安全神話の終焉          2011.4.7

3月11日発生した東日本大震災は、福島の原子力発電所も被災し、水素爆発を起こして、
あってはならないはずの放射能漏れ事故が起きている。
福島の原子力発電所から爆心地のように示された放射線漏れによる汚染が危惧される
同心円は、不気味な広がりをみせている。

世界で唯一、原爆を落とされ、人類史上かつてない深刻な被爆を経験した国民が、今また、
自ら作り出した原子力施設の事故によって被爆し放射線の脅威に晒されている。
暴走を始めた原子核反応の影響は、農産物から魚介類に及び、水道水まで放射線に汚染
されてしまった。食の安全どころではなく、原子炉から流れ出た放射線が空から降り注いできた。
飛行機に乗っていても、X線検査でも放射線を浴びているのだから、「ただちに人体に影響を
与えるものではない」と釈明している。危険な状態に晒されている国民は、疑心暗鬼と化して
しまう。

原子核反応のエネルギーを選んだ代償は、原発神話では"起こるはずの無い"事故により、
水素爆発と放射性物質が漏出した原子炉に命がけで立ち向かわねばならないことだった。
それを”英雄”と言った。声援などしない。誉めそやしている猶予などまったくないはずだ。
”英雄”でありたいならば、垂れ流される放射性物質の息の根を止めるまで戦え。
まるで手に負えなくなった駄々っ子をなんとかあやし、なだめようとしているようにもみえる。
駄々っ子ならお仕置きすればいいが、手に負えなくなった原子炉の末路は悲惨なメルトダウンだ。
電気を作り出す技術として、原子核反応のエネルギーの設備は、莫大なエネルギーを
生み出すとしても、人類の発電設備としては不適格だったのではないか。
人類の科学・技術の塊でもある原子炉施設からは、次々に異常事態が発生し、まるで制御が
利かなくなった悪魔の玉手箱をみているようだ。

物事は、自分の目で見て考えて判断することなのだが、現場に近づくこともできず、その対象物
は目にも見えない。当事者は、次々に発生する原発の異常事態に手を拱き、一つの事故を取り
繕っているうちに、次々と原子力施設の爆発を招いてしまった。
一度ならずとも、二度三度と爆発を繰り返した。原発神話が音をたてて崩れていった。
さらに、原子力施設に6基もの原子炉があったのかと、無知と無関心さを今更ながら気付き驚
かされた。
電力会社の驕りは、一つの原子力発電所で6基もの原子炉を抱えることで頂点に達してい
た。いくつもの原子力施設の異常が同時に発生することなどまったく想定していなかったに
違いない。とうとう想定外の異常事態に対処できず、なんとも無力な有様をいやというほど
見せ付けてくれた。自ら作り上げた科学・技術に翻弄され、押しつぶされようとしている哀れな
姿は、安全神話を信じていようがいまいが、無防備な人々を路頭に迷わす羽目になった。

情報システムの世界では、万全を尽くしたと思っても、性懲りもなく相次ぐ不具合が発生する。
大規模システムがシステムダウンし「動かないコンピュータ」になってしまう失敗の原因が
解き明かされたりしたが、「動かない原子炉」どころか放射性物質を撒き散らす「止まらない
原子炉」になってしまった。
危険極まりない施設を太平洋の荒波が打ち寄せる海岸の至近距離で杜撰に稼動させていた。
私たちの便利で明るすぎる生活も、危険な施設をサーカスのように運転していた原子力発電所
に支えられていた。さらに悪質極まりないことは、緊急措置という名のもとに、放射性物質に
汚染された水を海に垂れ流してしまった。もはや、化けの皮を剥がされた公害企業そのもの
前代未聞の仕業をやってのけた。

