔は、「死んでしまえば、このとおり。」と言わんばかりに生前の在りし日を物語って
いるかのようだった。
人と人の時間は、ある時から重なり、死んでしまえばもうそれからは二度と重なることは
無い。抜け殻だけが此処にあって、二度と帰ってはこれない何処か遠いところに行って
しまったようだった。

 

死後の世界はいったいどうなっているのか。来世に楽園はあるのだろうか。
死後の世界の楽園のことなど無関係なことであって、そうしたことに無関心でいることが
心の平安ならば、それでもいいのかもしれない。本当は、死後の世界に想いを馳せること
にこそ、人が信じている宗教というものの根源があるように思うのだけれど。
私は今、死者と一番近い場所にいるのに、死後の世界や来世のことには何も考えが及ば
なかった。今ここにいる死者は、現世から一番遠い場所に行ってしまう。

 

お釈迦様の謂うとおり、諸行というものは、”縁起”によって現われ出てくるものなのか。
諸行とは、因縁が和合することによって生じる現象や一切の物事という。
因縁とは、物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。
すべての物事はこの二つの働きによって起こるとされる。

 

普段、自分を取り巻く小さな事柄に拘泥し、見ないように、感じないようにして、他のもの
とはほとんど無関係に、まったく無関心に振舞っている。
そうした日常の諸行というものが間接の条件となり、天に召されたその人の中で生きた
時間の記憶に直接作用して、その結果、人と人の時間もほとんど重なり合うこともなく、
悲嘆に暮れることも、暗闇の底に突き落とされることもない感情の塊がそれらの”縁起”
によって現われ出てきたものなのだろう。

 

他のものとは無の関係となり、無の関心の中で、自分を取り巻く小さな事柄に拘泥せざる
を得ないことこそが、諸行無常であり、来世の楽園を想って輪廻転生することは大いなる
夢となる。
この世の形ある一切の万物は、永遠なものは何ひとつと無く、無常なるものを抱えながら、儚い生命の”と或るもの”となって何者かによって生かしめている地上の「いのち」に生まれ変わる。吹き荒れる無常の嵐は、暫しも休むことなく、地上の”と或るもの”の「いのち」も
此処に留まることを許しはしない。

 

極楽は、西方にあるのか。死んだ人間は、この世で何に生まれ変わったのだろうか。
それから、死んだ人間は、あの世とこの世の間にある三途の川を彷徨っていくのだろうか。
霊魂というものがあって、生きている間は生命や精神の源として体内を駆け巡っているの
なら、死んでしまったら霊魂はどうなるのだろうか、死者と共にいるのか、体内から抜け出7すのか。
死んで霊魂が肉体を離れてしまえば、死者は地底にある黄泉(よみ)の国へ召されてゆく
だろうか。黄泉(よみ)の国へ行ったら死者の魂はどうなるのか。

 

イメージ 1 [エジプトの「死者の書」]

 

古代エジプトの「死者の書」に見た死者の審判の絵は、寓話の物語のような絵だった。
人は死ぬと、死者の裁きとして自分の心臓が天秤にかけられる。
下半身が河馬でライオンの鬣に、鰐の顔をしたアヌビスが天秤を持って待ち構えている。
天秤の左側に、真実の羽根が載せられ、右側には裁きを受ける死者の心臓が載せられ
ている。

 

霊の宿った心臓の重みで天秤の釣り合いがとれれば、葦の原野、アアルの野の楽園に
行くことができる。生前の悪事は心臓に染み出し、重くなった心臓で天秤の釣り合いが
とれなければ、天秤にかけられた心臓はアメミットという鰐の怪物に魂を食べられてしまう。
死の裁きを受けても、アアルの野の楽園に至る門を潜っただけで、トウシンソウ(燈芯草)の
咲く楽園はさらに遠い。

 

死んだ人間が、流れ回り巡り、何某かに生まれ変わるのは容易ならざることだ。
ましてや、阿修羅に生まれ変わらないとも限らない。死んでも、死者の裁きとして心臓が
天秤にかけられる。不幸にして鰐の怪物に魂を食われなければ、アアルの野の楽園への
門を潜ることができるが、楽園へはなお遠く茨の道が続く。
夢は長くは続かないとしても、命の光が失われる時、前世の不平等の天秤の釣り合いを
とり、あの世の世界との平等を計るのだろうか。

 

そうだった。「あの世」のことは誰も知らない。
生きとし生ける者は、誰も死んだことがない。
存在の謎。
さっぱりわけのわからないものを生きて死ぬこと。
その覚悟はあるか。
 
ゴータマ・シッダールタ
「つぎは、お前の番だ。」

 

南無妙法蓮華経。
南無阿弥陀仏。

「生物多様性」 彷徨えるホモ・サピエンス

 

