主観、つまり好き嫌いから解放された目であらためて野球を見てみると、それまで受け入れることを拒んでいた他の選手の美点を、好意を持って受け入れることができるようになっていた。そう、偏見を捨てることができたのである。それまで、色眼鏡でしか見られなかった王のホームランが、芸術的な美しさで目に飛び込んでくるようになっていた。そうなのだ。それまで理想としていたもの、長嶋の中に夢見ようとしていたもの、それらを王貞治が実現させているではないか。目が開いたのである。
一方、それまでの教祖、長嶋はといえば。申し訳ないことではある、それまでがあまりにも美化されていたがゆえに大きな反動を受けることになる。以前は、えくぼに見えていたアバターが正直に、いや、それ以上に増幅された欠点となって映り出されてきたのである。それがいわゆる長嶋語録と呼ばれる名(迷)言の数々であり、そして、私にとって本当につらく情けなかったのがあまりにも多い併殺打であった。