水と空気と土を汚すものは悪である。そのようなものを造り続け、原子力政策を推進し続けて
きた機関、政治家と独占的営利企業を支えた人々の罪は、万死に値する。
膨張した人間社会を支える安全神話で固められた砂上の楼閣は、原発の神話を実しやかに
語ってみても、不都合な真実が露呈した今は、誰も信じる者もいない。

イメージ 1 地球の夜景  NOAAの衛星画像より

宇宙空間から見た地球上の日本列島の画像は、真っ暗闇の宇宙空間に煌き輝いていた。
電気のない生活はもはや考えられなくなってしまったが、あまりにも電気の恩恵に浸かり過ぎ
てしまったのかもしれない。スイッチポンの電気暮らしを持て囃し、踊らされた消費者の電力
需要をさらに喚起し、知らないうちに原発は何基も増築され、電気を使い放題の便利な生活
と引き換えに、放射能の危険に晒され、生命が質草に取られていたことも知らずに居た。

もはや私たちは、電気がないと暮らせなくなってしまったのだろう。停電したら、どうして生活
していったらいいのやら困るばかりで、電気の無い生活をするその術を知らないことに自分
ながら驚かされる。
電気がないと生活出来なくなってしまった現代人は、これからどうやって生きていくのか。
目先の日々の暮らしは一体どうしたらいいのだろうか。
人よりも先に燃料や食料、水を買いだめて置くことで満足と安心を手にするのか、地震や津波、
放射線のリスクがありそうな所からは、ひたすら逃げまくり続ける生活をするのか、自然の
エネルギーを巧に利用して計画停電とは無縁な暮らしを始めるか。それとも、じっとこのまま、
放射能の見えない恐怖に怯えながら蹲っているのか。

電気の無かった縄文の時代にも人間の暮らしはあった。縄文の人々よりも、現代人は、豊かで
幸せな暮らしをすることができるようになったのだろうか。闇夜の無い街や、危険がいっぱい
で、いつも生命の危機に晒らされながらびくびく暮らしていくことが、地球上で生きる生命体
として、それを進歩や進化とは思えない。
放射能汚染が広がる中、行方不明の妻と子供を捜すご主人の言葉には、誰が回答するのか。
「原発なんかいらない。家族が一緒にいられればそれでいいんです。」

将来、生活そのものの存続が困難になるリスクは、何千、何万倍にもなった。
電気料金を払えばいつでもいくらでも手に入る、快適で便利な生活とは裏腹に、現代の負の力
の恐怖をまざまざと見せ付けられた。私たち人類は、根本的な生活のあり方と電力をどのように
作り出すか、意識の変革と発想の大転換を迫られている。

ある時、馬の尻尾の毛1本で頭上に吊されたダモクレスの剣に気付くことがあるだろうか。
幸福の隣には、いつも危機や危険の影が寄り添う。
人は、またいつか明かりが点くようになれば、そんなことはすっかり忘れてまた元の生活に戻って
しまうだろうけれど。
天災は、いつか諦めることはできるかもしれないけれど、人災によって国民を悲観の底に貶めた
大罪は免れようも無く決して忘れられることはない。

東日本大震災と私              2011.4.6

平成23年3月11日。巨大地震と津波が東北関東地方を襲った。
唖然とする被災地の惨状と死者行方不明者の数が尋常ではない。
賢治の理想郷、イーハトーブが大変なことになっている。
賢治のふるさとを是非、訪れて見たいものだと思っていたが、もう叶わないのかもしれない。
小学生の頃、弟と疎開のようにして訪ねていった岩手県だった。
北上川の花火を見、毎日、一日中外で遊んで、とうもろこしをお腹いっぱい食べた。
田舎のない私にとって忘れられぬ夏休みだった。今はおじさんも伯母さんも、もういない。