<”命のユートピア”>
 
気がつくと、私たちは見渡す限りたくさんの生物に囲まれて生きている。
いったい地球上には、どれくらいの生物が生息しているのか。
わかっているだけでも約175万種、未知の生物も含めると3,000万種もの生き物が
生息しているらしい。
しかしながら、現在多くの野生生物が絶滅の危機に瀕していて、それは恐竜時代
よりはるかに速く1年間に約4万種のスピードで絶滅しているという。

絶滅危惧種の「レッドリスト」には、8,782種の動物と8,509種の植物が載っている。
そんな多様な生き物とのかかわりの中で「生物多様性」という言葉は馴染みにくく、どうも不可解でならない。地球上の命の連鎖を理解するためには、無理やり翻訳
したままのような言葉は、意味が伝わりにくい。

 

「ヒト」が、自然界の一員として存在していることを自覚し、周りの生態系の
有り様を理解してゆくことなのだが、地球の地べたに張り付いて生きていかざるを
得ない人間の因果か、すっかり人工の構築物に漬かりきって慣れてしまい、複雑な
人間関係の中で暮らしていると、尚更、「生物多様性」などということには無関心で、多様性などという事は見えずらく気づきにくいことなのだろう。それよりも、
人間は、ナメクジやトカゲとは違うのだと思っているのだから。

 

生きとし生ける生き物として、目の前の目に映るものを信じて生きていくしかない
のであるが、「ヒト」が、自然界の生物の一員として、人と人の間を離れ、この世
の有様を神の視座から俯瞰して眺めることができるようにならない限り、自然界の
営みを理解することは難しいことだろう。
 
恐竜が闊歩する中でじっと息を潜めて隠れ潜んで暮らしていた痕跡がどこかに残って
いるかもしれないが、ホモ・サピエンスにとって天敵がいなくなったことが最大のリスクをもたらしたのかもしれない。

 

井上ひさし氏は、『この人から受け継ぐもの』の中で宮澤賢治のユートピアを取り
上げていた。
魚や鶏、牛、生き物の命を喰らい生きている人間も、虫や魚や蝶も草や木も石ころ
も同じ世界で生きている命なのだ、生き物の命を喰らい生きていることを申し訳な
く思い、感謝すること。森羅万象の中で、森や木や花と語らい、その悲鳴を聞き、
あらゆる命が関わりあっているこの世に、人間だけが生きているのではない事を
悟り生きていくべきなのだ、と。

そして、宮澤賢治という人から受け継ぐものは、人類のユートピアそのものでは
ないだろうか、と思えた。賢治は「生物多様性」ということなど眼中になかった
だろうが、動物や虫たちと語らい、疾(トウ)の昔に、生き物の命の理を文学の
中でそれを捉えて伝えていた。
どうやら不可解な「生物多様性」という言葉で述べられていることとは、宮澤賢治
のあらゆる生き物と共に生き感謝する、”命のユートピア”そのものではないかと。

 

イメージ 1 [クラゲは何を見詰めているのだろう]
 
<僕はゴカイ、君はクラゲ>
 
遠い昔、地球が誕生した時、原始大気は、メタン、アンモニア、二酸化炭素に
覆われ、生命の影すらなかった頃から約40億年が過ぎた。
動物界・脊索動物門・脊椎動物亜門・哺乳綱・サル目(霊長目)・真猿亜目・
狭鼻下目・ヒト上科・ヒト科・ヒト属・ヒト種に属する、動物の一種である、
「ヒト」。
普段、人間は人間のことにしか関心を示さないが、地球上には、様々な生き物が
生息している。なぜそれらの生物が生息しているのか、ではなく、多様な生物が
生きていることの意味を理解していくことに、これから未来永劫、人間が生存して
いくために必要な智慧が潜んでいる。
 
生物の系譜を辿るとき、僕も君も、単純な単細胞生物だったし、君の円らな瞳は、
微生物の組織ととてもよく似ている。ゴカイやクラゲは、もっと僕たちに近い。
君が毛嫌いして叩き潰される運命にあるハエの遺伝子だって、なんといとおしい
類似をみせていることでしょう。

「あなたが眼を覗き込む時、ロマンスや創造や、魂の窓といったことは忘れて
ほしい。微生物や、ゴカイ、クラゲ、そしてハエの分子、遺伝子、そして組織から
由来した眼によって、あなたは、あらゆる動物を見ているのだ。」
ニール・シュービン『ヒトのような魚、魚のようなヒト』
 
