第九回「山陰で鬼退治」③ | 道草days

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まだまだ知らない”日本”に出掛けてみませんか?

 

続いては三の丸や二の丸…と、行きたいところですが。

 

 

現在(2019.8.12)、立ち入り禁止って事なので見える範囲で二の丸・二ノ門の説明をしておきます。

 

 

この門は城内に2つしかない櫓門の内の1つで唯一枡形を採用した門。(つまり最も防御に力を入れた箇所)

 

 

特徴としては櫓門の内側に枡形がある事。

 

僕なんかの素人からすると櫓門の外側に枡形が無いと効果薄くない?と思っちゃいますが、これはこれで曲輪に入って来た敵の進路を阻んだり、門を開けてもこちらの作戦がバレないなど色々と効果があるようです。

 

 

次は本丸の西側に出っ張った曲輪・出丸。

 

 

一体、どんな機能がある曲輪なのか?絵図をよーく見てみると ハッ びっくり 二ノ門の横矢!

 

 

更にもう1つの絵図を見てみると、出丸木戸から浜田川方面に延びる道が。

 

これを想像で辿っていくと… キョロキョロ (船蔵!?つまりこれって)

 

脱出の為の曲輪!船 ランニング

 

 

状況的に二ノ門まで敵が来るってかなり追い込まれてる状況だし、本丸は1箇所しか出入口がない。(二ノ門が突破されたらアウト)

 

二ノ門に手厚い防御を敷いたのは時間を稼ぐ為でその間に出丸から船蔵へ向かい浜田川→松原湾→日本海へ逃げれるという算段だったかもしれませんね。

 

 

 

最後は一ノ門から本丸。

 

 

 

本丸には天守台というよりは基壇を設けた三重櫓(天守)があったようです。

 

 

この天守があった場所から見えるのが大麻山(右端の一番高い山)。

 

あの山が第二次長州征伐・石州口の戦いで浜田藩が長州藩と激突した場所になります。

 

 

 

過激な攘夷運動から天皇の怒りを買い、京を追い出された挙句、禁門の変(御所に向け発砲した事件)を起こして朝敵になった長州藩。

 

朝廷からの勅命を受けた幕府軍は大軍を以って長州に迫り、降伏条件を提示。長州藩がこれを飲む事で何とか武力衝突は回避されます。(第一次長州征伐)

 

攘夷派を排除し、一時は幕府に恭順する意向を示していた長州藩ですが、再び攘夷派が実権を握ると、薩摩と同盟を組み、今度は外国に対する強硬な姿勢(攘夷)を封印して倒幕と天皇中心の中央集権国家の構築を目指し、再び挙兵。

 

 

反旗を翻された幕府は再度征討軍を編成し、長州を四方(小倉口・石州口・大島口・芸州口)より攻めます。(第二次長州征伐)

 

その内、石州口を担当したのが浜田藩+福山藩などの諸藩。

 

 

数では圧倒的に勝る幕府軍でしたが、薩摩を介して手に入れた新式の銃を装備し、西洋兵学を導入した大村益次郎率いる長州軍の前に完敗。

※散兵戦術…これまで隊列を組んで一斉射撃を行っていた従来の戦術(数撃ちゃ当たる)から一人一人の命中精度の向上によって個人や少人数での行動が可能となり、常に移動しながら(相手に的を絞らせない)、物陰に隠れながら(死角からの射撃)の攻撃を行えるようになった。

 

浜田藩は自焼退却という道を選び、城は空を焦しました…。

 

 

 

 

その後、藩主は飛び地の鶴田(美作国)に逃れ、浜田は長州に占領されます。

 

いつの日かと再興を誓った藩主でしたが、その瞳に松原の海が映る事は二度とありませんでした。