地震当日は、職場にいた。自然の猛威の前には成す術もなく、不気味に軋み、揺れ動くビルの
階段をただ、慌てて降りていくだけだった。首都圏の電車はすべて止まり、例に漏れず、帰宅
困難者となってしまった。一夜を過ごした職場では、他人の鼾と硬い椅子のベッドで一睡も
できず、たった一晩泊まっただけで、体中が痛く体調がおかしくなってしまった。察する所、
避難所の生活はどれほど辛いものか。
人間は、地震を止めることはできない。街のビルの中にいようと、村の畑にいようと、山の中
にいようと、人は、大自然の中でいつ揺れ動くかもしれない大地の上で、か弱い生物として
日々暮らしているのだ。そんなことを改めて感じ入っていた。

イメージ 1 [平成23年3月11日]

そういえば、山で出会った福島のご夫婦は無事だろうか。ご自宅は、安達太良山の見える
二本松あたりか、いわきかもしれない。それ以外お互いに何も確認しあったわけではなく、
こんな大震災が起こっても、それ以上どうにも確かめる術もない。福島のご夫婦とは、飯豊
(いいで)連峰のダイクラ尾根を一緒に同行させてもらった。
真夏の暑い日差しの照りつける中、長い長い急峻な尾根を辿っていった。
健脚なお二人は常に先を歩かれ、時折、へばってやしないか、私を気に掛けてくれていた。
奥様は、若い頃、あのダイクラ尾根を登って来たというから相当の山屋だったのだろう。
それを後から静かに見守りついていくご主人。登山は、あまり得意ではないのだろうが、終始、
奥様を気遣うその様子が、ご一緒した山歩きを通して、これからの自分の夫婦のあり方を自然と
教えていただいたように思う。

無情の被災地の姿が報道される度、まるで焼け野原のような被災地の光景の中を逃げ惑って
いたのか、蔓延する放射線の中で何処かに避難されているのか、何処でどうしているのか、
果たして無事なのかどうか。
被災地の人達が、親子、兄弟など行方不明の人を探す心情が少しばかりわかったようにも思う。
福島のご夫婦は、本当にどうしているのだろうか。

強制的な計画停電とやらで、街は薄暗く、職場も俄か節電で消灯して物が見えずらい。
暗さは、心が荒んでいくことを知っているのだろうか。
きっとまた、人はこの暗さと、この不自由さに慣れていく。

房総  人骨山 (ひとほねやま)293m        2011.3.5

  大崩 ---- 畑集落 ---- 人骨山分岐 ---- 人骨山 ---- 大崩

この山を見つけ、興味をもったのは、図書館から借りてきた「房総のやまあるき」という本だった。
以来、関心が失せてしまうことも無く、行ってみたいと思っていながらなかなか出かけていく
機会がなかった。それより、これほど異様な山名の山に気後れして腰が引けていたのだろう。
不思議な山名からは、何かしら悪い印象しか残らず、至る所に人骨が散乱しているかのような
想像すらしてしまう。

山に名前をつけるときには、その山の目印的な特徴なり、風土や風習の影響を受けていると
思うのだが、憶測として、この山に不気味な名前をつけておくことで、山間の奥まった土地の
集落に、容易に人を近づけないための魔除けのようなものなのかもしれない。
兎に角、恐ろしく怖いことには変わりが無い。
人骨山は、麓まで近づいて行くと、同じような山姿をした山が隣にもあって見間違ってしまう。
同じような山姿でも片方は人骨山と命名されており、もう一方は無名峰だ。やはり、この特異な
山名には、何か謂れがあることは間違いない。

イメージ 1 [人骨山へ続く谷間]

入山の道は、直接、人骨山へは向かわずに、人骨山と別山(無名峰)の谷あいに入っていく。
麓からの道は、目の前の人骨山へ続いているように思われ、そちらの道の方へ引き込まれていきそうになる。集落の谷間には田圃があって、其の分、山道は思いのほか明るい。
吼えながらついてきた犬としばらく一緒に歩いていた。桃太郎も鬼退治にこんな風に犬と歩いた
のだろうか。そんな桃太郎気取りの勇ましさとは別に、何か得体の知れない所へ出向いていく
ことの不安な気持ちが治まらなかった。