君は、遥か遠い過去から受け継がれてきた遺伝子や他の生物と由来を同じくする
組織をもって、何を見詰めているのだろう。
私は、君の眼を覗き込む時は、ロマンスを想って見てしまうけれど、微生物や
ゴカイやクラゲ、そしてハエの分子、遺伝子と同じ構造を持っていることは想いも
よらないだろう。

僕はゴカイで、君はとても厭だろうけれど、クラゲなのだ。
だから、運良く君も僕も釣り餌にならず、海辺の砂の中で静かに息を潜めて
いれば、・・・ひょっとすると、また海の中で君に会えるかもしれないのです。

    銀河鉄道に乗って「ゾウの砂時計」を考える

                                         2011.1.6
 
旧年中は、「山屋の一日」をお訪ねくださり、どうもありがとうございました。
 
振り返ってみると、なんだか生きた心地のしない一年だった。
初めて北海道の山に行き、暴風雨に見舞われ、かちかち山の狸さながら、
命からがら、どうにか山から下りて来ることができた。
そんなにしてまで、どうしてそんな所に行くのか。・・・今は「そこに山が
あるから。」ということにしておこう。
でも、旭川のおばちゃんとは、もう少しお話したかったです。

 

時の流れは早く、急行列車に乗った時のように、駅のホームのおばちゃんの前を
通り過ぎ、もう、おばちゃんとは言葉を交わすことすらできない。
時は、容赦なく、無常にも私を乗せてレールの上を走ってゆく。何処にも止まら
ない急行列車に乗って。
 
旅から戻って、生きてある自分を取り戻し、日々時間に追われる人々を見るにつけ、ふと、そんな時間の感覚のことを想ったりしていた。そうした人の時間感覚の感じ
取り方が気がかりになり、「ゾウの砂時計」の中でそれを考えてみた。

誰にでも平等にあり、変えることのできない時間なのだけれど、ひょとすると、
それぞれの人の中を流れ去る時間の速さが違い、感覚も異なっているのではないか、と。その微妙な違いによって、人と人はすれ違い、別れや悲しみが生まれたり、
たまたま出合った時間の中で、束の間の喜びを味わい、一瞬間の感動に巡り会った
りするのではないか。
 
出会いや別れの時間の流れ去る速さが、ネズミとゾウほども違えば、時間感覚も
異なってくることだろう。でも、ネズミもゾウもそれぞれの寿命を全うして、一生
を生きた感覚というものは、どちらも変わらないということであるならば、神様は
公平に生物を創られたのだとも思うし、一生を生きた感覚がどちらも変わらない
のなら、敢えてネズミに”ゾウの時間”を勧めることも無いかもしれない。

やはり、私は、静かにゆっくりと、”ゾウの時間”を生きて、のんびりと時間がうつろう方を選ぶことにしようと思います。
 
イメージ 1 [銀河鉄道に乗って・・・]
 
さて、今年はどんな年になることだろうか。それよりも、どんな年にしたいの
だろうか。積極的に自分の時間に働きかけていかない限り、時間の心理的長さも
変化することはない。
ジャネーの法則のとおり、
「生涯のある時期における時間の心理的長さは、年齢に反比例」するだろう。
法則はこんな風に考えられる。50歳の人にとって1年の長さは、人生の50分の1で
ある。その1年の長さは、5歳の子供にとっては、5分の1に相当する。
50歳の人にとっての10年間という時間の心理的長さは、5歳の子供の1年間の心理的長さにあたる。つまり、5歳の子供の1日の時間の感覚は、50歳の人の10日分の時間の感覚に相当することになる。
主観的に記憶される年月の長さは、年少者にはより長く、年長者にはより短く評価
されるという現象を哲学者・ポール・ジャネは心理学的に解明したのでした。

 

どうやら、子供よりも大人になるにつれて、時間の流れ方が速くなっているよう
なのです。さらに、私たちの日常生活では、たくさんの現実の事象を見過ごして、
愉しい貴重な時間さえも、物事の短絡化、考え方の省略化によってショートカット
され、余計な雑念と共に無為に流し去っているらしいのです。
雨だれの一滴一滴に集中して、一瞬間を感じて生きていくようにすれば、そして
様々な物事に感謝と感動をしていれば、時の流れは自ずと緩やかになって、人生も
長生きできるというのだが、果たしてどうだろうか。
 
長生きしたからとて、何もすることがなく、時をもてあそび、砂時計をいじくり
まわしているのだろうか。そうして時の流れを見詰めて退屈な時間を過ごすことも、今では贅沢で素敵なことかもしれません。
砂時計をひっくり返しさえしなければ、砂は落ちてゆくことはなく、時は止った
ままでいてくれます。

時々、時の止った砂時計を思い出して、時の夢を見てユートピアの中を散歩して
みたいものです。
 
どうか、今年も良い年でありますように。
 
   -「山屋の一日」-