いまやわたしは夢の中にのみ生きる
わたしが夜毎に見る夢には
あなたの暗い目が光り
あなたの足音が響き渡る
永遠の流れのそばで
あなたは透明な踊りを踊っているのだ
To One in Paradise(壺齋散人訳)
エドガー・アラン・ポーの詩「天に召されたひとへ」の一節を詠んでみた。
ポーが二十四歳の多感な頃のもので、「天に召されたひと」とは、恋人なのか、
架空の人か、人物像も不明である。
どちらにせよ、その心が砕かれる様を詠ったものであることはわかる。
すばらしい夢は長くは続かない。命の光が失われる時、ただ、呆然とするだけ。
自分が、天に召されたその人の中で生きた分、悲嘆の度合いも、悲しみも深い。
「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」
葬儀があった。
その最中、一度もお題目を唱えることはなかった。
人が天に召される時、その人と一緒に過ごした時間の記憶、その人から受けた影響の
大きさが大いに関わってくるように思えた。
会うことも無くほとんど離れて暮らしていたので、悲嘆に暮れることも、打ちのめされる
ような暗闇の底に突き落とされることもなかった。
はなはだしい話、会ったことも、聞いたこともない、知らない人の死は何も悲しくはない。
これで何人の人を敵に回すことになるのだろう。
本来、阿弥陀仏の願いは、往生極楽であること。安らかに死に、極楽に生まれ変わる
ことにあるという。つまり、ありがたいお題目を唱えることにより、安心を与えられ安心の中
に生きることにより真のよろこびを得て、その救いにひたすら感謝するものなのだろうが、
何の信心もない者にとっては、往生極楽も何も無いということだろう。
祭壇に掲げられた遺影は、私の知っている顔と何処か違っていたけれど、覗き見た死者
の顔は綺麗だった。
おくりびとによって死後に作られた顔だったのかもしれない。自分の顔も、死んでしまえば、どの様な顔なのかもわからない。どうでもよいことではないのかとも思ってしまう。
幼い頃、散歩に連れて行かれたことが記憶の底に見え隠れしていた。
遺影の顔は、「死んでしまえば、このとおり。」と言わんばかりに生前の在りし日を物語って
いるかのようだった。
人と人の時間は、ある時から重なり、死んでしまえばもうそれからは二度と重なることは
無い。抜け殻だけが此処にあって、二度と帰ってはこれない何処か遠いところに行って
しまったようだった。
死後の世界はいったいどうなっているのか。来世に楽園はあるのだろうか。
死後の世界の楽園のことなど無関係なことであって、そうしたことに無関心でいることが
心の平安ならば、それでもいいのかもしれない。本当は、死後の世界に想いを馳せること
にこそ、人が信じている宗教というものの根源があるように思うのだけれど。
私は今、死者と一番近い場所にいるのに、死後の世界や来世のことには何も考えが及ば
なかった。今ここにいる死者は、現世から一番遠い場所に行ってしまう。
お釈迦様の謂うとおり、諸行というものは、”縁起”によって現われ出てくるものなのか。
諸行とは、因縁が和合することによって生じる現象や一切の物事という。
因縁とは、物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。
すべての物事はこの二つの働きによって起こるとされる。
普段、自分を取り巻く小さな事柄に拘泥し、見ないように、感じないようにして、他のもの
とはほとんど無関係に、まったく無関心に振舞っている。
そうした日常の諸行というものが間接の条件となり、天に召されたその人の中で生きた
時間の記憶に直接作用して、その結果、人と人の時間もほとんど重なり合うこともなく、
悲嘆に暮れることも、暗闇の底に突き落とされることもない感情の塊がそれらの”縁起”
によって現われ出てきたものなのだろう。
他のものとは無の関係となり、無の関心の中で、自分を取り巻く小さな事柄に拘泥せざる
を得ないことこそが、諸行無常であり、来世の楽園を想って輪廻転生することは大いなる
夢となる。
この世の形ある一切の万物は、永遠なものは何ひとつと無く、無常なるものを抱えながら、儚い生命の”と或るもの”となって何者かによって生かしめている地上の「いのち」に生まれ変わる。吹き荒れる無常の嵐は、暫しも休むことなく、地上の”と或るもの”の「いのち」も
此処に留まることを許しはしない。
極楽は、西方にあるのか。死んだ人間は、この世で何に生まれ変わったのだろうか。
それから、死んだ人間は、あの世とこの世の間にある三途の川を彷徨っていくのだろうか。
霊魂というものがあって、生きている間は生命や精神の源として体内を駆け巡っているの
なら、死んでしまったら霊魂はどうなるのだろうか、死者と共にいるのか、体内から抜け出7すのか。
死んで霊魂が肉体を離れてしまえば、死者は地底にある黄泉(よみ)の国へ召されてゆく
だろうか。黄泉(よみ)の国へ行ったら死者の魂はどうなるのか。
[エジプトの「死者の書」]
古代エジプトの「死者の書」に見た死者の審判の絵は、寓話の物語のような絵だった。
人は死ぬと、死者の裁きとして自分の心臓が天秤にかけられる。
下半身が河馬でライオンの鬣に、鰐の顔をしたアヌビスが天秤を持って待ち構えている。
天秤の左側に、真実の羽根が載せられ、右側には裁きを受ける死者の心臓が載せられ
ている。
霊の宿った心臓の重みで天秤の釣り合いがとれれば、葦の原野、アアルの野の楽園に
行くことができる。生前の悪事は心臓に染み出し、重くなった心臓で天秤の釣り合いが
とれなければ、天秤にかけられた心臓はアメミットという鰐の怪物に魂を食べられてしまう。
死の裁きを受けても、アアルの野の楽園に至る門を潜っただけで、トウシンソウ(燈芯草)の
咲く楽園はさらに遠い。
死んだ人間が、流れ回り巡り、何某かに生まれ変わるのは容易ならざることだ。
ましてや、阿修羅に生まれ変わらないとも限らない。死んでも、死者の裁きとして心臓が
天秤にかけられる。不幸にして鰐の怪物に魂を食われなければ、アアルの野の楽園への
門を潜ることができるが、楽園へはなお遠く茨の道が続く。
夢は長くは続かないとしても、命の光が失われる時、前世の不平等の天秤の釣り合いを
とり、あの世の世界との平等を計るのだろうか。
そうだった。「あの世」のことは誰も知らない。
生きとし生ける者は、誰も死んだことがない。
存在の謎。
さっぱりわけのわからないものを生きて死ぬこと。
その覚悟はあるか。
ゴータマ・シッダールタ
「つぎは、お前の番だ。」
南無妙法蓮華経。
南無阿弥陀仏。