よくわからなかったのは、何故、この山が人骨山といい、姥捨山であるのかということだった。
この人里離れた山奥の集落には、「人骨山の鬼伝説」があって、昔、人骨山に鬼が住んで
おり、節分の頃になると、麓の集落の娘が鬼の生贄になっていたというのだが。
何人食ってしまったのか、山は人の骨で埋まり、そこには何年も木が生えてこなかったという。
この山のさらに奥の奥山には、人骨山に老人を捨てる姥捨の伝説があって、姥捨ての老人が
鬼と化したという物語りもある。

姥捨ての伝説は各地に残っている。
信州の更級(さらしな)にある姨捨山(おばすて)の地名の謂れは、大和(やまと)王権の
豪族支配の氏姓(うじかばね)制度にまで遡りそうだ。
山の麓に小長谷皇子を祭る、この土地の豪族が小長谷(小初瀬)で、小長谷の名前の
”おはつせ”の発音がなまって変わり、地名としての”おばすて”が呼び慣わされたという
ことだろうか。

長野県千曲市聖高原の猿ヶ馬場峠は、信州の峠越えの難所で、旅人に何かあれば屍は
そのまま路傍に晒されていた。麓の千曲川縁には、姨捨”おばすて”の地名が残っている。
身元不明の人の骸を集めて弔った場所を”初瀬”といったから、豪族の名の名残か。
そもそも、老人を捨てるという風習については、疑いをもつより、古くから執り行われて
いたのだろう。姥捨てのことは、「雑宝蔵経」という仏教経典の説話にもあり、「今昔物語」
にも昔話として登場している。
人の死と隣り合わせの、屍を晒される場所が”おばすて”であり、それは人里はなれた山中に
ある。それが棄老する風習と結びついて、姥捨山となったのだろう。
山そのものを墓地として使っていたとすれば、集落の裏山は遺体を葬る格好の場所になる。
この山が遺体を葬る墓地(おはつせ)だったとしても頷けそうだ。

姥捨ての昔話には、山の神から打ち出の小槌を授かるご縁のことや蛇の雌雄を見分ける方法
を”老人の知恵”が解き明かす件がある。それは、老人を捨てるという風習、悪しき伝説の
戒めとして作用しているように思う。難題を解く”老人の知恵”が、老人を姨捨から救い上げ、
敬いの対象として、悪しき風習を食い止める罪滅ぼしの楔のようにして利いている。

イメージ 2 [人骨山から見えた富士]

人骨山への道は、農業用水を通り越し、さらに人骨山の谷間の小高い尾根に取り付く。
佐久間ダムの方面に通じている山道を分けると、ようやく農家の裏山のような人骨山へ登って
いくようになる。
”老人の知恵”を絞り、難題を解きながら伝説の山を歩くのもいいが、山の赴きに浸り、
現在地の確認に少し気を抜くと、気づいた時には山の裏側の迷い道に入り込んでしまっていた。
山の踏み跡は、自分たちの山仕事のために山道を整備しているのであって、登山者のために
登山道の整備をしたわけではない。それをいいように解釈して、崖崩れになった登山道が整備
されていると思い込み、間違った方向に歩いていってしまった。さらに咲き終わった水仙畑が
続いていることに気をとられて、人骨山の山頂への取り付きを見落としてしまった。普段よりも、
地図とコンパスを駆使していたにもかかわらず、いとも簡単に現在地をロストしてしまった
ことが悔やまれた。

だんだん道も怪しくなり、藪の中で踏み跡も消えていた。急に心細くなりながら一段上の小尾根
に上がってみた。見通しは幾分よくなったものの、元の場所に戻ろうにも藪の中で踏み跡もない。
獣も鳥の鳴き声もしない。虫もいない。人骨山には私一人だけだった。
辺りは、千葉特有の藪の森だ。迷い込んだとしても、こんな怖い名前の山などに誰も来はしない。
とうとう此処まで来て人骨山には登れないのか、このまま、人骨山を彷徨歩き、本当に人骨に
なってしまうのか、厭な予感ばかりが湧き出してきた。

イメージ 3 [山頂から富山、伊予ヶ岳]

地図とコンパスで戻る方向を確認して、藪の中をしばらく戻っていくと元の道に合流した。
間違えたのは、踏み跡の濃い方へ何の躊躇いも無く、進んでしまったことだった。
正し道は、来た道を折り返すようにして、上の尾根に取り付き山頂に向かうはずだった。
これを見逃して、踏跡の続くままに進んでしまったというわけだ。
これだけ地図とコンパスで気にしながら歩いていても道を間違えるのだから、直登してしまった
方が無難なのかもしれない。それでも伐採された樹木と藪でさぞかし困難を極めることだろう。

恐る恐る辿りついた山頂は、展望を確保するために伐採され、陰気な悪名を挽回するかのように
明るく開けていて、見渡す遥か彼方には、真っ白な富士の高嶺が聳えていた。
鬼の山姥が住んでいたという伝説の山に登れたことがいやに嬉しかった。
山頂は思いのほか明るく、風も弱まり穏やかな山頂からは、鋸山の上に聳え立った真っ白な
富士を正面に見て、富山、伊予ヶ岳、嵯峨山と登ったことのある房総の山々を展望することが
できた。

帰り路、思いがけず、足元に見つけた蕗の薹を摘んで早春の息吹を感じ取っていた。
養老渓谷温泉に立ち寄り、黒湯に浸かり今日の山旅の疲れを癒して山屋の一日を終えた。

房総 津森山 (336m)            2011.3.5


大崩---- 畑集落 ---- 法明峠 ---- 津森(守)山 ---- 法明峠 ---- 人骨山分岐

千葉の里山歩きは、手軽に長閑な雰囲気を味わいながら歩ける反面、山道は、すぐに迷い道
となる。あまり特徴のない山並みを山座同定することはなかなか難しく、似たような風景の中
を歩き回っているような錯覚すら抱くことが多い。
山道といっても、そこは、生活道路と山仕事の道、獣道が入り組んでいて、有名な山々の
ように登山口も明確ではなく、登山者のために道標が整備されているわけではない。

行きたいところの地図を開けば、何処ら辺りか見当はつくものの、気軽さとは裏腹に、いざ、
地図を片手に歩き出してみると、登山道の入口から戸惑い、どちらへ歩き出したらよいか途方
に暮れることにもなりかねない。そんなことにならないためには、常に現在地とルートの確認
が重要で、地図読みの判断力がいつも試されるのだろうと思う。

イメージ 1 [咲き残っていた水仙]

津森山(つもりやま)は、大崩(をくずれ)の里の水仙郷からさらに奥まった所にある。
水仙は1月中旬から咲き出し、郷の何処もかしこも水仙で埋まるほどだ。3月の声を聞いても、
寒い日が続いたので、もしや、まだ咲き残っているかと仄かな期待をしていた。その期待は
裏切られることはなく、ほんの少し所々に水仙が数輪ずつ咲き残っていてくれた。

津森山は、地元では津守山といい、地図上の地名と呼び名の違いがわからない。
津守とは、津を守る人、港を守る番人の意味を持つらしく、熊本県上益城郡にある津森神社の
由来には、「往来此の辺りは入り海の津でしたが、神武帝の霊体出現時より、たちまち森と
なり、此の地は 「津森」と言われ宮所の名となっています。」とある。
これは、熊本の津森神社の由来であって、入り海の津であるところに、何かの霊体が出現して、
それよりたちまち森となった、というような雰囲気はあるものの、津森神社の謂れとの関連は
なさそうだ。果たして、津森山は、”入り海の津”で、そのような港を守る番人の守り神
として”津守山”と名付けたのだろうか。

「千葉懸誌」には、積(つもり)山とあり、『養老年間 総国より安房国を分ちし時、この山嶺に
登りて分界を見積もれリ。故に見積山の称あり』と記される。安房国の境界線を見積ったことが
山名の由来のようだ。私は、”港を守る番人としての守り神としての津守山”の方が好きだ。

イメージ 2 [人骨山から見た津森山]

これから訪れる春の期待感も、とっくに盛りを過ぎ、所々咲き残った水仙を名残惜しそうに
見つめながら歩くことで、かろうじてその気持ちをつないでみることができた。
たくさんの花々に囲まれて花園に居てみるのもいいが、いくつか咲き残る水仙の花の香りは、
間違いなく季節が移ろう甘く優しい早春の香りそのものだった。

凍りついた里山の道は、山懐に入り組んでいてなかなかわかりずらい。
山仕事の道、生活道路が混在して取り付く登山道が把握できない。案内板も、道案内の標識も
ない山を歩いてみることはあらためて山歩きのいろはを痛感させられた。
地図とコンパスを両手に持って、いつでも眺めて確認できるようにしていた。地図を手に持って
いる邪魔くささよりも、道迷いの恐れの気持ちの方が強かった。いつもこうして確認していくことが
重要なのだが、現在地確認、進路方向の確認を今までずいぶん曖昧にしてきたものだと思う。

峠からの眺めは、山里が盆地のように広がり、長閑な水ノ台の集落が見えた。その先の左手
奥が津森山だ。廃屋の集会所の先で人骨山への分岐がある。さらに林道を辿り、法明峠に出る
と目の前が開け、また同じように長閑な法明の集落が広がっている。
急坂の狭い山道には不釣合いな鳥居のある御嶽神社で道中の安全を祈願する。 御嶽神社は、
この山の神様でもある。一休みしたくなるようなカヤトの草原をとおり、此処からひと登りすれば
津森山の山頂にに出る。

イメージ 3 [山頂から富士を望む]

山頂には、麓の富士講により建てられた木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と御嶽、
金比羅の神様の碑がある。山頂は、風もなく穏やかだった。
西の尾根伝いに行った山頂からの眺めはすばらしく、第一に、鋸山の刃の上に富士を配し、
太平洋から続く相模湾が細長い入り江のように続いていた。蜃気楼のように続く島並みは、
城ヶ島から三浦半島へ延びて、横浜の市街地まで望むことができた。

早春の富士は、まだまだ厳冬の厳しさを秘め、気高く、気品があった。この頂から眺めていると、
遠く海原を見渡せ、出入りする船までは見えないものの、「港を守る人。津を守る番人」の意も、
まんざら捨てたものではないような気がしてくる。

房総半島から漣のように連なる山々と、海を越えて眺める富士の姿が、私の今の気持ちに
すんなりと溶け込んでいた。
真白き富士の高嶺を飽きる程眺めて、誰もいない津森山の山頂を降りていった。
翌々日は、関東南部の沿岸を低気圧が通過し、季節が逆戻りしたかのように”なごり雪”
となった。
98

蓑虫を 哀れと想う 我哀れ

イメージ 1 [蓑虫を生きる] 
2011.2.27

        
       しばらく、蓑虫のことを考えていた。
       ミノガの雄は羽を持った蛾になるが、口がない。
       何も食べられずに生きていくことを
       運命付けられているのか、と思ってしまう。
       蓑虫の雌には、空を飛ぶ羽はない。
       何処へでも自由に動ける足もなく、
       目もなく、何も見ることは無い。
       
       蓑虫の命を繋ぐために、蓑虫を生きるということは、
       そういうことである。
       私はそれを不憫で、哀れ、と思っていた。
       蓑虫は哀れでもなんでもなく、
       蓑虫を哀れと思うことの方が、余程哀れなものだろう。